あるyoginiのヒトリゴト

ヨガ哲学がベースとした思想です。 記事のほとんどが朝目覚めた瞬間に湧いている文章です。…

あるyoginiのヒトリゴト

ヨガ哲学がベースとした思想です。 記事のほとんどが朝目覚めた瞬間に湧いている文章です。 *素敵な写真はnoteの中の写真家さんたちのものです、いつもありがとうございます🙏🌱✨ Om shanti Om

最近の記事

純粋な想いに見返りはない

私たちの純粋な気持ちには何もくっついていない。 でも、いつの間にか、いろーんなものをくっつけてしまうのが私たちの思考。 例えば、ただ「好き」という想いがあったとする。 なんで好きか?どこが好きか?なにが好きか? など、いつの間にか理由を考え出す。 そして理由をみつけた途端に条件という形をとる。 ◯◯をしてくれるから好きや、 ◯◯だから好きなどの条件付きの好きは、 ◯◯をしてくれない。 ◯◯じゃないなどの不満がうまれる要因となる。 ただ、純粋なすきはいつの間にか、形を

    • 思考の前に

      私たちの思考というものは、止まることを知らない。 お風呂から上り、髪を乾かそうと思ったが、 目の前にあった携帯が気になり、携帯を手に取った。 そしたら未返信のメッセージをみつけて、返信を返す。 そうこうしていると、近くにあったカードが引きたくなった、メガネがないことに気付き取りに向かう。 ほんとうは、髪を乾かす。ことが流れなはずが、思考のワープはとどまることを知らない。 身体をマッサージしよう。と思った。 アロマをたいたらどうだろう? きっといい香りがするよ! 薄暗い方が

      • 私が探していたのは私だった。

        私たちが常に外側に求めるものは、本当は私たちの中に既にある。 私は居場所を探していた。 どこに居ても、何をしていてもひとりぼっち そんな感覚がどこかにずっとあった。 ぴったりと当てはまらない感覚があった。 でもそれは違った。 私はひとりぼっちという思考に光のを当てることによって、自分をひとりぼっち。にして 私はだめな自分だという思考に光をあてることによって、自分をだめな存在。にして 私は何も持っていないという思考に光を当てることによって、ないものを求めた。 本当は、ひ

        • 光の映写機

          インドの神様、ハヌマーン神(シヴァ神の化身)は胸にラーマ王とシータ姫が常に居る。 それはラーマ王が至高神の化身であることから、ハヌマーンは至高神を信仰する象徴として産まれたといわれている。 胸の真ん中に意識を向けると、ただ、純粋な光。 そこには思考も感情も、なにもないことに気付く。 ただ、まるで映写機のように、外側を映し出している。 そこにとどまると、ただ、美しい光だけを感じる。 私たちは外側にある見たものに反応し、思考が働き、感情が働く。 この思考や感情というフィルタ

        純粋な想いに見返りはない

          現実という名の幻想

          サンスクリット語(聖なる言葉)にAbhimani「アビマニ」という言葉がある。 これは、私たちが日常で体験している3つの状態をあらわす言葉だ。 私たちは日常的に常に3つの状態で生きている。 ①個人的に私が居ると肉体を自分だと認識している状態(起きている) ②眠っている時に夢をみているような状態(夢をみている) ③深い眠りに入り、夢もみていない、認識もない状態(深い眠り) これらを日常生活に置き換えるとこのような状態といえる。 ①仕事をしている時の私(役割として担っている

          現実という名の幻想

          私たちの目の前は、常に変化している。 一瞬も変化の無いものなど存在していない。 私たちが目の前に変化がないように感じているのは、私たちが目の前を変化のない日常と認識しているに過ぎない。 私たちの「根源」には常にクリアで産まれたての 「意識」がある。 その「意識」にはなにもくっついてはいない。 私が居る。という意識は、この肉体を私だという認識があるゆえに、感じている。 私たちの「意識」はそれほど、パワフルだということがうかがえる。 意識の上に私たちがのせているものは、

          呼吸に意識を向けるだけで

          さあ、みなさん、呼吸に意識を向けてみてください。 その呼吸は浅いですか?深いですか? こんなフレーズを聞いたことある方もいるかもしれません。 呼吸が浅いことに気付くと、深く呼吸することに意識が向くかもしれません、深く呼吸するには筋肉を緩めることに意識が向くかもしれません。 筋肉を緩めることに意識が向くと、その反対も必要だったことに気付くかもしれません。 はたまた、呼吸が浅いことに気付くと、普段の癖や習慣に気付くかもしれません。普段の習慣や癖に気付くと、原因を心にみるかもし

          呼吸に意識を向けるだけで

          行為をしていても行為をしていない。

          洗い物をする。 洗い物をしようとしてする。 綺麗に洗おう。面倒だ。 などの気持ちが入る時、私たちは行為をしている。 洗い物をしようと決めた。 その後は、決めたことをこなす。 そこに一切の雑念がない。 これは行為をしながらも行為をしていない。 状態といえる。 いわば、行為をしながらも瞑想をしている状態ともいえる。 私たちは、何かを思いついた後、様々な雑念によって、それらがかき消されてしまったり、行動にうつせなかったり、諦めたり、様々な障害がある。 しかし、その障害は本

          行為をしていても行為をしていない。

          キラキラ呼吸✨✨

          私たちの人生は、私たちの意識の焦点をどこに当てているかによって同じ現象を経験していても、受け取り方を180度変えることができ、純粋な意識であれば、現象も180度変えることができる。 では、純粋な意識✨とは何か? 私たちの身体には5つの鞘といわれる鞘によって 構成されている。 その最も中心にあるのが、魂✨だ! 魂はみなさんもご存知のように目には見えない。 触れない。 でも、確かに在る。 その魂の意識は、最も純度が高く、肉体、感情や思考、知識をも超えたところにある。

          今ここに全てを感じる🙏

          今ここに意識を向ける。 私だけではなく、目の前にあるもの、きこえる音、目には見えない今を一同に感じる。 それは神の世界を感じることに繋がるかもしれない、一なる神は全てに繫がり、全てを観ている。 今ここの私がこうして携帯をいじっている間、 食べ物が食べられずに苦しんでいる尊い命がある。 また、今ここの私がこうして携帯を片手に文章を打つ間に、産まれてくる尊い命がある。 私が何を感じるか、私がどこに焦点をあてて今を生きるか…🙏 今ここに全てを感じた時、私たちの意識が全ての世

          今ここに全てを感じる🙏

          本当に高貴な人の高貴さは目には見えない。

          今日は瞑想中に感じたことを記します。 本当に高貴な人の高貴さは目には見えない。 というお話。 以前、インドから師のお兄様である、スワミジが来日されました。 ※スワミジとはインドの僧侶さんです。 その際、ヨガに参加させて頂きました。 お寺での開催でした。 入った瞬間から神聖な空気に包まれており、開始早々、涙が溢れて止まりませんでした。 高貴な存在は居るだけで、場が浄化される。 話す必要は何もない。とはこのようなことをいうのだと体感しました💛✨ また、高貴さが目には見えな

          本当に高貴な人の高貴さは目には見えない。

          生きていることに安心する

          私たちが今必要なこと、それは 生きていることへの安心感✨🌱 た だ 私たちが生きている、それに安心すること。 それが、地球への感謝🙏 ご家族への感謝🙏ご先祖様への感謝🙏🌱 宇宙への感謝🙏神への感謝🙏 につながることに気付くこと。 生きとしいけるものが幸せでありますように🙏 shio

          生きていることに安心する

          ヨガ八支則(ヤマ・ニヤマ)🌿

          ヨガには八支則というものが存在しています。 これらはラージャヨガに付随するものです。 ラージャヨガは王さまのヨガといわれており、 ラージャの意味は1番という意味です。 このラージャヨガは、ハタヨガから瞑想に向かうため、瞑想のヨガといわれています。 ではなんのために瞑想をするのか、それはただ唯一無二の魂に気付くため。唯一無二の神に会うためといえます。 イエス・キリストもラージャヨギーだったといわれています。 そしてラージャヨガの原型をもとに、つくられたのが八支則なのです

          ヨガ八支則(ヤマ・ニヤマ)🌿

          ヨガの素晴らしさ✨届け〜

          今、巷ではヨガのポーズが大変注目を集めています。 何か身体にいいらしい。痩せてキレイになる、ポーズをとってるだけで心が綺麗になるぞ!筋肉もついて体幹も鍛えられる! そんな印象がある方が多いのではないでしょうか? 書いてる私も以前は、「痩せたい」が目的だったのでよーくわかります。 でも、上記に書いたそれらは、ヨガのおまけ💫 でしかないのです。 もっというと最初に体感できること。 でしかないのです。 ヨガに出会ったあなたがこの記事を読んだのは必然です✨🌱 ヨガに出会った

          ヨガの素晴らしさ✨届け〜

          私は私であって私ではない。

          私たちは、至高神からなる、幻影であって 私ではない。 肉体という入れ物にそれぞれが入っているため、個人がうまれるが、それは私ではない。 私たちは、常に至高神によって在り その反映として、外側に反射させている。 その光がなければ私は居ない。 ただ、それぞれに見えるだけ、それだけ。 もとは至高神ただひとつ。 ただ、個の器をもった私たちにはそれはみえないがゆえに、肉体が個であるように錯覚してしまい苦しむ。 常に源と至高神とつながっていることを思い出すことこそ、私たちが本

          私は私であって私ではない。

          内側から輝く✨

          内面の輝きは、その人の在り方にあらわれる。 たとえ、身なりを整えても、立ち居振る舞いを整えても、内面の輝きにはかなわない。 では、それは何か。 内から湧き上がる、自分への根拠のない自信✨ といいかえることができるかもしれない。 それは数多の輪廻転生を繰り返し、いまここにいる自分への自信✨といいかえることができるかもしれない。 それは生きていることが素晴らしい✨といいかえることができるかもしれない。 それはこの世界の至高神との強い結びつきによるものといいかえることができ