見出し画像

311子ども甲状腺がん裁判~9月7日(水)第2回口頭弁論~原告6さん(17歳)の意見陳述を読んでほしい~

タイトル写真は、『311甲状腺がん子ども支援ネットワーク』のHPより

私は、9月7日の東京地裁に行こうとカバンからカッターナイフを出したりして(東京地裁はカッターナイフ持ち込み禁止だから)準備をしていた。けれど、当日断念した。思うようには、動けなくなった自分も受け入れよう。


前回5月26日の第1回口頭弁論のことについて書いたブログ「守ってあげられなくてごめんね!せめて応援させて!!~311子ども甲状腺がん裁判に行ってきた~」に、私の思いを書いているのだけれど、もはやそんなことはどうでもいい!いや、もしよかったら読んでくださるとうれしい。

裁判って大変なんだね。なにしろ被告はシラを切り続けるわけだから。
原発事故後に300名もの甲状腺がんを出しながら、その多くは手術が必要ながんであったにも関わらず、未だ『過剰診断』と言い張り『被曝が甲状腺がんの原因ではない』と断言する。

支援・報告集会の動画もぜひ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


もとの身体にも、もとの生活にも戻れないけれど、せめて、非を認めて、償ってほしいと言っている原告を、打ちのめすようなことをする。

それは水俣病事件でも、ほかの様々な裁判でも知っていたつもりでいたけれど、子ども相手でも容赦ないんだ。

私は、原告になってくれた6人と、先日加わった1人を、なんとしても守りたい。大人の仕事って、子どもを守ることじゃない?!

私は「声をあげても無駄だ!」と叩きのめそうとする巨大な力に、抗うひとりでありたい。

なにはともあれ
とにかく
原告6さんの「意見陳述」どうか読んでください!

以下、『311甲状腺がん子ども支援ネットワーク』のHPから転載します↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


1 令和4年(ワ)第1880号 311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事 件)
原告 1~6
被告 東京電力ホールディングス株式会社 意見陳述要旨

2022年9月7日 原告6

3ヶ月前の5月26日。 この裁判の1回目の口頭弁論がありました。 この日、私は生まれて初めて裁判所に入りました。 ついたての後ろの私の席からは、裁判官の横顔だけが見えました。 高校生の自分が、まさか裁判の原告になるとは思っていませんでしたが、原 告席に座って初めて、自分が当事者なんだと実感しました。
私は、この裁判の1回目の期日が開かれる直前に、アイソトープ治療を受け るための入院をしました。 アイソトープ治療は、甲状腺を全部摘出した後、再発や転移を防ぐために、 大量の放射性ヨウ素を服用する治療です。 私は高校3年生、17歳という年齢で、この治療を受けることになりました。 中学生の時に甲状腺がんとなり、そして昨年、再発したからです。

裁判官の皆さん。 11年間の私の経験を聞いてください。

1 事故当時のこと  原発事故が起きたのは、私が幼稚園の年長組の時でした。 家で昼寝をしていたとき、大きな地震がおそってきました。 視界が大きく揺れて、色々なものが落ちてきました。 外の様子を見るために、母親と一緒に外に出たことを覚えています。 車であわてて避難することになった時、私は、ここにはもう戻って来れない かもしれないと思いました。避難先の「スクリーニング」場となっている病院で、「どこからお越しです か」ときかれたので、家の場所を答えたら、履いているクツを脱がされ、スリ ッパをはかされて、放射線量を計測されました。 その時、対等な人として見られていないような、疎外されているような感じ がしました。 このときの経験がトラウマとなり、他の人に避難してきたことを隠すように なりました。

2 がんが見つかった時  中学校1年生の時に、学校で甲状腺エコー検査がありました。 事故が起きてから3回目の甲状腺検査です。 診察してもらった時、エコーを見ている医者と看護師が私のエコーを見て何か 話をしていました。エコーの機器を、何度もなんども甲状腺の部分に押しあて て診ていたので、不安な気持ちでいっぱいでした。 診察が終わって教室に戻る時、私より後の順番だった人はすでに終わってい て、私がどれほど長い時間診察されていたのかがわかりました。

3 穿刺からガンと分かる時まで  ガンと言われた時のことはあまりおぼえていません。 でも穿刺細胞診の検査のことはよく覚えています。 その日は検査のため、中学校からの帰り道に直接病院に行きました。針を刺 される前に、紙に名前みたいなものを書いたおぼえがあります。 その時に、一気に涙がぼろぼろでてきました。 「あ。今から首にはりを刺されるんだ。」と直感し、想像できない痛みに対す る不安が、一気にあふれてきたんだと思います。怖かったです。初めてだった し、経験したことのないことをやるのだから。 検査では、診察台の上に寝かされて、細胞をとられました。目に入ってきた のは、細くて長い針でした。刺された時はあまりにも激痛で動いてしまって、 2回も刺されました。 とても痛かったです。細胞に刺さったときは、なにか深いものにグサッと刺 さった感覚がして、気持ち悪かったし、痛かったです。 どうして自分がこんなに痛い思いをしなくてはならないのだろうと思いまし た。その後、私はがんなのだと分かりました。 でも、その時、自分が具体的にどう思ったかはあまり覚えていませんが、た だ漠然とした不安だったと思います。私の体はどうなってしまうのか、入院す るとなると、学校を休まなくてはならないのかなど、様々な不安がありました。 「ガンなんだ。そっか。入院するとなると勉強遅れてしまうな。」と考えてい たと思います。 穿刺をしてからは、色々とふっきれたのか、その頃から、なんだか自分が少 し変わってしまったかもしれません。

4 1回目の手術のとき  1回目の手術は、何もかもが初めてでどきどきしていました。 なにより手術後が辛かった。最初は、全身麻酔が抜けていなくてすごく眠く、 数時間後に目が覚めたけど、今度は体が動かせなくて、起きているのに何もで きない状態が長時間続きました。その日はほとんど眠れなくて、不眠状態でし た。それが数時間続いたので、精神的にも肉体的にもきつかったです。 絶対安静の次の日、1日ぶりに食事が出ましたが、ものを飲み込むとき、手 術したところがあまりに痛くて、涙がぽろぽろ出ました。15分くらい頑張っ て食べてたのに、おかゆが2cmくらいしか減っていなくて悲しくなりました。 これからどうなっていくのか、手術後は、手術前と同じ生活を送ることがで きるのか。これからの不安で、眠れない日もありました。

5 2回目の手術のとき  がんの再発が分かったのは去年のちょうど今頃です。1回目の手術で甲状腺 を半分摘出した際、「もう大丈夫」だと思ったのに、結局、もう一回摘出しな くてはならなくなりました。 2回目のがんの告知は、驚くこともなく、ただ残念に感じました。 1回目の手術の時は、中学2年生だったので、家族がずっと入院中、病室で 付き添ってくれていました。 でも2回目のときは、コロナの影響もあり、家族との面会もあまりできなく て少し不安でした。何か体に異常があった時とか痛い時も、自分で看護師さん に言わなくてはなりませんでした。 2回目の手術は甲状腺がんを全て摘出し、かつリンパ腺まで摘出したので、 摘出した右側の肩が上がりにくくなり、抜糸をした後は、首の右半分の感覚が なくなりびっくりしました。 手術から半年以上経ったので、いまはだいぶ感覚は戻ってきましたが、触る となんともいえない鈍い気持ちの悪い感触です。たまに、つっぱるときがあっ てとても辛いです。後遺症に近いものがあると思います。

6 アイソトープ治療について  アイソトープ治療も受けることになりました。入院期間は1週間でした。最 初は意外と短いなと思っていましたが、入院してみると、とても長い1週間に 感じました。 薬を飲んだのは、今年5月。前回の裁判の少し前です。 午前中にシャワーを済ませて、午後2時20分頃に薬が投与されました。 薬を飲む時、医師とはドア越しに対面した状態で、線量も測られました。 薬は、重い蓋のついた、ガラスの厳重な容器に入れられていて、厳重な注意 を払って管理されていたので、「これを飲むのか」と、飲むのが怖かったです。 薬を飲んだ後は、人との距離を取らなくてはなりません。そのことは頭で分 かっていましたが、精神的につらいものがありました。配膳の時も、テーブル を廊下側において、私はベッドの上で座って待つというスタイルです。 入院中、一度だけ、配膳の時に、ついテーブルの近くに寄って行ってしまっ たことがありました。すると、看護師に「近づかないで!」と言われたので、 自分が人との距離をとらなくてはならない状態になってしまったことを感じて、 暗い気持ちになりました。 薬を服用した後は、ただただ時間が長く感じました。ずーと壁を見つめる生 活でした。 病室には備え付けのipadがありましたが、ゲームアプリは入っていなか ったので、ろくに使いものにならず苦痛でした。 薬を服用した翌日の夕方、のどの周りが腫れて、熱くなり、少し呼吸がしづ らくなりました。こうした症状もナースコールで伝えることしかできず、のど の腫れは、どんどん悪化していったので不安でした。 症状の変化を何回もナースコールで訴えているうちに、担当の先生が診にき てくれることになりました。本当はまだ距離を保たなくてはいけないのに、触 診をしてくれた時は、申し訳なさを感じました。 先生が回診に来る前、3時くらいに線量を計ったら、53マイクロシーベル トありました。30マイクロシーベルト以下になると退院できると教えてもら 5 いました。 翌日は、朝起きたら声が異様なほどかすれていました。朝9時頃に先生の回 診があったので、不安だった首の腫れと声のかすれのことを相談し、線量を測 定しました。31.2マイクロシーベルトでした。 線量が低くなってきたので、予定通り翌日には、退院ができることが決まり ました。 午後にもう一回線量を測定したところ、今度は24まで下がっていました。 退院は決まりましたが、その直前まで、のどの腫れは意外とひどく、薬を飲 んでアイスノンで冷やしていました。声もかすれていて、一時は声を出すのが つらいほどでしたが、徐々にだせるようになっていきました。これは薬の副作 用なので仕方がないそうです。 入院中は、これらの副作用と病室でじっとする生活が続き、眠れるかどうか も不安で、精神的にも身体的にも大きな負担がかかりました。 もう二度とこの治療は受けたくありません。

7 最後に  過酷なアイソトープ治療を受けた直後の5月26日、この裁判の1回目の口 頭弁論があったので、体調面の不安もありましたが、裁判を傍聴するために、 上京しました。 私は小学校に入る前に原発事故に遭い、以来11年間、小さなアパートで避 難生活を続けています。そして13歳でがんになり、17歳で2度目の手術を 受けました。 原発事故の時も、検査のことも、まだ小さかったので、何が起きているかよ く分からず、覚えていることはほとんどありません。 自分の考え方や性格、将来の夢も、まだはっきりしないうちに、全てが変わ ってしまいました。 だから私は、将来自分が何をしたいのかよく分かりません。 ただ、経済的に安定した生活を送れる公務員になりたいと考えています。 恋愛も、結婚も、出産も、私とは縁のないものだと思っています。 私にとって高校生活は、青春を楽しむというよりは、安定した将来のため、 大学進学のために学校推薦をもらうための場です。友だちとの関わりも、深い つきあいは面倒なので、距離を置いています。 それでも、時々、勉強に対するプレッシャーや、将来への不安で、眠れない ことがあります。 私は将来が不安です。 とくに、金銭面での不安が一番大きいです。 18歳になって医療保険にも加入できなかった場合、これからの医療費はど うなるのか。病気が悪化した時の生活はどうすればいいのか。本当に不安です。 精神面でも不安はあります。 半永久的に薬を飲まなくてはならないし、ずっと今後も定期的な受診をしな くてはならないと思うと、なんとも言えない不安があります。 この裁判で、将来、私が安心して生活できる補償を認めてほしいです。 私が裁判官の皆さんに、一番伝えたいことは、今までお話ししたこと全部で す。

転載おわり

書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。