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もういい加減親の所為にするのをやめてくれないか!~本当に障害者の自立を妨げているのは親なのか?~


胸に仕舞っていたエピソードを話す。

ある福祉関係者が冗談で「親はどうせ死ぬんですから、早く死んでください」と言った。
障害者の地域移行(施設から地域へ)の仕事をする中で、親の反対が強く、難航することも多いという話の流れから出た冗談だ。
 その方は、他の冗談でもすべっていたので、会場の多くの人は、笑えない冗談だと聞き流したことだろう。

「親はどうせ死ぬんですから、早く死んでください」

流れない。時間が経っても流せない。胸に仕舞ったまま、そろそろ癌細胞のように、私の体を蝕み始めたので、ここに手放す。

「親はどうせ死ぬんですから、早く死んでください」こんなこと、冗談でも言ってはいけないことだと、誰か指摘しただろうか?それとも、この方は、人前で話しをしてほしいと頼まれる度に、この面白くない冗談を言っているのだろうか?

もしくは、福祉関係者の中では、結構うける冗談なのだろうか?

あの会場には、障害者の親もたくさん参加していたのに、「早く死んでください」と言われて苦笑して、『そう言われてもしかたない親だったかもしれない』などと、肩を丸めてトボトボと帰ったのだろうか?

帰り道、我が子の為に犠牲にしてきた時間、行政の冷たさに泣いたこと、世間に白い目で見られたことが、後から後から思い出された。そしてついには「死んでください」か。
 

すると『いえいえ、あなたのような親のことを言ったのではありません。障害者の親にもいろんな人が居て、子どもの自立を妨げる親のことです。』そんな風に言うだろう。

親を良い親と悪い親に分断するのもやめてほしい。

もしも、福祉関係者が、良かれと思ってしていることを、妨げてくる親が居たら、どうぞ、その理由を聞いてほしい。何が信用ならないのか?何が心配なのか?どんな思いで子どもを育ててきたのか?
 私たちは差別され、身も心もすっかり疲れてしまっているのだ。丁寧に説明してくれないか?あなたが何をしている人で、あなたが私の子どもに何をしようとしているのかを。
 ましてや、「どうせ死ぬのだから、早く死んでくれ」などと言う人を、信用しろというのが無理な話ではないのか?その信用できない人が進める事業に難色を示したからと言って、悪い親と決めつけられるのは、理不尽ではないか?

 障害者の地域移行に輝かしい業績を持つ人だからこその登壇で、地域移行を進めてゆく担い手としての発言がこれだから、まあ、そんなもんだ。これが日本の福祉の最前線※1なのだ。自分の仕事が上手くいかないことを、何かの誰かの所為にする、ことさら親の所為にする※2ことが福祉の世界では、まあ、普通にあることだ。

※1.障害者の自立運動の中で、主に運動を担ってきた身体障害のある人が自立生活をしようとしたときに、親が立ちはだかるということは実際にあって、その当時は『親が最初の差別者』という言われ方もしていた。子どもの自立に際して、障害があろうと無かろうと親が立ちはだかることはあるだろうし、障害があればなおのことあったろう。
しかし、だからと言って、今になっても、障害者の地域移行が進まないのは、親の所為だなどと福祉関係者が言っていいとは思わない。今なお残る地域での差別や、福祉の担い手不足、国はやれと言う割にお金を出す気がなさそうな中での地域移行の進まなさを、親だけの責任にしないでほしい。

※2.私は問いたい、親が障害のある子を地域の中で、自立生活をさせたいと望んだ時に、どんな用意があるのですか?と。実際、次郎は、法的に自立生活の道は閉ざされているし、もし、そこが開かれたとしても、知的障害者の自立生活を支える福祉サービスは用意されていない。『親が子離れしないから』と親の所為にして、胡坐をかいてきたのは誰なのか?
 
 話を戻す。
福祉関係者にも、当たりはずれがあるということだ。
 その”当たりはずれ”の見分けかたは、案外簡単で、問題があるとすぐに親の所為にする人は”はずれ”だ。これは学校の先生も同じで、我が身を振り返ることがない人。自分にも責任の一端があるのではないか?と反省することがない人。

どうして子どもの人生を運任せにしなければならないのか?

今日は次郎がベッドで寝ている。私が予定していた映画会には、どうしても行きたくないと言う。『ボクは寝てる』と言って寝てしまった。チケット代が無駄になってしまった。それよりなにより、監督トークに参加できなかったことが残念でならない。でも、私の楽しみを犠牲にしてわかったことがある。
あの時も、この時も、あの日の熱も、ある事が原因だったこと。次郎がとにかく我慢することになっているということ。わがままとかじゃない、次郎の尊厳の問題なのだ。どこにでも居るのだ。障害者(子どもでも外国人でも同じく)を下に見る人が。自分が上だと思う人が。そして、そのことを絶対に認めない人が。
 
 こんなやり場のない時に思いだす、もうひとつのエピソードがある。

 書家・金澤祥子さんの母泰子さんのお話だ。直接講演会で聞いたお話しは、今でも私を勇気づけている。
 それは、祥子さんが高等部を卒業するときに、就労支援事業所に通所が決まり、学校からの資料が事業所に送られる際の手違いで、事業所に送るはずの書類が家に届いたことに端を発する話だった。その書類には、『祥子さんの母親は、育児の出来ない親だ』というような(もっと酷い)ことが書かれていたという。その当時、母泰子さんの夫(祥子さんの父親)が突然亡くなり、夫の事業の後始末に飛び回る中で、母泰子さんの妹に祥子さんのことを頼むことがあり、とにかく大変だった時期だったという。それなのに、母親として失格というような評価をされていたことにショックを受けて、その事業所にも行けなくなってしまったというのだ。
 祥子さん自身は明るい性格で、そんなことがなければ、就労支援事業所に通い、皆とも仲良く過ごしてくれたことだろうけれど、こんな経緯で行き場を失くした祥子さんと、母泰子さんは一緒に過ごすことになったという。
母泰子さんは書道の先生だったことから、困ったときに助けてくれたのは書道だったという。そして生前、祥子さんの父が「祥子の個展を開きたい」と言っていたことを思い出し、20歳の記念に一度だけ、祥子さんの個展を開こうと決心して、一緒に書の練習に励んだということだった。
「振り返れば、書家・金澤祥子が今ここに居るのは、行き場を失ったこの時期のお陰です。」と、母泰子さんがおっしゃった。

 私は、社会に私たちの居場所がないと感じる時、福祉にまで見放されたと感じる時、このエピソードを思い出す。

母親なのだ。障壁を蹴破るのは母親なのだ。と自分に言い聞かす。

障壁を蹴破るために、私が始めたのは、スタンダップコメディだった。
福祉の世界と一般社会との間には、明らかな壁がある。障害者は、福祉の世界から出てくるなと国家に言われているような扱いなのだ。だから、飛び出したくなった。飛び出して大声でしゃべりたくなった。

スタンダップコメディのなんたるかも知らないまま、とにかく、胸にたまった思いを言葉にして人の耳に届けることを始めた。時間は5分。
この5分に話を凝縮する作業に夢中になった。私にはブログを書く時間はなかなかないけれど、5分のネタを作る時間なら生活の中で見つけることが出来た。

春に参加し始めたオープンマイクに毎週欠かさず参加して、夏には次郎までステージに立たせてもうようになった。言葉のない次郎の通訳付きのスタンダップコメディはまだまだ試行錯誤中だ。けれど、次郎と夜の東京の街をうろうろするようになって気づくことがある。障害者が居ないのだ。夜の街に次郎のような障害者を見ることがない。それはそうだろう。次郎のような障害者は施設で寝ている時間だ。だからこそ、街に出るのだ!次郎と。

スタンダップコメディは自由と民主主義の話芸だ。してはいけないことはひとつだけ、それは差別だ。弱い立場の人の人権を守ること、自分を表現すること、だれにでも発言の場が与えられること。ここから民主主義が始まると言っても言い過ぎではないと思う。だって未だ、日本のどこに民主主義があると言うのだろう。だれも自分の気持ちを言わない。誰も本当のことは言わない。

次郎はスタンダップコメディのことを「ヒューヒュー」と言う。例えば『今日「ヒューヒュー」はあるの?』みたいに聞く。言葉のない次郎が自分の語彙で表現した「ヒューヒュー」。スタンダップコメディオープンマイクに集まった人々が、次郎のことを「ヒューヒュー」迎えてくれるからだ。

「また行こうね。ヒューヒュー。次のネタは何にしようか?」






 

 

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