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山岡鉄次物語 父母編9-5

《 成長5》睦美 

☆山岡家の長女睦美は旅立って行く。

昭和38年中学校を卒業した睦美は、東京に行く事になる。

頼正の勤務する栄和木材工業の社長には、東京で有名女優と結婚している作曲家の弟がいた。

有名女優とは大阪で生まれ、昭和25年、第1回ミス日本に選ばれて天下の美女と謳われた女優だ。ミス日本に選ばれてから3年後、大映の女優になり、映画「夜の河」「彼岸花」などに出演し看板女優となった。
社長の弟は、作曲家古賀政男に師事し作曲家となっていた。日活映画の音楽を多数担当し、歌謡曲作品では美空ひばりの「芸道一代」が有名だ。

ある日、この弟が女優である妻を伴って、栄和木材工業の見学に来た事があった。

鉄次たち姉弟は、女優さんを一目見たくて行列に付いて、会社の敷地内を巡った事があったが「女優さんは鼻が高くて綺麗だなぁ。」と思った。

そんな事があった後、頼正は社長から言われた。

『弟の所でお手伝いさんを探しているんだが、山岡君の娘さんはどうかな。』

これを聞いた頼正は娘と相談させて下さいと答えた。
頼正は気が進まなかったが、珠恵は睦美に説明してから、本人の希望どおりにしてやれば良いと思った。

頼正は睦美に念を押した。

『お手伝いさんの仕事なんだぞ、大丈夫か。』

睦美は不安に思ったが、興味もあり、なにより家の為にお金を稼ごうと、東京行きを決めた。

鉄次は、運動会の入場行進で、いつも先頭を歩いていた小柄な姉の姿が大きく感じられた。
まだ寒さが残っている春の日に、睦美は東京へ旅立って行った。

鉄次の手元には、母が睦美に出したであろう手紙の下書きが残っている。睦美からの仕送りについても記され、当時の山岡家の経済事情を推し量ることが出来る。
珠恵と睦美が、お互いを気づかう手紙は読み進むと涙を誘った。
渋谷区松濤の豪邸で始まった住み込みのお手伝いさん、睦美の月給は7千円(今の5~6万円ぐらい)だった。お手伝いの人は5人いて、就寝できる時間は夜半過ぎ、朝は5時に起床する毎日だった。
睦美は少ない月給から、実家に仕送りをしていたのだ。

家族とともに、長女の睦美が成長しながら体験して来たさまざまな出来事が、どうだったのかは本人にしか解らない。睦美は、困窮していた生活の大変さ辛さの冷たい風を、姉弟の中で一番に受けて育った。鉄次には、睦美のただ静かに耐え忍ぶ姿が思い浮かんでいた。

東京から戻って、職を得て働いていた睦美が19歳の時に縁談があった。

相手は栄和木材工業の取引先の大手ゼネコンで幹部をしている人の弟だった。篠田と云った。
睦美の結婚披露は、蒼生市の本町通りに面した鮮魚店の2階の座敷で行われた。

鉄次は一度だけ篠田にブランド物のカーディガンを買ってもらった事がある。兄として義弟にいい所を見せたかったのかもしれない。

鉄次は兄が出来たことは嬉しく思ったが、危なっかしさを感じていた。
母珠恵から聞いた話だ。山岡の家での食事の時、お麩の味噌汁を見て、篠田は「俺は金魚じゃない。」と言った。冗談なのか、本気なのか、毒を吐いたことがあった。確かにお麩は金魚の餌になるが、罪深い言葉だった。

鉄次の記憶には、鉄次と妻が交際中の頃、2人で篠田に顔を会わす度に「もう、したかえ。」「したかえ。」と方言で言われた事があった。
若いカップルを軽くからかっての言葉だったのかもしれないが、困った義兄だった。

篠田は長身で大人っぽい風情で関西風の方言を使う、そんなに悪い人間ではないだろうが、なんとなく不安に思えて、姉が心配だった。
しかし鉄次は睦美が幸せになるのなら、義兄と上手くやって欲しいと思っていた。

頼正と珠恵は睦美を思い、悩み、平穏を願うしかなかった。

三重県、千葉県と生活の場所を移しながら、3人の子供に恵まれたが、睦美は篠田に苦しめられるようになった。
子供たちにとっては、良い父親として生活していたこともあったはずなのだが、残念でならない。
睦美は辛抱強く生きていたが、篠田との離婚を選んだ。そうなるには十分の出来事があったが、深いところの理由は解らない。離婚は仕方のない選択だったのかもしれない。

篠田が生き方を少し変える事が出来たのなら、姉弟の頼れる良い兄になっていたのかもしれない。
鉄次の結婚披露で読まれた義兄からの祝電は、その裏にあった辛い事情を思うと忘れる事が出来ない。

その後、苦労の多かった睦美の物語は、当人の中で紡がれていく。

睦美は仕事に精を出し、3人の子供を成人させる為に強く生きた。親としての苦労もあったが、たくさんの孫に囲まれるようになった。

今では、遠く栃木県に住む長女の所で、孫たちの成長を見つめながら、静かな日々を送っている。

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