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槍の哲学と包み込む哲学(2024/3/27)

今日の日記。

特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。

彼女とジブリパークに行きました。
最高!!
僕はジブリの世界観すごい好きでかわいいって思うから、グッツも色々買いたくなっちゃいました。そして、色々買いました。

今日のひとこと

こんなことを考えながら人と時間を過ごしているのか、と叱られそうな内容を書いてしまう気がします。先に謝ります。
すみません。。

ただ、僕は人の自己省察乃至人生哲学というのは、常にすでに”ここ”にある身近な世界に絶えずスポットライトを当てて考えることにこそ価値があるのだと確信しています。
人の生き方在り方というのが、自分自身の生活から遠く離れた抽象な世界で考えられているというのは、実はとてもおかしなことだと思います。
人の生き方在り方はすなわち自分の生き方在り方であるのだから、自分の昨日今日の行動や感情を見つめ、そこにその意味を絶えず与えていくことに自分の哲学の深化を望めるのだと思います。

そうした意味で、僕は常に”ここ”にある自分をきっかけとして、人の生き方在り方について考えていきたいわけです。
逆に言ってしまえば、”ここ”に問題にされない人道とは、今自分が主題にすべきでないことなのであるから、そうしたことについて僕は考える資格を有していません。


ジブリパークでの出来事

ディズ○ーランドのように、いくつかテーマごとにエリアがあって、それを全て回るためには結構時間を要します。
今日はあまり時間がなくて、5つのエリアのうち、3つしか回れず、後の2つは見れず仕舞いでした。

僕はそれでもとても楽しくて、特に売店では色々と興奮してあれも欲しいこれも欲しいと見て回っていたのですが、閉園の時間が迫ってくるにつれて彼女が、
「これじゃ全部回れない」
と焦り出しました。

僕もそれは残念だから、少し急足で回ろうと思って、それ以降はサラッと見て次に行こうとするのですが、
どうしてもこれ以上は見れないだろうとも思い始めました。
「今から全部見ようとしたら、一つのエリアを10分も見て回れないな」
と思いました。
それだと楽しめないし、移動も焦ってしまって疲れます。
だから、
「今日見れるところを今日いっぱい楽しんで、見れないところはまたいつか来て、その代わり次はもっと早い時間から来ていっぱい見て回ろう」
ということを提案しました。

しかし、彼女は今日全てのエリアを見て回るという計画があったようで、
その計画が失敗に終わってしまうことに不満があったようで、
「もー、、このままだったら見て回れないよ、、、」
とオロオロし出してしまいました。


「今」を楽しむ

僕はあまり計画なんか立てずにブラブラ旅行したりお出かけしたりするのが好きで、その結果うまくいかないことがあっても、それもそれで楽しいと受け取る能天気な人です。
でも、それはそれで上手く楽しめる方法だろうとも思います。

彼女は計画的に色々と調べて、ご飯の場所やその時間を考えて予約したり、ルートを調べて電車の時間も調べたり、色々と自分の頭の中で計画を立ててからお出かけをするタイプです。ですから、とてもおしゃれなお店やカフェを見つけてくれて、すごくすごく楽しい。僕も頑張って色々探そうとするのですが、なかなか彼女のようにはいきません。本当に、いつも頼ってばかりで頭が上がらない。

ただ、道が混んでいたり、少し道に迷ったり、お店の予約に間に合いそうになくなったりして、計画が崩れてしまうとオロオロしてしまって、
それを落ち着けるために一悶着あるのが恒例になりつつあります。
彼女が困ったり焦ったりすると、その不安が僕にも伝わってきて、大丈夫だよと言ってもちっとも大丈夫に聞こえない。それで、余計に焦らせてしまう。


僕は、道に迷ったり、お店に結局入れなかったり(そんなことは滅多にないが)、いきたいところを全部回れなかったりしても、それもそれで一つの思い出として楽しめばいいのだから、それは失敗というより、むしろ一つの在り方として成功なのだと思っている。
大切なのはその今を「失敗した」と受け取るのでなしに、「これもあり」と受け取る心を持つことだと思う。

失敗したのは計画であり、その計画の崩壊が不安を呼んで「今」を純粋に楽しめないのでは、それは楽しむための計画というのに矛盾する。
僕たちは誰だって、楽しむために旅行するし、心を落ち着かせるためにお出かけする。焦って不安になるために旅行する人はいないし、そんなお出かけを望む人もいないだろう。

だから、大事なのは「楽しい」という状態を維持することだ。計画はより「楽しむ」ために有効だが、それが自分を不安にさせるのなら、いっそ手放してしまった方が理に適うというものだ。

むしろ、もはやありもしない理想を惜しむことで、本来掴めたはずの「今」をゴミ箱に捨てているようなものであり、捨てた”今”が生んだ「今」はより悲壮なものになるのである。
それなら、理想を捨てて、「今」を育て、その”今”が生み出す「今」の幸せを増大させることのほうが、何より人は「楽しむ」ことを実現し得るのではないのか。

「今」を楽しむために理想を手放す勇気が大事だ。


哲学という槍(ここからが本題)

と、いうのが今日思ったこと。
そしてここからが、本題。

僕は上で、哲学とは今”ここ”にある身近な世界から出発するべきはずであることを述べた。
哲学とは常に批判の姿勢を崩さない。それはすなわちカントのいう批判であり、吟味であり、味わうことでもある。

そうした批判によって人は「〇〇ではない」という形での良さの表現を可能とする。

嘘をついて人を欺く人を見て、
「嘘をつかない」ことが良いだろう、と言う。
これは、正直な人を見てそう思うと言うよりも、嘘をつく人を見て反面教師の倫理を得るのが本当だ。
だからこそ人は「自己省察」をこそ道徳実践の最も有効的な手段と認識する。
自己省察とは、自己の行為を顧みて、過去の自分を反面教師にして明日を生きる答えを得る過程だ。

僕も、
「今」を楽しむために理想を手放す勇気が大事であることを、彼女の言動を見て思った。
それは、彼女の愛らしくも純粋すぎる一面を反面教師とし、そうはならない生き方を提案したことに他ならない。

ただ、それはとりもなおさず、
彼女に槍を突きつけているのと同じことではないのか。


哲学とは、表現を学ぶこと?

哲学は、自分の身近な世界に映る具体的な事物を吟味し、それに批判を加えることで人の生き方を提示する。すなわちそれは倫理である。

僕は色々とよく考える。それは自分の心を安心させるためにはよく働く。しかしそれは自分の行為や他者の行為に批判を加える。
僕は僕がよく生きるために彼女に槍を向けている、とさえ思う。
それはなぜなら、僕の彼女への指摘が少なからず彼女を悲しませる、あるいは怒らせるからである。

僕は「そんな風に焦らなくてもいい」と言うと、彼女は余計に悲しくなってしまう。
僕は「焦ることはいけない」という自分の考え方を彼女に振りかざしている。
だから、寄り添っているつもりで、1番近くで彼女に槍を突き刺しているのだ。

どうしたら、それは槍ではなく、僕も彼女も包み込むものとなるのか。


お釈迦さまのは槍じゃない

こんなことを考えれば、やはりお釈迦さまが心に浮かぶ。
お釈迦さまは、応病与薬の対機説法で人々を教化した。お釈迦さまに救いを願う人々は、お釈迦さまのお言葉になんの迷いもなく、悲しみも戸惑いもなく、ただ素直に有り難く心を揺らした。お釈迦さまは、誰にだってそのお心を与えるお徳があった。

僕はきっと、無意識のうちに彼女を突き飛ばしてしまっている。自分を安心させ、自分を守り、自分が楽になるために。
お釈迦さまは、人と心を本当の意味で通わせ、その心と一体となりそのお心を伝えている。僕にはその一如は本当の意味では理解できないのかもしれない。
でも、そんな風に人に槍を向ける哲学ではなく、自分を含めてみんなを包み込む哲学ができるようになりたい。

哲学者の程度はその言葉の温かさにあるのだろう。
言葉の一つ一つが尖っていて槍のように刺さるのでは、きっと自分を守ることに精一杯のそれなのだ。
どこまでも熟した哲学者の言葉とは、誰が読んでもその言葉に包まれて温もりを感じる柔らかな心が現れてくるのではないか。

そういう、包み込む哲学を目指したい、と心から思う。

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