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順番が逆

蔵造りの建物を見て、くら寿司みたい!と思った。なんだこの敗北感、逆じゃないか。オリジナルは蔵造りの建物だ。蔵が先、くら寿司は後である。
オリジナルを見て、オリジナルの良さを感じるのが粋な気がしてしまう。くら寿司が頭に過ぎる自分、俗っぽくて無粋だと思った。そしてあの寿司チェーンの侵食力に感心した。行ったことはないのに、イメージは完全に染み付いている、やりよる。

軍艦島に行った。コインロッカーベイビーズみたい!と思った。これもまた、順番が逆である。コインロッカーベイビーズに出てくるあの場所が軍艦島であるとは作中に明記されていないが、読者の中では結構有名だ。キクとハシが探検していそうで、映画館の方まで行ったらダチュラの男がいそうだと思った。
だが、当時の生活や朽ちゆくものに思いを馳せるのがオリジナルの楽しみ方な気がしてしまう。
別に私の楽しみ方が間違ってるとは思わないのだけど、どうも負けた感じがする。自分の中で正解を設定する癖に、その正解をふめない。コインロッカーベイビーズを読んでから来て楽しめることはいつでも出来るけど、ピュアな状態でオリジナルを楽しむことは、知らない状態で無ければできない。

SFばりに記憶を消せる何かが起きない限り、私は一生ピュアな状態で蔵造りの家も軍艦島も見られない。
オリジナルをピュアな状態で体験するのは、無知でないとできない。知らないって本当に素晴らしいことだ。
インスピレーションって、無知な状態で得たものの方が貴重な気がする。その優劣や正誤は別として。
人間だってそうだ。学歴や育ってきた環境を知ってその人を解釈するの、みんな好んでやっている。人間には認知がある。何も知らないで出会えたら違っていたかもしれないこと、たくさんある。特に、この人発達だという色眼鏡は厄介だ。その人の言動を全てそこに結びつけてしまう。色眼鏡をかけないと人を見れないほど、視力が弱っている人は多い。

父島に行った。固有種の植物を見た。博物館や植物園で見たやつだ〜!本物だ!!と感動した。知らなかったらスルーしてたと思う。本や博物館で知ったものを現地で見るのは、格別だ。画面の向こうの存在だった芸能人を生で見たような感覚、あれはあれでピュアとも言える。教科書が先、現地が後って順番だからこその感動も否定できない。

無知は罪であるとよく言うし、そういう場面は確かにある。でも、知っていることは、一生取れない垢がついている感じだ。人間、垢が付いてるからこそ楽しめることもある。生きるって面白い。



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