ボクが見る世界と少年が見る世界
こんな風景に出会ってふと考えた。
ボクの目に映る世界と少年の目に映る世界は一緒のモノを見ているのに全く違うように見えているのではないだろうか?
歳を取るに連れて、色々な経験をする。
そして、色々な知識を身に付けていく。
それが大人になるという事だろうか?
そして、年を取って色々な経験をしていくと、同じ事の繰り返しも多くなるように思う。バスだって、何度も乗ってきたし、バスから見る景色も何回も見てきたし、バスの揺れる感覚も、たくさん経験してきた。
ボクがみた少年は今回が初めてかもしれないし、数回は乗っていても、大人であるボクよりはバスには乗っていないだろう。
ぼくは考えた。
何回も、バスに乗っていても、今日乗ったバスから見る景色や、バスに居合わせる人は今回が初めてだ。しかし、悲しいかな。
バスに乗るとは、頭の中では『〜こんなもの』という感覚が頭にあって、それをなぞらえていたのではないか? 何度か経験して、自分の中で『バスに乗るのはこんな感じ』という枠の元、行動している。
今回のバスだけではない。
"付き合う"って、こんな感情がして、こんな感じ。
"映画館に行く"ってこんな感じ。
”ニュージーランド”ってこんな感じ。
という風に、今まで経験して、これから経験することを分かったつもりになっていないだろうか?
これから経験することは、一生で一回しかない。
しかし、ボクはこれまで経験した事を元に、これから経験することを想像し、経験している事を、その想像を元になぞらえてはいないだろうか?
少年が教えてくれた。
『純粋に世界を見つめる』という事を。
人の話でもそうだ。
相手の話を相手が喋る言葉のまま、受け止めていなかったな〜って思っている。自分が聞いたことあることや知識や経験のもと、自分の中で、それに当てはめて、相手の話に耳を傾けているフリをしていたのかな〜って思った。
自分は見るもの、聞くもの、感じること、食べるもの、出会う人、これから先、色々な経験をするだろう。
しかし、これから経験する全ての事を、今までの知識や経験を元に、自分の中で、こう言う物だろうと言うレッテルを貼ることは辞めたい。
これから経験する全てのことは、今まで経験した事のないものだ。
確かに今まで経験した事のあるような物であるかもしれない。
しかし、似ているだけで、一生に一回しか起こらない経験だ。
そうやって、真っ白な自分の頭の中のキャンパスに色々な経験で描いていきたい。そうすれば、今よりもっと楽しい毎日が待っているのかなって思った。
子供が見る世界とボクが見る世界。
一緒のものを見ているはずなのに、自分の経験や知識が、見ているものを歪んで見せたり、前にもあった光景だ、と思ってみたり。
世界をありのままに見ている少年の目を。
ボクはそんな目で世界を見ていきたい。
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