幸せのカタチ
ふと気づいたんだ。
「幸せになりたい」
って思って生きてきたけど
どこか違和感があったこと。
幸せなりたいから、なんとか今じゃない場所に行けないだろうか、とか幸せになりたいから、ここはがんばるとか
幸せになりたいから、我慢しなきゃとか。
はてさて。
ー前のnoteでAI並みのハードワークと揶揄した仕事が
今日はたまたまシステムエラーにより止まってしまった仕事があったりして
結果として業務内容が神経すり減らすものではなくなって
仕事が終わっても脳みそから煙が出ていない感じがとても新鮮でした。
そしたら、子どもたちと余裕を持って接して、大好きの気持ちをきちんと味わうことができる自分でいられたんです。
仕事のあと
いろいろ雑務あって両親は先に就寝。
結果として静かな環境で晩御飯を落ち着いていただくことができたこともひとつ。
子どもたちが聞いて聞いて!とやってきても耳を傾けて集中できる。
豊かだなあ、と思える。
気づいたんです。
自分は
「幸せになりたい」
のではなく
「怖いのをなくしたい」
だけだったことを。
責任ある仕事で誤ってしまうかもしれない恐怖とか
心緩めてたところに怒鳴られる怖さとか
笑って話してたら、不機嫌に舌打ちしながら「⚪︎⚪︎してんじゃねえよ」という声が聞こえたりするのを聞こえないようにしながら、怖いと思っていたりとか
そういう怖い要素が
今日、全部無くて
そしたら、私はほぼ完璧に幸せだったんです。
前向きに生きるアプローチが
「やりたいことをやる」
じゃなくて
「こわいことを取り除く」
だなんて、後ろ向き極まりなさそうですが
案外このやり方って
目の前の幸せに気づく鍵になりそうとふんでます。
末娘が
「ああママ!今日のあなたはなんでそんなに幸せそうなの?」
とそれはそれはうれしそうに
抱きついてきてくれたので
たぶん、昨日までの鬼の母とけっこう違ってたのでしょうな😅
ごめんよ。
たぶん、私もこどもたちの「こわい」を作る一因になることあるだろうから
気をつけようと思った。
なにより
「こわい」があると
感謝の余裕がなくなるから。
ありがとうが言えなくなるんだ。
それは1番悲しくて、幸せじゃないことだから
やっぱり
こわい、は取り外していく必要があるだろうな
気づきを
ありがとう。
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