果てしないトレーニング理論の探究Vol.04

中距離の魅力

800mや1500mの魅力はレースのバトル。
位置取り、スパートのタイミング。
ラストの直線でライバルを置き去りにする快感。
と、書くとそんなに勝てたんか?と、思われるかもしれませんが、中学の時は勝てましたが、高校では学年上がるにつれ勝てなくなり、大学では5000m 以下の短いレースに出たのは一度かニ度だけ。
まあ、憧れです。

マラソンサブスリーの動機

当時マラソンを走る理由は高校の先輩に勝ちたい。ただそれだけでした。
サブスリーしたいとか、そこまでのこだわりは今ほど強くはなかった(笑)。
その先輩は高校時代は駅伝メンバーの補欠にも入らない人だったんですが、私が23歳で一緒に走った篠山では大差で負けました。
それがなんか悔しくて。
そして1984年、三が日明け4日から篠山に向けて練習開始しました。

マラソン練習とは言えないマラソン練習

日誌見ると、1月は週末ほとんど試合。
8日信太山クロカン8km
14日市民マラソン5km
22日吹田市民駅伝4km
という具合です。
唯一の距離走が1月25日に行った20000m走。
これは78分52秒で走ってます。
その2日後に1kmのインターバルを10本。
日誌にはP(3’23〜3’30)、リカバリ400mjog(タイム記載無し)とありました。
感想には「割と楽に出来た」と書いてました。
この辺りが1番追い込んでた時期かもしれません。

2月は2日に10マイル走。
今は10マイルなんて言ってもピンとこないと思いますが、大学時代はメニューに10マイル走が多かったので、その頃の習慣が残ってる感じです。
ついでに言うと、10マイル、大学時代は57分台上がりだと「今日はちょっと速かったな」という感じ。
58〜59分台が普通で60分オーバーは今日はゆっくり、みたいな感じだったと思います。
因みに当時の日体のBグループでの話です。

話戻すと、その後5日日曜日に高校生に混じり淀川河川敷にて5キロのタイムトライアル。
これは16分3秒だったのですが、日誌には4.8kmくらいしかない、と書いてます。多分短いと思います。

2月9日は篠山に向け唯一のロング走30km。
これがマラソン練習らしいたった一つのポイント練習。日誌の記述を読むとどうやら長居に行って単独走したらしいです。

15kmまでは楽だったが強い向い風で予定より2分遅い2時間7分台。
しかし、一応前半抑え目、後半は少しビルドアップしてました。

その2日後、枚岡(ひらおか)クロカン5km。
一応、一般の分優勝、タイムは19分46秒。
このクロカン、知る人ぞ知る、山岳クロカンです。クロカンとは名ばかり。山を登り下りまた上る、過酷なロードレースです。

無謀な最終刺激

この後はジョグが多く、篠山1週間前からに大阪市町村対抗駅伝。
4.4kmを3分17秒ペースの14分26秒。
結構走れてますね。

レース4日前の水曜は10マイル走。
日誌にはレースに向け最後の刺激、とありました。
タイムは59分45秒、アベレージ3分44秒!
普通やりませんよね。
大事なレース前に、まだサブスリーさえしたことない人間がこんな速さで16キロも。
しかし。
年齢的には回復力抜群な年頃。
小出監督風に言うならこの練習でスタミナもスピード持久力も作ったようなもの、と言えなくもないです。
私の愛読書だった「かけっこの職人芸」が出るのはまだあと5年先。
当時はもちろんそんな調整を考えていたとは思えません。
ただ見方を変えると駅伝が刺激になり、この10マイルで仕上げた、とも言えます。
散々走り込み、質高い練習こなしてたら失敗するパターンでも、練習量が少なく、大会に向けて積み上げていく、という発想なら、こういうやり方もありかも、と思います。

この10マイル結果からみてハーフマラソン実力は1時間18〜19分台。
そう考えると4日後のフルマラソン2時間47分台のタイムも出るべくして出た、と言えるかもしれません。

続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?