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「311子ども甲状腺がん裁判・第3回口頭弁論」の応援に行ってきた!

とにかく行くのだ!私は!

前回行けなかった私は、今回は行くのだ!と気合を入れて前日から準備をしていた。朝、次郎が家を出る9時に、次郎にお弁当を持たせ、洗濯物を干し、自分も身支度をして出かけた。駅まで颯爽と風を切って自転車を漕いだ。次郎が居ては出来ない自由を感じながら。でも間に合わなかったのだ。傍聴券配布の締め切り10時40分に。

東京地裁に最も近い出口も把握済みだったのに、千代田線霞が関駅から必死に歩いて、たどり着いた時には41分だった。係りの方が申し訳なさそうに「この時計で時間を図っています」と指し示す時計が10:41を示しているのを見た時ちょっと泣きそうになった。『1分くらいいいじゃない』と思ったけれど、そんなことで泣いてる場合じゃない。

この日傍聴券を求めて集まった148人には入らなかったけれど、私も駆け付けたひとりだったから、149人の人が集まったと自分のブログでは書かせてほしい。

これだけの人が集まっているにも関わらず傍聴席は25席だ。当初から原告側の弁護士さんは大法廷での開催を求めてきて、それは第5回から叶うことになった。それから、原告7名(事故当時6歳から16歳だった)全員の意見陳述を求めてきたことも叶うことになった。とにかく、ひとりひとりの訴えを聞く耳を持ってくれたことはよかった。これも署名などで声を届けてきたお陰だ。

傍聴にあぶれた人々の為に、報告集会が開かれた。私は、緑色の人たち(この日緑色のものを付けて来てくださいとのことだった)に付いていく。私もひとりでの参加だったけれど、多くの人が私のようにひとりでとにかく駆け付けたという様子だった。配られた資料を食い入るように読み、準備された動画を熱心に見た。

私たちが見せてもらった動画

「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」HPにもアップされているので、ぜひ見てほしい。この裁判をどのように進めてゆくのか。原発事故と甲状腺がんの因果関係、原告たちの被ばく程度が争点となっている。被ばくが原因で甲状腺がんになった確率(原因確率)が多くの公害裁判で認められる水準に比べ、はるかに高い確率であることも主張している。

報告集会での様子


弁護団の海渡雄一弁護士は、「国連人権委員会から、40項目の勧告が日本政府に出されている中に、福島の原発事故に関するものもある。国内避難者(強制・自主問わず)の生活保障・特に家賃無償の打ち切りに対する非難、高濃度汚染地に戻らざるを得ない対応、甲状腺がんの子どもが多数いることの懸念などが出されている」という。

また、新たに弁護団に加わった杉浦ひとみ弁護士は、「もともと子どもの支援をしてきました。子どもたちが自分の夢を失くすことがどれほどのことか!外から見えない被害を裁判官に伝えてゆきたい」と語った。

原告のご家族からは「皆さんが集まってくださっていることが、なにより力づけられます。弁護士の皆さんのお話を聞くと心強いです。これからもどうぞ、応援よろしくお願いします」とのことだった。

アイリーン美緒子スミスさんは「子どもたちが先頭に立っていることに感動する。社会は子どもを守らなければならない。水俣では当時幼児だった被害者が裁判をしている。その水俣の人々からカンパとメッセージを預かってきた。法廷に立って被害を話した原告は、本当に大変なことをやっている。やったことのないことをやっている。だから、私たちも、今までやったことのないことをして応援しましょう。人に話すでもいい、SNSで発信するもいい。なんでもいいから、今までやってことのないことをしましょう」と言った。

さらに遠くアメリカから駆け付けたノーマ・フィールドさんは「傷ついている人の表現の場が限られている中で、弁護士の皆さんが、専門家の意見を聞き、裁判所に通用する議論を作っている。法律の場の議論を祈るような気持ちで聞いた。アイリーンさんが『福島の復興はここにある』と言ったように、私も全く同じように思います。福島の復興はここにある。」と言った。

次に、弁護団長である井戸謙一弁護士を紹介したい。実はプロフィールを見て驚いた。なんて心強い弁護団長だろう。そのプロフィールを書き写す。<元裁判官で、志賀原発の運転差止判決(2006年)を出した裁判長。2011年退官後は、弁護士として大飯、美浜、高浜をはじめとした原発差止訴訟の代理人を務める他、「湖東事件」の弁護人として再審無罪判決を勝ち取るなど活躍している。>
その井戸弁護団長が言うに「被告は『100m㏜以下では甲状腺がんにならない』と言うが、根拠がない。また『県民健康調査で見つかった300人は”潜在がん”(=過剰診断)である』と言う。では原告7名も”潜在がん”なのか?と問うと、それに対しては何も言わない。」と。

この裁判は若い人たちに一日も早い救済を実現するために、スピード感を持って裁判を進めてくださっている。

次回は2023年1月25日11:00~東京地裁にて

地裁前でのリレースピーチは9:30~
傍聴券配布は10:40まで(次回は間に合うようにいくのだ!)

シェアするだけで10円カンパ出来るページ

も貼り付けておきます。


最後に、ぜひ、原告5さんの意見陳述を読んでください

私は、報告集会の会場で、原告5さんの読み上げる声(録音)を聞いた。けっして痛いとか辛いとか言わないで淡々と語る原告5さんが、最後に「病気になったのが、自分でよかった。今でも友だちのことが心配」と語るに至っては、涙を止めることが出来なかった。
 
子どもたちを守れなかった大人のひとりとして、彼女の声をひとりでも多くの人に届けたい。

 
↓↓↓↓↓以下、2022年11月9日の原告5さんの意陳述要旨です。↓↓↓↓↓↓
 
令和4年(ワ)第1880号 311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事 件)
原告 1~6
被告 東京電力ホールディングス株式会社
 
意見陳述要旨
 
2022年11月9日
 
原告5
 
私は、文章でも、言葉でも、自分が思ってることを伝えるのがもともと得意 ではありません。
裁判を起こす前、私は、裁判は1回で終わるものだと思っていました。
意見陳述も、誰か一人が代表して読むんだと思っていました。
 
だから提訴後に、原告で色々な話し合いをして、原告全員が意見陳述しようとなったとき、正直おわったなーと思いました。
 
でも2回、裁判所に来て、自分の辛い経験を話すほかの原告を見て、同じ病気になっても、みんな一人ひとり、全然違う。
自分もやらないわけにはいかないと思いました。
 
私は、昔のことはよく覚えているのに、最近のことはあまり覚えていないし、 内容も、文章も、自信はありません。
 
弁護士さんと毎週のようにラインで話し合いをして、少しずつ思い出しながら、陳述書を作りました。
この陳述書は、私がこれまでに書いた中で、一番長い作文です。
最後まで噛まずに、読みたいと思います。
 
1 被ばく
震災があったのは中1の時です。
その日は、先輩の卒業式があり、学校の終わりが早かったので、セブンでお昼ご飯を買い、友達ん家で食べつつ、遊んでました。
私も友達もおでんを買ってたのを覚えてます。
 
丁度、おでんを食べてた時に携帯のサイレンがなり、地震が起きました。
携帯のサイレンを聞くのも、あんなに大きな地震にあうのも初めてでみんな 大慌てで外に避難しました。
外は吹雪いていて、この世の終わりだなと感じ、友達と話した記憶がありま す。
 
それぞれの家族に連絡を取り終えて、また、友達ん家に入り、ニュースをつけると「震度 6」という数字が目に飛び込んできました。
津波の映像が流れてきて、それを見た友達が泣いてるのを見て、やっと、この状況がとても酷いことなのだと把握しました。
 
原発事故は、伯母が、放射能をとても気にしてたので、よく覚えています。
放射能は、気にする人と気にしてない人の差が激しくて、自分は、気にしてない方の側だったので、何も変わらず、ノー天気に暮らしてました。
 
爆発映像は、流し見程度でしたが、風評被害とか、福島へのあたりの強さとか、どんどん状況がひどくなっている印象でした。
 
2 学校生活
学校は、休みが少し長引きました。
新学期が始まっても、ちょっと落ち着かない感じでした。
避難をする生徒が何人かいて、その中に私の友だちもいました。
そのショックもあったのか、どんどん学校に行く頻度が低くなりました。
それが、だんだん本格的に不登校になりました。
 
不登校になっても、部活の方には顔を出していました。
学校に行くのは放課後です。
部活が終わっても帰らず、校門付近や公園で駄弁っていて夜遅くまで学校にいて先生に注意された。
放射能を気にする友達が私の周りに居なかったので、普通に遊んでました。
雨が降ってもそれに当たりながら帰った。
外に出かける時、持って歩くようにと学校から渡された数値を測る機械も身につけず、家に放置してた。
 
でも、伯母はとても気にしてて、いつか身体に影響が出るのだなーと感じながらもどこか自分は大丈夫と思っていたような気がします。
自分の家族もそこまで気にする感じではなかったので、遊びにも普通に行ってました。
 
地元より安いからという理由で、週末に友達と、電車で須賀川に行きイオンタウンのプリクラを撮りに行くという謎の行為をしていた。
プリクラより交通費の方が高かった。
 
不登校中は、市役所近くの不登校になってしまった子がくるところに通っていてバスで行ってたり、車で送り迎えしてもらったり長い時間をかけて、歩いて帰ったりもしてました。
 
3 診断
不登校だったので、学校では一度も、甲状腺のエコー検査は受けていません。
自宅に通知が来ても 2 回ぐらい拒否していた。
特に理由もなく、めんどくさい、する必要はないと思っていたのだと思う。
3 回目くらいの通知で、「これが最後」みたいなことを親から聞かされ、 「最後なら行くか」のノリで受けた気がします。
 
エコーを取り終えた時、何故か、癌があるんじゃないのかなと勘が働いてました。
それを親にも言ってます。
案の定、再検査の通知が来ました。
 
福島医大での再検査でした。
細胞診の首に刺す針は最初、とても怖く感じました。
痛みには強い方ですがこの時は恐怖でした。
針の痛みより、押されてるのか、刺さってる圧なのか、見えなくてよくわかりませんでしたが、針の痛みではない痛みの方が強かったです。
それを何故か 2 回受けた記憶があります。
 
そのあと、癌と診断されました。
最初のエコーの時点で癌だと思っていたので、なんとも感じませんでした。
でも母は泣いていたのか、ショックを受けていた。
福島医大の通院はとても憂鬱でした。
 
まず医大に着くのに車で 1 時間ちょいはかかり、そこからさらに診察される までに 2〜3 時間ぐらい待っていて憂鬱でしたなかったです。

暗い廊下で、ずっとうつむいたまま。 覚えている光景は、自分のイヤフォンの有線です。
聞いていた曲は多分、ボカロとか、ラッドウィンプスとか、米津玄師とか。
でも、よく覚えていない。
 
待っている時に、カウンセラーの人なのか、話しかけてくれる先生がいましたが、きっとあの時はイライラずっとしていて、時に態度がよろしくなかった 日もあったと思います。
今思うと本当申し訳ないなと、その方に思います。
 
診察時にもイライラしました。
ちょっと気になる事があって母に聞くと、母 が代わりに先生に聞いてくれました。
その度に、先生の「大丈夫だから、心配なんだね?」みたいな表情とか言動が本当にイライラさせてくれました。
そんなことはどうでも良いので、待ち時間を減らしてくれないかと余計にイライラしてました。
 
どれぐらいの頻度で通院していたのかは記憶なし。
採血は慣れた。
最初はこんなにとるの?という驚きがあったけど、今は、「こんぐらいだよね」っていう慣れです。
でも、いまでも、病院は好きになれない。
病院の空間自体が。
待っている人だけがいる場所だから。
 
4 手術
手術は誕生日でした。
自分の記憶してる限り、誕生日は天気が悪い雨とかだったのに、その日は晴天でした。
手術はするのは先生ですが、やっぱり手術ってなると、めんどくささや不安があり嫌だった。
今もできるなら、もうしたくはない。
 
でも、全身麻酔は経験できて良かった。
自分の意志と関係なく、意識がなくなる・・・。 死って、こんな感じなのかなと思う。
手術の傷はずいぶん大きかったけど、切り取った物が見れなくて残念だった。
 
退院後はまた通院。
傷口を塞ぐテープをちゃんと貼らなきゃいけないがめんどくさく、貼らない、薬も飲み忘れる。
傷口を早く治す薬はちゃんと飲んどけばよかったなと後悔しています。
ただ日焼けは良くないということだけは聞いて、ピンポイントで対策してたと思う。バンダナとかチョーカーとかで。
ホルモンの影響で太るから気をつけなさいと言われたがちゃんと太った。
 
5 再発
先生が「とってしまえば大丈夫」というので、私は、がんをとっちゃえば、 がん患者ではなくなると思ってました。
けど、また手術することになった。
再発なのか、元々取れなかったのが大きくなったのかわかりません。
がんが見つかったのは、成人式の次の日。
この時も、特に驚かなかったけど、 「めんどくさっ」とは思いました。
何がどうなって、今の病院に転院したのか 覚えてない。
すぐ手術となったような気がします。
母の心配していた通りになった。
 
転院した病院は小さくて、専門の病院ってこともあって人が多い。
福島から 東京の病院に通うようになり、朝が早くてきつくなったけど、もうこの時には、 待たされるのも長い移動時間もどうでも良いと思っていました。
いや、イラついてた時もあった。
 
2 回目の手術は、意識があるうちに尿管のくだと、鼻に通すくだを入れました。とても綺麗な看護師さんだったのを覚えてます。
でも、鼻のくだが入らず、 涙とか鼻水とか、顔から出る物は全部出た。
手術後より大変だった。 手術前の病室で、祖母が私に向かって手を合わせた。 恥ずかしい。マジやめて。 と思って、写真を撮りました。
 
麻酔から覚めると、今度は、点滴の針が入らず、また看護師さんにすごい迷惑をかけた。
2、3人の看護師さんが交代し、初めてあんなに針を刺されました。申し訳ないなと思った記憶。
看護師さんからずっと謝ってたよと言われました。
 
手術はリンパを大きく切り取ったので、耳の下まで傷口がありました。
でも、その時は、どんな手術か理解してなかった。
傷口がなかなら塞がらず、 退院後に、首から体液が流れてきたときは焦りました。
急遽、福島から東京の病院に行った。
 
手と足が硬直するようにもなった。
気づいたのはトイレ。
勝手に踵が上がり、 変に力が入ってなのか立てなくなりました。
これは 2 回目の手術が原因だと思う。
 
病院のご飯は美味しかった気がする。
手術後、病室が一緒だった方と少しお話ししてご厚意でアイスやスイーツを頂く連続で。
しかも高いハーゲンダッツ。
 
アイソトープ治療のことは全く覚えていません。
何を思い出したら良いのか 分からないぐらい。
ただ家に幼いいとこが居たので、悪い影響があるかも、と心配して、すぐ家に帰るのを躊躇して、知り合いの紹介でお寺のお部屋をお借りしたのを覚えてます。
 
6 今
病気が見つかってからずっと、「健康調査」があるのは、県民の健康を気にしているのだなと感じていた。
ありがたいことだなとかまで思っていた。

国なのか、県なのかは分かっていないけど、へーすげーなーと思ってた。

甲状腺癌が見つかる人が増えてるのをニュースで見る。
その 1 人になる。
でも、それは「過剰診断」により見つかっただけであると流れる。
では、何のために検査は行われたのか? 少しでもありがたいなと思っていた気持ちはどうなる? がっかりというか、残念でならない。

自分は、検査 2 回ぐらい拒否ってたくせに。
複雑な気持ちです。

最近また再発して、3回目の手術の話が出た。
嫌な気持ちもあるけど、どちらかというと母親に迷惑かけてばかりなのが申し訳ない。
 
ただでさえ薬を飲み忘れが多いのに、これからもずっと飲まないといけない。 前までは飲まないのが日常だったけど、もう、飲むのが当たり前だから、 それに慣れるまでまだ、もう少しかかると思う。
 
漠然とした不安。
これから先のことも考えられない。
今とか、未来とか、実際、やばい。
 
でも、私は病気になったのが、身内や友達ではなく、自分で良かったなと思ってます。
友だちや家族が罹った方がつらいんじゃないかと思う。

今でも友だちが心配です。
何も考えずに一緒に遊んでいた子。
これから、結婚とか、出産とかになっていくのに、まだ、甲状腺がんになる可能性はあるから、不安はのぞけてないんだよな〜と思います。
 
裁判官の皆さんに対しても、甲状腺がんになったのが、 あなたのお子さんでなくて良かった。 そう思います。
 
裁判官の皆さんには、今もこれからも不安に思う人が 300 人以上いてその家 族達も不安に思っていることを伝えたいです。
そして、今の状況が少しでも変 わればと思っています。


以上、転載おわり。

書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。