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あの日から13年。荒浜小学校へと向かう。


あの日から13年。
荒浜小学校へと向かう。


仙台市若林区荒浜


仙台市中心部から東へ約10km。
かつて、約800世帯、2200人が暮らしていた海辺のまち。13年前の津波により、そのほとんどが失われた。

400年以上という長い歴史をもつそこは現在、災害危険区域となり、住民はそこを出ていくことを余儀なくされ、事業者による土地の利活用が進む。

震災前から唯一まちに残るのは、320人の命を救った「荒浜小学校」のみとなった。

(※津波の被害に遭った建物の画像を掲載しています)

先日、大学の授業の一環で仙台を訪れた。福島より北を訪れるのは初めてで、胸が弾んだ。丸一日フリーな時間が出来た私たちは震災関連の内容を扱っていたこともあって、行き先を荒浜小学校に決めた。

新しくできた仙台地下鉄東西線の終点、荒井駅で降りる。
コンコース内には「せんだい3.11メモリアル交流館」が東部沿岸地域の玄関口としてあり、そこで職員の方にお話を伺う。

震災による行方不明者の帰還を願う「かえりびな」がちょうど飾られていた。


荒浜小学校へはバスで揺られること15分。
「震災遺構仙台市立荒浜小学校前」という、長い長い停留所名を目指す。

雪が視界を純白に埋め尽くす。空は、やけに広い。

荒浜地区の人々の7〜8割は荒井駅の周辺に暮らす。
私がバスで何の気なしに越えた高速道路やかさ上げ道路。心情的にそこを越えることや、海をみることが難しい人がきっといる。
近くて、でも遠い故郷。

空気の抜けるような音がして、バスの扉が開く。
停留所のすぐそばに、それはぽつんと佇んでいた。

震災遺構仙台市立荒浜小学校

訪れたその日は、あの日と同じで吹雪いていた。

垂れ幕は2016年に描かれたみたい

震災遺構仙台市立荒浜小学校

震災により、高さ10メートルの津波に襲われた荒浜地区。津波は校舎2階にまで押し寄せたという。多くの人が犠牲になったが、荒浜小学校に避難した約320人の地域住民は、全員無事に救助された。現在は津波による犠牲を再び出さないため、その校舎を震災遺構として公開し、津波の脅威や教訓を後世に伝える。

校舎は海に向かって垂直に建つ。そのお陰で津波の威力を最小限の面積で受け止めたから、全壊しなかった。これが平行に建っていたら倒壊していたのではないか。と地元の方が語っていた。

来校者入口へと向かう中で目についた、ぐにゃりとひしゃげた鉄柵。

傷や錆がありながらどこか懐かしいその校舎は、手作りの横断幕の元気な文字とは対照的で、痛々しい。

中に入る前に、一人密かに深呼吸をする。
もちろん、覚悟なんて決まるわけもなくて。
でも、寒さから逃れるようにして校舎の中へと入る。

そこは、あの日から時が止まったままの校舎。

保健室



1年1組の教室

ただただ、言葉を失う。
どんな言葉もこの惨状には釣り合わない気がして、口をつぐむ。

いつもは手をすり抜けるだけの何の変哲もない水が、毎朝起きて眺める海が(そう、私は海の見えるまちに住んでいる)、全てを破壊するほどの存在になる。私には、それが想像できない。


キャビネットには津波の爪痕がはっきりと残る


でも、何より私の胸を締め付けたのは、そこにあった、明日が来ることを信じて疑わない"日常"だった。

ありふれた教室


黒板の上には、努力、挑戦、協力の文字。
掲げられた六年一組の憲法には、「第十六条 みんなの時間を大切にし、楽しいこと、たくさんできるようにしよう」と書かれていた。
黒板には、明日の持ち物としてタイムカプセルとチョークで記されていた。(ある意味では、遺構として残されたこの校舎自体がそれになることになる)
行事日程には3月18日に卒業式と書かれていた。

みんな、明日が来ることを信じきった表情をしていた。


最後に、屋上へと向かった。
屋上から助けを求めるこの映像を見たことのある人も多いのでは。

海に浮かぶ孤島のような荒浜小学校(引用)



少し色褪せたピンク色の扉を開ける。
そこにはあの、ニュースで見ていた屋上が広がる。

遠くには鈍色の海。

屋上は思っていたよりずっと小さくて、粉雪の時折混じる強風に吹き晒された。仙台に来てから寒い寒いと言っていた私たちだったけれど、この時ばかりは、あの日と同じ天気を少しでも味わえたことに何か意味があるように思えて、黙って吹雪に耐えていた。

フェンスの網目越しに見えるまちは平らだった。
あの時彼らは、ここで自分の家が、まちが流されるのを目の当たりにしたのだ。津波は静かに、でも着実に、すべてを覆い隠す壁のように迫ったという。


津波に襲われたのは家であり、まちであり、暮らしであり、人だ。


荒浜には、荒浜の暮らしがあった。

夏。荒浜の海は海水浴場として賑わった。
冬。凍った沼はスケートの場となった。

私は震災前のこのまちを知らない。


小学1年生の時に千葉で被災し、大きな被害がなかったわたしはこれまで3.11を語る資格はないと思ってきた。
震災についての記憶すら曖昧で、年に数回折に触れて思い出す程度で、今回遺構に足を運ばなければ、この未曾有の大災害と正面から対峙することはなかったと思う。
でも今回、荒浜小学校には、今日の経験を言葉で残しておきたいと思わせるなにかがあって、おこがましいけれどnoteという誰かの目に触れる形で、と思った。

(なんて偉そうに語りながらも、慌ただしい日常の中でこの気持ちが薄れていくことが怖くて、自戒するばかりだ。)

荒浜では地元小中学校の卒業生が中心となり、花の種を入れた風船を荒浜の空へ飛ばす追悼企画が毎年行われているという。
荒浜小学校は震災遺構でありながら、もう通うことは出来なくても、荒浜の人々が集い、旧交を温める場所でもあった。


帰り道に一人、「花は咲く」を聴いた。
小学生の時にたくさん歌ったけれど、自然と聴きたいと思ったのは今回が初めてだった。
イヤホンを通して流れてくるその曲は、切ないけれどどこか温かく包み込んでくれるようで、なんだか人にも自分にも優しくなれる気がして、少しだけ、泣いた。


東日本大震災によって亡くなられたすべての方のご冥福を心からお祈りいたします。そして、かけがえのない大切な大切な人を失われた方々にお悔やみ申し上げます。


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