誰かの宝物
わたしの周りにいる人は
誰かの元に生まれて
その誰かの宝物なわけで
わたしはその宝物に
「嫌い」だの「苦手」だの「合わない」だの
そんな言葉はつけたくないし
そう思いたくないけれど
意思は現実とは遠く
人を一部分だけで判断しまうことが
とても残酷で
とても卑怯なような気がして
「人間は残酷だ」
なんて
人ごとのように残酷さを語ることはできないのだと
猛省に猛省を繰り返す。
しかしながら
同時に
その残酷ささえも
自分のアイデンティティとして
身体感覚として刻み込まれていて
実はその残酷さが
自分を楽に、生きやすくしているのだと
「今」は思っている。
他人のための心は
存在しないと
「今」は思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?