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山岡鉄次物語 父母編8-4

《守って4》健気な

☆睦美と幸恵は貧しくも健気に両親を気遣うのだった。

時は昭和32年、睦美は10歳、幸恵は7歳になっていた。

街を走る私鉄の線路沿いには電気工事で捨てられた銅線が落ちていることがある。
銅線は「アカ」といって鉄くず商のところに持っていけば買い取ってもらえた。

鉄くずは古物の代表とされ戦前の古物商取締法でも厳格な取締りの下にあった。しかし戦後の昭和24年制定の古物営業法は、鉄くずなど金属原材料、はだかの古銅線類は、廃品であって古物ではないとして、取締りの対象から除外された。

鉄くず回収は、明日の糧を求める在日韓国人や朝鮮人たちにとって、直ぐに誰でも出来る、自営の商売となった。リヤカー1つで商売できる鉄くずの回収は、資本のあまり要らない、確実に現金収入が得られる職業だ。市中の至るところに戦災屑が放置され、鉄くず回収は手っ取り早い商売とされていた。

戦後には多くの在日韓国人や朝鮮人がその職に従事するようになり、日本の底辺の鉄くず流通を担った。


睦美はこの「アカ」がお金になることを知っていた。この時代の貧しい家の子供はみんな知っている事だった。
河間民夫の働く三木商店に持っていけば、その場でお金がもらえた。

睦美は幸恵と一緒に「アカ」をたくさん拾い集めたお金で、父頼正の為に酒を買って来たことがある。睦美は酒を入れてもらう瓶を持参して、買えるだけの酒を量り売りしてもらったのだ。子供たちの集めた銅線はたいした量にはならず、たくさんの酒は買えなかった。

頼正は子供にこんな事をさせている自分が、情けなくなった。
頼正はその酒を飲みながら、子供たちの為にも仕事を頑張って行こうと思い、密かに涙するのだった。

この頃の酒事情はどうなっていたのか。

終戦直後、復員兵などによって飲酒人口が増加し、酒類への需要が高まった為に、メチル、カストリ、バクダンなどの密造酒が大量に横行した。従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、ヤミ市で売買されることから闇酒とも云った。酔えば何でもよい、という闇酒によって多数の死者が出た。

その後、酒類の配給制が昭和24年に廃止され酒類販売の自由化がなされた。
江戸時代から続く、小売店の店頭で小銭を払って酒を立ち飲みする風俗は、酒類が配給制となってから途絶していたが、この販売自由化によって復活した。

同時期に食糧事情が好転し、酒造用米の割り当ても増加したため、ようやく日本酒の製造量および消費量が伸び始めた。



幸恵は母珠恵に頼まれて近くの食料品の店に買い物に行く事があった。

ある朝、幸恵は素麺一袋を買いに店に来た。
店のおばさんは幸恵に薄笑いしながら言った。

『あら~朝から素麺かい。』

幼いながらも幸恵はその言葉の意味を「朝から素麺を食べるのは貧乏だからなのかも。」と感じていた。
現在はいい時代になった。当時はお金の都合で素麺を買うしかなかった。
今は、人が朝から何を食べようと何とも思われない自由さがある。


睦美の春の遠足の日が近づいていた。

珠恵は睦美の遠足の為に、洋服を新調するなどの準備をしていた。

小学校4年生の遠足は、バスで甲陽市の城跡公園等の見学が予定されていた。
遠足のバス代の納入は当日の朝までで良いとされていたが、睦美は母親に言えずにいた。

睦美は当初楽しみにしていたが、両親に負担をかけたくない気持ちが勝った。睦美は思った「遠足に行かなければバス代はいらない。」

遠足当日の朝、睦美は腹痛を起こして遠足を欠席する。

睦美は貧しい中で、頑張っている両親に負担をかけたくないと、仮病を装ったのだった。


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