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石井十次の功績に触れる

 しろです。
 少し前の、社会福祉士の国試が終わって、「なんもしたくねえ」な状況から、ちょっとずつ現実に向けて、重い腰を挙げかけております。

 さて。
 国試が終わったら、ぜひとも「1度は行っておきたい場所」があったのですが、「どこにあるのかさっぱりわからない」状態で、ネットで探してみようかなーと思った時に、『渡りに船とはこういうこと』かと、某研修の末席に紛れ込みで参加してきた話を、今日は綴ります。

Who is 石井十次?

 社会福祉士国試領域で「石井十次」という名前を知らない人は、モグリです。
 というか、第35社福回国試第25問に、まさに「これぞ石井十次」な問題がありました。

問25
近代日本において活躍した福祉の先駆者に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。  

1. 石井十次は岡山孤児院を設立した。
2. 山室軍平は家庭学校を設立した。
3. 留岡幸助は救世軍日本支部を設立した。
4. 野口幽香は滝乃川(たきのがわ)学園を設立した。
5. 石井亮一(りょういち)は二葉幼稚園を設立した。

第35回社会福祉士国家試験より

 正解は当然ですが「1」。
 2と3が逆、4と5が逆です。
 ちなみに、石井十次・山室軍平・留岡幸助にA.P.アダムス(アリス・ペティ・アダムス……女性です)を加えた4人が「岡山四聖人」と呼ばれます。

 石井十次は『児童福祉の父』と呼ばれ、明治中期〜大正前期の間、自身のほぼ後期半生をかけて、約1200人の孤児(児童)を救い、孤児たちの教育とその後の立身までをサポートした偉人です。

 国試勉強では、『児童福祉の父』『岡山孤児院』『岡山四聖人』で把握しておけばOKですが、いかんせん、

 (´-`).。oO(ワイ、地元民。笠井信一先生を拝んだ以上、石井十次の石碑を拝まんといかんじゃろう)

 という考えがよぎり、石井十次の足跡の一部を見たいという思いがありました。
 国試勉強中、以前の職場で社会福祉士資格持ちのパート介護員さんが、学生時分に「大学の研修の一環で、すっげえ田舎にある【石井十次の記念碑】を見に行った覚えがあるんよ。すっげえ田舎だったことしか覚えてねえ」という話をしてくれて、それで、うすーく興味を持ったのです。

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Who is 笠井信一?

 少し脱線しますが、『笠井信一先生』とは、石井十次の活躍のあった時期から少し後の大正6年に、全国で初めて『済世顧問制度』を作った当時の岡山県知事さんです。翌年に大阪の林一蔵知事が『方面委員制度』を作り、この2つが今の「民生委員」と「児童委員」の原点になります。
 詳しくは、厚生労働省のPDFを読んでおくれ。

笠井信一先生像

 この像は、岡山城と後楽園の間にひっそりとあるので、興味のある人はぜひ見に行って下さい(ワイ、受験生の時はこの画像をスマホの待ち受けにしてましたw)。

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 閑話休題。
 それで、石井十次の足跡を訪ねてみるにしても、どこに行けばあるんやー?な状況。ちなみに既に岡山に『岡山孤児院』なるものはなく、「はて……?」だったのです。

 で、そんな時に見つけたのが、某研修こと、県社会福祉士会関連企画研修『没後110年石井十次の功績にふれよう』でした。

 ♫ ワーイ\(^o^)/渡りニ船 ♫

 まさにこんな感じでヘロっと申し込みをさせていただき、現役社会福祉士の集う研修に紛れ込んだわけです。

で、ギャフンとなる

 当日、Google先生ナビを活用して会場となっている『石井十次資料館』に出向きました……うん、パート介護員さんが言ってた通り、田舎や!と思ったワイ。

旧大宮小学校

 会場の資料館は、東区下阿知の旧岡山市立大宮小学校横の旧大宮幼稚園にありました(昨年だったか、地域有志の方が資料館を設立したという地元新聞記事を読んだ覚えはあったのですわ…)。

入口看板🪧

 資料館見学の前に、石井十次研究をされている、新見公立大学の山本教授による十次の生涯と孤児教育に焦点を当てた講義を聞き、そのあと、地元有志(石井十次に学ぶ会)の方の【十次の教え】に関する会の啓蒙活動の紹介を受けました。

 先にも書きましたが、《国試勉強では、『児童福祉の父』『岡山孤児院』『岡山四聖人』で把握しておけばOK》ですけども、どうせ知るなら、その歴史も知ればより知識は深まるしー、で、聴講しましたが…。

 実は、今でも特に児童福祉領域で大切にされている教えを、既に一世紀以上前に体現・具現・実践していた事実に「ワイらなーんも先人に学んでねえ!」と、ガチでギャフンとなってしまったのです。

 岡山孤児院があった場所は、岡山市北区門田屋敷の三友寺(現在も現存、関連の「新天地育児院」も現存)のそばです。
 が、岡山孤児院設立以前の、「石井十次がなぜ孤児救済の道を進むことになったか」の原点が、東区上阿知(明治当時は〔邑久郡大宮村上阿知〕の地名)にあります。

 元々、宮崎で学んでいた時、恩師だった人の「岡山医学校(今の岡山大学医学部)で勉強して医者になって地元で貢献してやー」の声掛けで、既に嫁持ちだった十次は、嫁と一緒に岡山へ出て、医学校に入学。
 一時キリスト教(プロテスタント)信仰の道と医学の道の選択のせめぎ合いで、鬱とも躁ともいえぬ精神状態になり、精神安定のための療養を兼ねた修行で、邑久郡太伯村の診療所に滞在。
 その最中、診療所に上阿知の住人から《医者がおらんから医者を派遣してほしい》という相談があり、診療所は療養中の十次に「なあ、良かったら行ってくれん?」と頼み、十次は快諾→上阿知へ出向き『上阿知診療所』の看板を掲げての診療をはじめました。

運命のお堂

 ある日のこと、あるお遍路の最中の母子連れが大師堂にいて、その母親から「うちの子預かってほしい」の切実な願いを十次は『神の御心のままに』と預かります。
 その子が岡山孤児院最初の孤児になり、後、十次は医学の道を断ち、孤児救済の道に進むことになります。

十次の説明看板

 この時、十次は22歳……。
 なんかさあ、スケールがさぁ……違うんよ。
 聞けば聞くほど「( ゚д゚)ポカーン」となってしまうのよ。

 後にコレラやチフスにも罹患してだんだん体力弱くなるけど、確固たる揺るぎない信念があって、その信念に、半ば取り憑かれたように突き動いて、動いて、生きるのよ、この人。

十次の死後に十次の功績を綴った石碑

 石井十次は、最終的に郷里の宮崎・茶臼原に孤児院を移転した後、茶臼原で永眠するのですが、享年48歳。
 若すぎる。

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 岡山よりも宮崎での方が、この人の認知度は高いと思うのですが、しかして、この人の業績はガチでパネエので、いっそのこと、世に知る手段として、FGOで取り上げてほしいなあ、と思うワイです。

 ちなみにクラスはバーサーカー。    

 カルデア内では幼児虐待やらかしたジル・ド・レを「クソ外道が!」とブン殴ってマスターに叱られつつ、なんとなく救済の共闘で意気投合したナイチンゲールと延々『救済ってさー』な談義をやって、他のサーヴァントに呆れられてほしい……という妄想がよぎる(すまん)。

 そうだった。
 今やマツケンサンバで有名な松平健が石井十次役で演じた映画があるそうです(ワイ、未見。何かの折で見たいなぁ)。

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