芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町

路地好き。トーネット風の曲げ木家具好き。古いものが好き。むかし、『梅松論』、『難太平記…

芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町

路地好き。トーネット風の曲げ木家具好き。古いものが好き。むかし、『梅松論』、『難太平記』、『鎌倉大草紙』などの軍記物を現代語訳して「芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町」というウェブサイトで公開していました。また何かやりたいと思っています。まずは現代語訳の移植から。

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  • 天草騒動

    島原の乱を題材にした江戸時代の実録物、『天草騒動』の現代語訳です。伝奇小説のような趣もあり、読み物としてたいへんに楽しめるものです。目次のページからお読みください。

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芝蘭堂〜軍記で読む南北朝・室町: インデックス

インデックスのページです。 現代語訳  梅松論(上)    南北朝時代の始まりの物語  梅松論(下)    南北朝時代の始まりの物語  難太平記    今川了俊が語る南北朝・室町  天草騒動    島原の乱の顛末  応永記(掲載予定)  応仁記(掲載予定)  鎌倉大草紙(掲載予定)  永享記(掲載予定)  新田老談記(掲載予定) 雑記  三葉葵と新田氏    徳川家の葵紋と新田氏の意外に深い関係

    • 天草騒動 「68. 大団円の事」

       しばらくして松平伊豆守殿と戸田左門殿が江戸表にお帰りになり、このたびの一揆の鎮定について諸将士の賞罰に関する御評定があった。  北条安房守殿も召し出され、諸役人も出席していろいろ御評議されたが、その際、水戸光国公が、 「去る二月二十七日に鍋島甲斐守が先駆けして出丸を破り、すでにその日のうちに落城させられてもよいはずなのに持ちこたえ、翌日まで困難ないくさをして多数の討ち死にが出たのはどうしてか。」と、御不審の点をお尋ねになった。  伊豆守殿は、 「およそ、いくさの法令

      • 天草騒動 「67. 諸将御軍令によって糺明の事」

         さて、北条殿は、二月二十六日に原の城下に着陣し、二十七日から城攻めにかかり、二十八日には完全に落城させて、一揆はことごとく滅亡した。  去年以来の大騒動や手強い逆徒が、安房守殿が下着してから三日間で平定されたのは、ひとえに軍学の徳によるものであった。まことに、万卒は得やすく一将は求め難しとは、このようなことを言うのであろう。  この乱が終わり、北條安房守殿が江戸表に戻られてから、世の人々は初めて軍学の重要性を知ったということである。  さて、松平伊豆守殿、戸田左門殿、

        • 天草騒動 「66. 山田右衛門助命の事」

           落城後、諸大名衆は高久の城に入って戦功の評議をされた。  まず、生け捕った者に首級を見せて、頭分の者の首級を選び出させたところ、蘆塚忠右衛門だけは谷底に飛び込んだため首級はなかった。  また、巨魁の四郎大夫の首級はどれかわからなかったが、これが第一の首謀者だったので、必ず見つけ出して獄門にかけなければならないとの事になり、翌二十九日になってから総角前髪立ちの首を選び出したところ、およそ二三百級も出てきた。  そこで、これらを白洲に並べて生け捕りの者に見せたところ、女子

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        • 天草騒動
          71本

        記事

          天草騒動 「65. 渡邊四郎大夫最期の事」

           さて、一揆の巨魁、四郎大夫時貞は、伯父の甚兵衛をはじめとする一揆五十人をしたがえて、天主の旗を一流ひるがえして、蘆塚、大矢野の後に続いて寄せ手に突っ込んでいった。  それを見て寺澤の家老の三宅藤右衛門は、「討ち洩らされた一揆などたいしたことはない。」と自分が先頭に立って渡り合い、細川家の大軍も四方八方から取り囲んで揉み立てた。  しかし、四郎大夫をはじめとして全員死を覚悟していたので、打っても斬っても事ともせず、八方に薙ぎ立て薙ぎ立て切り結んだ。  そうは言っても目に

          天草騒動 「65. 渡邊四郎大夫最期の事」

          天草騒動 「64. 蘆塚忠右衛門討死の事」

           さて、荒神ヶ洞の伏兵がだんだん討死していく中で、去年以来一揆の者らが軍師として頼りにしていた蘆塚忠右衛門の最期のありさまをここで説くことにしよう。  最期の一戦で蘆塚は、紺糸縅の鎧に同じ毛の兜を着け、二尺五寸の太刀を佩き、十文字槍を小脇に抱え、佐志木佐治右衛門と池田清左衛門を組頭として左右にしたがえ、一揆四十人を後ろにしたがえて、真っ黒な集団となって討って出て、黒田の先手の野々村、浦上勢五百人余りの中へ、真一文字に突っ込んだ。  寄せ手は思いがけない事だったので、右往左

          天草騒動 「64. 蘆塚忠右衛門討死の事」

          天草騒動 「63. 長岡帯刀、大矢野作左衛門を討ち取る事」

           やがて鍋島甲斐守殿の軍勢が単独で、原城の落城の跡から桧山の荒神ヶ洞の後ろに押し寄せ、 「この洞窟の中に一揆の残賊どもが隠れておろう。この詰めの城の一番乗り、鍋島甲斐守直澄なり。尋常に最期の勝負をせよ」と、大音声で呼ばわった。  他の軍勢はそれを聞いて、 「甲州は血気にはやり、武勇に慢心して気が狂われたのではないか。たった今落城したというのに、どうしてあのような事をするのか。笑止千万。」と、囁きあった。  ところが不思議なことに、にわかに山が震動し、その洞穴の中から天主の

          天草騒動 「63. 長岡帯刀、大矢野作左衛門を討ち取る事」

          天草騒動 「62. 細川家手楯の事」

           さて、細川越中守殿は老巧の良将であったので、「黒田家の勢に負けるな。賊城はこの一戦で落ちるに違いないぞ。かかれ、かかれ。」と兵士に下知し、稲麻竹葦のごとく取り囲んだ。  この城戸口は、鉄砲の達人の駒木根八兵衛の持場であった。  前もって最期の戦いと心を決めて準備していたので、一間当たり五六挺づつ鉄砲を配置し、それぞれに弾薬係の者が付き添って詰め替えなどの手際も良く矢継ぎ早に撃ち出したため、寄せ手では手負いや討死が百人余りに及んだ。  城内から撃ちかける玉は雨のようであ

          天草騒動 「62. 細川家手楯の事」

          天草騒動 「61. 原の城手詰めの戦働きの事」

           さて、北條安房守氏長殿は、夕日の光が城山に映るのを見て、 「日光が白くて黒くはない。これは城内の賊の勢いがまだ盛んなことを示している。今夜には落城するまい。こちらの全軍も下山できないから、大軍が兵糧に困ることになるだろう。急いで兵糧を送るように。」 と石谷殿と牧野殿に指図し、近辺の村から大釜を集め、米を炊かせて握り飯をつくらせ、牛島筵に入れて、三百人に一俵の割合で割り当てて送った。  「水は一すくいだけ谷水を汲んで飲料とせよ。」と、安房守殿が自分自身で馬を乗り廻して各

          天草騒動 「61. 原の城手詰めの戦働きの事」

          天草騒動 「60. 原の城二の丸を攻め落とす事」

           一将勇なれば万卒これにしたがう、というが本当にそのとおりである。甲斐守殿が二の丸を乗っ取られたので、諸国の寄せ手もそれにならって押し寄せた。  中でも細川家の老臣の長岡監物父子をはじめとして松井、有吉、溝口らが押し寄せたが、この城戸口にはとても深い空堀があり、そのために進めなくなっていた。  この口を守る頭は、有馬久兵衛、柏瀬茂右衛門で、まだ飢え疲れていない一揆二百五十人をしたがえて防戦していた。  長岡監物はこのありさまを見て、「この程度の堀、どれほどのことがあろう

          天草騒動 「60. 原の城二の丸を攻め落とす事」

          天草騒動 「59. 千々輪五郎左衛門討死の事」

           千々輪五郎左衛門は一騎当千の勇士であったが、惜しいことに方向を間違えて逆徒の頭分になってしまったのは残念なことである。  さて、千々輪は鍋島家の軍勢を追い出して一息ついたあと、再び一揆百人余りをしたがえて、出丸にたむろしている寄せ手を追い立てようと、先頭に立って戦った。しかし、さすがに鍋島家の大軍には恥を知る家臣が多く、岩の屏風を立てたように少しも退かなかった。  一揆の者らはもともと鎧を着ていない者が多く、しかも戦い疲れていたため、皆、力無く討死していった。  甲斐

          天草騒動 「59. 千々輪五郎左衛門討死の事」

          天草騒動 「58. 鍋島甲斐守殿、二の城戸一番乗りの事」

           さて、鍋島甲斐守殿は今朝の卯の刻から城攻めを始め、出丸を一番に乗り破ったあと、人馬を休ませて四方を見回され、 「あのように諸方の軍勢が一斉に競い合って攻撃しているから、落城は間近であろう。まず出丸は乗っ取ることができたから、二の丸も乗っ取ってやろう。者ども、あの城戸を打ち破って進め。」と、下知した。  それに応じて、鍋島家の兵士は残らず二の城戸に向かった。  この場所は七八間ほどの間、道が険しく、その上、幅も狭く、五六騎が並ぶと登れなくなる険阻な場所であった。  この

          天草騒動 「58. 鍋島甲斐守殿、二の城戸一番乗りの事」

          天草騒動 「57. 仁木勘解由、智弁の事」

           さて小笠原殿は、戦の次第を征討使に注進する使い番を誰にしようかと考えていたが、仁木勘解由が、 「他の者を遣わされてめったなことを言ったら、天下の物笑いであり、御家の瑕瑾ともなりますから、拙者が使者として行って、うまく言っておきましょう。」 と言って、ただ一騎で本陣に向かった。  本陣に到着し、征討使をはじめとする諸役人が列座している席に罷り出て、  「今日、小笠原家では当城の離れ曲輪に押し登り、手向かう一揆の者らはことごとく本城に追い込みました。女子供一万人ほどがその

          天草騒動 「57. 仁木勘解由、智弁の事」

          天草騒動 「56. 森宗意軒最期の事」

           さて、豊前国小倉城主の小笠原右近将監殿は、同姓備後守殿、同姓匠頭殿、その他総勢一万八千人余りで一族を引き連れて出陣したものの、今回は攻め口の割り当ての都合で戦場に向かうことができなかった。  小笠原家にはまだそれほどの功も無く、また、以前、例の山田右衛門の内応の矢文が小笠原家からもたらされて城攻めを失敗したことがあったので、評判がよくなかった。  右近将監殿はひどく憤怒し、 「わしの祖父の兵部少輔と父の信濃守の両人は大坂の合戦で討ち死にして武勇を輝かせ、また、弟の大学

          天草騒動 「56. 森宗意軒最期の事」

          天草騒動 「55. 黒田家惣曲輪一番乗りの事」

           さて、黒田三左衛門がこのありさまを見て、「何とものものしい。一揆どもの戦いぶりなど、どれほどのことがあろうか。」と言って采配を打ち振り、それに応じて大軍が一斉に平押しに押し登ってやにわに一揆二三十人を討ち取った。  そこに布津村が、たった一人で槍を捻って立ち向かってきた。  「それっ、討ち取れ。」と、黒田勢、四五十人が群がって馳せ向かい、一揆どもも二十人ばかりが再び取って返して、布津村と槍を並べて戦い始めた。  黒田主税はまだ揚巻を結っている若侍だったが、勇猛果敢に布

          天草騒動 「55. 黒田家惣曲輪一番乗りの事」

          天草騒動 「54. 千々輪五郎左衛門力量の事」

           そこに長岡の次男の万作がずかずかと出て来て、「この橋の一番乗り、長岡万作なりっ」と言いながら千々輪に近付き、むんずと組み付いた。  千々輪は、「こしゃくな小せがれめ」と、万作の鎧の上帯を取って、橋の中程から寄せ手の方に投げ返した。  万作は投げられながら立ち直って、「これは心得難いふるまい。尋常に勝負しろ。」と言って再び飛びかかろうとした。  千々輪はそれを見て、「まだ若輩ながら、武勇の者のようだ。討ち取るには忍びないから助けてくれよう。」と言いながら、跳ね橋をえいや

          天草騒動 「54. 千々輪五郎左衛門力量の事」