- 運営しているクリエイター
記事一覧
宗谷・樺太キーワード「宗谷三百年記念碑」:稚内・宗谷の「はじまり」はいつ?
稚内市の宗谷岬の近く「宗谷支所」に建てられている「宗谷300年記念碑」。どこから数えて300年か、調べてみました。 Music by Ikson.(育英館大学の授業で、学生が制作した音声コンテンツです。) 宗谷三百年記念碑は、1984年8月に、宗谷岬から、稚内の方向へ7kmほど離れた位置にある稚内市役所、宗谷支所前に建てられています。稚内市の母村である「宗谷」を、松前藩が交易の場所として開設してから300年がたったことを記念しています。 当時松前藩は、1633年以後、幕府の鎖国令の中で唯一蝦夷地への入居を許可された藩でした。この事により、アイヌ交易の独占権を得た松前藩では、「商場知行制」が確立し、蝦夷地の商場が禄として、上級家臣に与えられていました。加えて、松前藩は藩士たちを樺太へと、派遣したと伝えられています。松前藩が交易の場所として「宗谷場所」を開設したのは、1685年とされ、それから300年、1985年に、この記念碑が建てられました。 一方、稚内公園には、開基百年記念塔が1978年に建てられています。これは1879年に、宗谷に戸長役場が置かれたのを、稚内市の開基として、それから100年を記念して建てられたものです。 稚内・宗谷の「はじまり」をいつと考えるべきか、いろいろな考え方が、あるようですね。(担当:本田)
宗谷・樺太キーワード「天北線」:最北へ人々を運んだ鉄路は今
稚内への鉄路は、当初オホーツク海側を通るでした。のちに「天北線」と呼ばれた路線について紹介します(担当:本田) Music by Ikson.(育英館大学の授業で、学生が制作した音声コンテンツです。) 天北線は、1989年に廃止され、現在では多くの人に存在を忘れ去られてしまった鉄道です。 この路線は、1914年に開業後、音威子府を始発として30にもおよぶ駅を繋ぎ、浜頓別や猿払、稚内市内の沼川駅などを通って、南稚内が終点となる路線で、距離148.9kmに及びました。国鉄や、これを引きついだJR北海道によって、運行されました。 天北線は当初、宗谷本線のルートとして1922年に稚内まで開通、稚内、さらに南樺太に連絡する役割を担いました。その後、1926年音威子府から幌延経由で稚内まで通る新たなルート、天塩線が開通し、1930年には幌延を経由するルートを宗谷本線に編入、旧来の浜頓別経由のルートを、北見線として分離しました。 北見線は、1961年の白紙ダイヤ改正を機に、天北線に改称されています。 宗谷本線から切り離された天北線。国鉄再建法や国鉄分割民営化の影響により、1989年5月をもって路線廃止となっています。 天北線廃止から30年以上が経過しました。天北線の跡はいま、稚内・宗谷では、JR稚内駅や、恵北開基百年記念碑付近などに残されています。
宗谷・樺太キーワード「津軽・会津・秋田藩陣屋跡」:寒さに倒れていった東北の藩士たちを偲ぶ
宗谷公園に設置されているコーヒー豆の石像についてです。(担当:小野) Music by Ikson.(育英館大学の授業で、学生が制作した音声コンテンツです。) 稚内市大字宗谷村字宗谷、宗谷丘陵フットパスコースのゴール付近、「津軽・会津・秋田藩陣屋跡」という看板が建てられています。 陣屋とは、軍隊が敵に対する攻撃、守備の態勢をとって、駐屯する所、といった意味です。 ここには、津軽・会津・秋田藩の各地の藩が駐屯し、宗谷の防衛をしていました。 19世紀初頭、ロシア兵が、樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり番屋をおそったりという事件が頻発したため、幕府は襲撃に備えるよう、津軽・会津・秋田の各藩に命じ、宗谷に駐屯するための陣屋が建てられました。東北諸藩の藩士たちは、越冬警備を行いましたが、寒さのために病に倒れ、多くの藩士たちが命を落としています。 現在陣屋があったことを示すものは、この看板だけですが、近くの宗谷公園には、北方警備にあたり、この地でなくなった藩士たちの墓がのこされています。
宗谷・樺太キーワード「中千島戦没者慰霊碑」:中千島の慰霊碑がなぜ宗谷に?
稚内市の宗谷公園には、中千島での戦闘でなくなった兵士を慰霊する、慰霊碑が建てられています。千島列島での戦闘でなくなった人々の慰霊碑が、どうして宗谷・稚内にあるのか、探ってみました。 Music by Ikson.(育英館大学の授業で、学生が制作した音声コンテンツです。) 中千島方面戦没者慰霊碑は、1945年8月、ソ連との交戦で、犠牲となった兵士たちを慰霊するため、稚内市宗谷公園に設置されています。 1945年8月18日、侵攻してきたソ連軍と日本軍は、千島列島で戦闘になりました。千島列島は、それぞれ北千島、中千島、南千島に分かれており、4日間の戦闘で日本側は約1000人の死者を出しました。 これら千島を防衛した日本軍と民間人はシベリアへ強制連行され、過酷な労働を強いられ、その多くが無念の死を遂げ、祖国の地を踏むことはありませんでした。 一般には、沖縄が最後の地上戦と言われていますが、千島列島及び、樺太の戦いが敗戦後にソ連の侵攻で戦われて、これが最後の地上戦になります。 中千島でソ連と交戦した第42師団は、一部の隊を中千島に残し、すでに司令部を稚内に移していたことから、1979年、中千島での戦没者慰霊碑を、稚内に建立することになり、現在に至っています。
宗谷・樺太キーワード「稚内和蘭コーヒー」
宗谷公園に設置されているコーヒー豆の石像についてです。(担当:伊東) Music by Ikson. (育英館大学の授業で、学生が制作した音声コンテンツです。) 「今回のキーワードは、稚内和蘭コーヒー。 和蘭コーヒーはその名の通り、オランダのコーヒー豆を使ったコーヒーです。 長崎の出島に持ち込まれて以来、コーヒーは水腫に効き、他の薬と調合すると解熱、利尿作用があるとわかり、「コーヒーは薬」として伝わって行きました。 1800年、稚内では、今の宗谷、樺太を含む西蝦夷地の警備に300人余りの津軽兵が当たっていました。藩兵たちを襲ったのは、自然環境と栄養失調から来る、「浮腫病」でした。 最初の越冬時にも、このコーヒーが浮腫病に効くことがわかっていましたが、この時、藩兵達にコーヒーは配られず、多くの犠牲を出しました。その後、1855年には、この地にいた兵士たちがこの和蘭コーヒーを飲み、越冬警備を成功させました。 この出来事を記した「津軽藩兵詰合記念碑」が、稚内市宗谷村の宗谷公園に建立されています。」