2019年1月2日

 朝。ノックがして目が覚めた。母が入ってくる。ソーセージ、ベーコン、レタス。バターを塗った食パンにコーヒー。それをテーブルに置こうとしている。が、机の上が薬の袋やトランプやコインでごちゃごちゃになって置き場がないのだ。わたしは寝ぼけ眼で布団から起き上がって、ごめん。ありがとうと言ってお皿とカップを受け取ってフローリングの床に置いた。
「そんなところで寒いでしょ?」
「大丈夫」
 わたしはそう言いながらストーブのスイッチを入れて床にしゃがみこむ。ありがとう。と、繰り返し言って、心配そうにしている母に「大丈夫だから」と言って、玄関を隔てた向こうのリビングに戻ってもらった。

 ストーブの前で震えながら火が点くのを待つ。灯油の匂いが立ち込めて、灰色の網目の奥で真っ赤な火がつく。目の前の皿にあるパンやソーセージを見ても全然食べる気がしない。そのまま1時間くらい、じっと座って気分が良くなるのを待つ。少し楽になる。冷たい空気のせいで乾燥したパンの上に冷めたベーコンとソーセージを載せて、機械的に口の中に突っ込んだ。何の味もしない。コーヒーで強引に流し込む。コーヒーの苦味だけは感じることができる。全て平らげた。大丈夫。ちゃんと食べられる。そして、いつもと同じように、3種類の薬を口に放り込んで、床に転がっているペットボトルを引き寄せ、白いキャップを開けて、口づけをする。中途半端に冷たい水が錠剤とカプセルを胃の中に押し込んでくれる。

 わたしは空になった皿を、父と母のいるリビングへ持っていく。父が掃除機をかけている。母は手鏡を見つめて化粧をしている。どこかへでかけるのだろうか? 皿を流し台に置いて戻ろうとした時、母が言った。「今日、アキがくるから。子どもを連れてくるって」わたしの弟だ。子供を連れてくる。「いつ? 」と、聞くと、「これからくるって」と返事。わたしは凍りついたようにその場で固まってしまった。「どうしよう。こんな状態なんだけど?」三日間風呂にも入ってなくて、髪もボサボサ。Tシャツとトランクスの姿。会いたくない。「会えないって言っておいて」と、母にいうと。掃除機をかけていた父が「会わなくていい」と言った。会うな。という感じでなくて、辛いなら会わなくていい。そういう感じだった。わたしは「ごめんね」と、虚ろに言って自分の部屋に戻る。

 弟はわたしが去勢したことや女性ホルモンを入れていることを知らない。死にたい。こんな姿見られたくなかった。それにそもそも昔から、わたしと弟は仲が悪かった。よくわたしは弟に意地悪なことを言って傷つけたり、逆に弟の意地悪な行為によって傷つけられたこともある。会いたくなかった。わたしは布団に潜り込んで、iPhoneの電子書籍でエロいホモ漫画を読み始めた。弟たちやその子供の気配すら感じるのが嫌だったので、イヤホンをつけてUndertale(わたしの1番好きなロールプレイングゲーム)のBGMを聴きながら、時間が過ぎ去るのを待った。

 しかし、しばらくして、固く閉ざされた部屋の扉が、ゆっくりと開くのをベッドの中から感じた。

「兄貴、いる?」

 弟の落ち着き払った声が嫌でも聞こえてしまう。久しぶりに聞いたその声は、慈愛に満ちた音色だった。

 わたしは躊躇した。返事をすべきか、無視するか。

 こんな姿見られたくなかった。どれくらい沈黙したか分からない。でも、声をだした。「いるよ」布団から足を出して、ボロボロの醜い姿を弟の目の前に晒す。5年ぶりくらいだった。弟は背が高い。わたしと正反対で、彼はよく女性にモテた。去年の秋に死んだわたしの祖父もよく弟のことを男前だと褒めて愛でていた。わたしは誰からも見向きされなかった。幼い頃からわたしは弟に嫉妬していた。その容姿と他人に囲まれてチヤホヤされるその状況を。

 弟がわたしを見て、驚いたように目を見開いた。

「兄貴、大丈夫か?」

 わたしは彼の顔を見る。大人の人の顔だった。魅力的な男の顔になっていた。わたしは泣きそうになってしまい、目を逸らして言う。「今、ほとんど仕事してないんだ」「いいんだよ。俺もいろいろあったし」「そうなんだ」「手品は続けてるの?」「ああ、ちょっとだけ」そして彼は呟くように「兄貴、痩せたなあ」と、何度も繰り返していう。わたしは弟の目を見て、今まで言えなかった言葉を吐き出した。「ごめんね。子供の頃、僕はきみに酷いことをいっぱいしてごめんね」と言った。弟は「今から思えば俺も悪かった」弟が左手を伸ばす。そうだった。弟は左利きなのだ。握手。わたしは弟の手を両手で握る。ごめんね。こんなわたしでごめんね。ゆるして。

 何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ。

 大丈夫ありがとう。

 子供に会う? 写真撮ろう。

 ごめん。会えない。写真も。ごめんね、ほんとうに。

 ケータイ持ってる?

 あるよ。

 連絡先教えてくれ。

 うん、あとで教えるよ。

 弟は寂しそうに微笑む。慈愛の表情。家族を持つ男の表情。妻を持つ夫の表情。子供を持つ父の表情。それは、わたしがこれから先、永遠に手に入れることのできないもので、弟はいつのまにかそれを手に入れていた。でも、わたしはそれを嫉妬しない。今、わたしは生まれて初めて、この弟が愛しいと思った。

 おまえの子供になにもしてやれなくてごめん。

 そう呟いてから、思い出した。お年玉あげなくちゃ。わたしは精神安定剤の入った薬の袋とトランプとコインで埋め尽くされたテーブルの上から財布を探し出して、中から一万円札を抜き取った。一枚だけのつもりが、二枚一緒に取り出してしまって、慌てて一枚財布にしまって、顔がカアッと熱くなった。弟と顔を見合わせて同時に笑ってしまった。わたしはお札を三つ折りにした。でもポチ袋がない。困り果てながら裸のままそれを渡す。「ごめん。袋がない、あとでテキトーに袋に入れて子供に渡して」「やめてくれ、兄貴。金ないんだろ」「お願い。子供にわたして」わたしは自分が大人として存在していることを弟に証明したいがために、この茶色い紙切れをその大きな手の中に押し付けた。わたしも弟のような立派な男になりたかった。弟は何度も何度もその茶色い紙切れを受け取ることを拒否した。
「おねがい。おねがいだから」
 と、わたしが懇願すると、弟はようやく諦めてそれを受け取ってくれた。わたしは、「ありがとう。会いに来てくれてありがとう」「兄貴、元気で。本当に困ったことがあったら言ってくれ」と、父と母のいる向こう側のリビングに戻っていく。わたしは布団に潜って、ツイッターを開いて《弟が部屋に来てくれた。大人になってた。兄貴大丈夫かって。苦しい。苦しい。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい》と呟いた。
 わたしはなぜこんなことを世間に晒すのか。布団の中で声を押し殺して獣のように呻いて泣きじゃくる。布団が涙でびしょ濡れになる。泣きながらめちゃくちゃエロいボーイズラブの漫画を3ページだけめくってすぐに閉じる。父と母と弟と奥さんと子供が外に出かけたようだった。わたしは誰もいない家の中で吠えるように鳴き声をあげた。可哀想な自分を想像しながら泣きじゃくって、気持ちがスッキリするまで、彼らが家に帰ってくるまでに泣き終えておかなければならない。涙と声が出なくなるまで泣いて、鼻が詰まってしまったのでトイレの紙を取りに行く途中でへたり込んでしまった。その場で今朝食べたものを吐き出してしまう。立ち上がってトイレに入って、吐けるものを全て吐き出して、トイレットペーパーをカラカラ引き出して鼻をかむ。ゲロまみれになった床を拭いて紙ごとトイレに流す。歯を磨く気にもならない。でも、気持ち悪い自分を想像するとますます気持ち悪くなるので、なんとか口をゆすいでイソジンでうがいをする。

 父と母と弟とその子供が帰ってきた。その時に子供の声が2つあることに気づいた。そうか、弟には子供が二人いたのか。知らなかった。一万円札をたった一枚渡して大人になった気分になってる自分が恥ずかしくなって、再び布団にもぐり込んでイヤホンで音楽を聴きながらエロ漫画を読み耽った。

 弟たちが帰る。二人の子供の声。一人は大人びた男の子の声で、もう一人はまだ無邪気で自制の効かない男の子の声。奥さんの声は分からない。弟が玄関で父と母に「今日はありがとね」と言っている。わたしは布団から出て声をかけることができなった。でも、弟がわたしを気遣ってくれたことが嬉しい。男になったその表情と、大きな手に触れられたことが嬉しい。ありがとう。今度会うときはおまえの子供たちにわたしのマジシャンとしての姿を見せてやりたい。と、思った。

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