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山岡鉄次物語 父母編8-6

《守って6》安堵

☆頼正が安定した職業に就いて家族は新しい生活を始める。

頼正家族の住んでいる家は古い造りで、夜間には暗いL字の縁側を通って行った先に便所がある。
寒くて暗い縁側で倒れていた珠恵は、鉄次の泣き声で意識を取り戻した。

頼正は翌日、念のために珠恵を本町通り沿いにある医院に連れて行った。
珠恵は栄養不足による貧血を起こして気を失っていたのだ。
珠恵は家庭を守る為に、母親として陰ながら苦労を重ねていたのだ。
鉄次たち姉弟は頼正から「お母ちゃんは大丈夫だ。」と聞いて胸を撫で下ろした。

珠恵は時間の経過とともに少しずつ回復していった。

現在の鉄次は、昔住んでいたあばら屋の在った付近にいた。
貧しくも親子で生きていた懐かしい場所だった。
ここでは台風に遭って、家族みんなで大変な思いをした事もある。

昭和34年9月、和歌山県の潮岬に上陸して紀伊半島から東海地方に大きな被害を及ぼした台風だ。
伊勢湾台風という名前は脳裏に刻まれている。

伊勢湾台風は、伊勢湾沿岸の愛知県や三重県での被害が特に大きかったことからこの名前が付けられた。死者行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった。

マリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号(伊勢湾台風)は、猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴っていた。 最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、和歌山県潮岬の西に上陸した。 上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。
勢力が強く暴風域も広かった為に、九州から北海道にかけてのほぼ全国で暴風が荒れ狂った。
紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、死者行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となり、 三重県では死者行方不明者が1,200名以上となった。台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者行方不明者を出した。

まだ幼かった鉄次には台風の恐怖の記憶があまり残っていない。

当時、家族は台風で簡単に吹き飛ばされそうな古いあばら屋に住んでいた。
台風の強風で土間部分の屋根が飛んでしまい、雨風で台所は酷い状態になり、家族で避難しなければならなかった。

鉄次の記憶の中の伊勢湾台風は、家の直ぐ南の方にあった地区の公会堂に避難して、家族みんなで食べたご飯だ。醤油だけで炊いたご飯が温かくて、とても旨かった。

当時の鉄次は家族みんなでピクニックにでも来ている感覚だったのかもしれない。また家族がみんな一緒だったからなのかもしれない。


昭和34年、台風を無事にやり過ごした頼正家族はまた引っ越す事になる。

頼正は蒼生市内にある大きな規模の木材加工の会社、栄和木材工業に就職が決まり、住まいも会社の社宅へ入れる事が決まった。


しばらくして頼正家族は栄和木材工業の社宅に引越して新しい生活を始めた。

栄和木材工業は蒼生市にある企業の中でも、大きな部類に入る。敷地は広大で、製材工場棟、各種木材加工工場が数棟連なり、建物の間など、構内のあらゆる所に材木が積み置かれていた。
社宅の並ぶ一画の近くには製材工場があり、丸太の山が見えていた。

社宅は一戸建てが数軒と一棟の長屋があり、そこには10家族ほどが住んでいた。
頼正家族は長屋の西の端の一軒で生活を始めた。

頼正は運送部に所属し製品の運搬の仕事に就いていた。  
社宅の妻たちも、夫と同じ栄和木材工業に勤めていたので、珠恵も末っ子の親吾を背負って勤めに出るようになる。

珠恵は毎月決まった収入のある生活に「やっと安心して家族を守って行く事が出来る。」と安堵の気持ちで、木材切断等の危険な仕事に精を出すのだった。


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