手品を見せて、自分がすごい人間だってことを伝えたくなる欲望。

手品は難しい。手品が好きすぎると「人が見たいと思っている手品」と「自分がやりたい手品」が区別できなくなってくる。

手品は現象が強い。がゆえに、フォーカスがそこに当たりすぎて演者の存在意義が消えてしまう。「わたしの代わりはいくらでもいるもの」的な綾波レイ状態になってしまう。っていうか、現状の手品界隈はそうなってしまっている気がする。

技術的に上手いか下手かで言えばそりゃ上手い方がいいに決まっている。が、上手い人間は次から次へと出てくる。かつて上手かった人間は並みの人間になって、現状で「うまい」とチヤホヤされても、あとから自分以上に上手い人が出てくれば、あっという間に過去の人になる。忘れられてしまう。

《しかし、忘れられるというのはそれはそれでいいのかもしれない。だっていずれそんなことはどうだってよくなるのだから。「忘れられたくない」と、思っているのは生きている間だけで、いずれ死んだら過去の評価も未来の評価もどうでもいいことになるのだから。評価を基準に生きるのは苦痛だ。そして極端に言えば意味がない。でも人間は自然に意味のないことをやる。意味のないことに意味を見出そうとする。仕方がない。でも他者に評価されたいという気持ちをなくせたらどんなに楽だろう!》

手品は瞬発力がある。だから、喜ばれる。すごい。と、ほめそやされる。たが、それは持続しない。飽きられる。先に記載したように、それは手品の現象に依存しているからだ。手品はどんなに不思議でも何度も見ているうちに慣れてしまう。不思議なものは不思議でなくなる。

そもそもこの世の中は不思議なもので溢れかえっている。たとえば現在のスマートフォンなんてものを昭和時代の人間にいきなり見せたら、どれだけ驚くだろうか。しかし、それも浸透していくと慣れて当たり前のものになってしまう。当たり前のものになった時、そこに驚きや不思議さは生じない。もっと言えば、「わたし」という存在がここにいることも、あり得ないほど驚くべきことだと思うのだけれど、実感としては自分がここに存在していることなんて「あたりまえ」の事象になっている。

手品は難しい。「不思議さ」「すごさ」がメインだからだ。そういったものだけを極限まで更新することにかまけて、それだけで終わってしまうのは本当にしょーもないと思う(1人で遊んでる分にはなんら問題ないが)。

そういう上辺だけのものを究極的に更新するなら、もしかしたらアンドロイドがやった方がすごくなるのかもしれない(ああ、でも人間とアンドロイドも、もしかしたら大した違いはないのかもしれない!)

かと言って、手品の場合(特にクロースアップ)はそこに「自己の感情」を潜ませるのが難しい。マジックに自己が入りすぎるとマジックの不思議さが薄れて、自己表現の方法としてはマジックじゃなくてもよくなってしまう。となると、やはりどうしても不思議さや技術に向かって、手品というのはクソつまらない芸能になってしまう。マジックはバランスの取り方が非常に難しい。

ただ、面白いのはコンピュータ並みのことを人間が行った場合、人はなぜか感動する。たぶん、共感するのだろう。「人間でもここまでできる」「人間はすごいのだ」と感じることで、「自分はここにいてもいいのだ」という共感を得るのだろう。

くだらない。

何もできなくても存在していいはずなのに。努力や技術や才能に感動するという意識の裏には、それがないものには価値がないという意識が見え隠れしている。

手品は弱者を救わない。

わたしは手品が好きだ。すごい手品をする人間が好きだ。どうしようもないほど好きになってしまう。

けれど、同時に虚しくなる。なぜならわたしは弱者だからだ。手品はわたしを救ってはくれない。

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