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【お話】菜花の頃に

菜種の採れる菜花が咲く頃に降る雨の事を“菜種梅雨”と呼ぶそうだ。

雨が降っている。桜の時期はよく雨が降る。
窓からは満開を過ぎた桜の木が見えた。
菜種梅雨の頃に訪ねてきた訪問者は、今までの出来事を身振り手振りで表現し、最後にはまるでスポットライトを浴びて舞台に立つ主人公さながらに、胸に手を当て腕を空に伸ばし声を張り上げた。
わたくしはどうすればよかったのかしら」
と、目の前にいるたった一人の観客に向けてそう言った。

暫く沈黙の時間が訪れる。席を立ち、温めておいたティーカップに紅茶を注ぎ入れ訪問者の前に出した。それから軽く咳払いをして、
「そうですね。ではまず、あなたの気持ちをもう一度、落ち着いてお話していただけませんでしょうか」
努めて冷静にそう話を切り出した。

雨粒を受ける桜の木に目を向ける。満開を過ぎ、花は少ないながらもちらほらと咲いている。

「ええ、先程もお話しました通りですわ。最初はそれでもよいと、あの人が来てくださるだけで、ただそれだけで私は嬉しくて。この先もその関係が続けばよいと思っておりましたの」
訪問者は窓の外を見ながら話し始めた。
「この時期にしか聴くことのできない音色なんですのよ、あの人が奏でる音色は。あなたもご存知かしら。心地よくて温かくて、聴いているうちについつい身体で拍をとったりして。とても楽しく過ごしておりましたのよ」
そう言ってから、テーブルに置かれたティーカップをゆっくりと掬い上げて香りを楽しんだ後、カップに口をつけた。そして、
「あの人は、私が輝こうとするのが好ましくなかったのかしら」
そう呟いた。
「…好ましくなかった、ですか」
訪問者は音を立てずにティーカップをソーサーに戻した。その一連の流れは美しい所作だった。
「えぇ。私が上気した頬を覗かせた途端、掌をかえすように冷たい態度を取るようになりましたの。私を拒むような態度…それがとてもショックで。ただあの人の美しい音色を純粋に聴いていたかっただけですのに。もしかすると私は感情を出しすぎてしまったのかも知れませんわ」

窓から見える桜が雨粒を受けている。

「それに、あの人は仲間を呼んでおりましたのよ。私は驚くと同時に悲しさがこみ上げて、冷たくされた時にありったけの力で突き飛ばしてしまいましたの」
「突き飛ばした?」
「ええ。突き飛ばした衝撃が私にも…。当然ですわよね、持てる力を全て出したのですから。ご存知かしら。私が輝いて綺麗に見える時期はほんの一瞬ですのよ。その一瞬の為に最後まで頑張ってきましたわ」

まだ雨は上がらない。空気を入れ換えようと立ち上がり、窓を開けて目線の先の桜の木を見つめた。
雨粒が桜についた滴を弾き、そして弾かれた滴より少し遅れて残りの花びらが散った。まるで踊っているかのように舞い散る花びらを、頃合いを見計らったようにして吹いた風がさらってゆく。
「あっ」
雨の中舞い散る花びらを見て思わず声が漏れた。
そして、窓から湿気と共に微かな桜の薫りを乗せた風がこの部屋に入りこんできた。
「…私の話をちゃんと聴いてくださいましたかしら」
「それはもちろ…」
そう言いながら訪問者のいる方へ向き直った。だが先程まで座っていた椅子には訪問者の姿はなく、代わりに薄っすらと色づいた花びらが二、三枚座面に残されていた。
「やはりあの音色が恋しいですわ」
風が抜ける際、微かにそう聴こえたような気がした。

いつの間にか雨は上がっていた。そして花びらを舞わせた風も止み、陽が差して桜の木を照らしている。
桜の木にはもう花は残されておらず、しかしまるで初めから花など咲いていなかったかのように静かに佇んでいた。

やがて緑の葉が一斉に芽吹きそして茂り、翌年よくとしになれば再びこの季節がやってくる。

しかし一体、誰が“菜種梅雨”と名付けたのだろうか。桜の花が咲くこの時期に雨が降るのは、まるで菜花のせいだと言われているようで、余り気分はよくない。あれだけ鮮やかな色で春を彩っているのに目立つのはいつも遅れて咲く桜だ。
この時期を過ぎると私はいつの間にか満腹になっている。