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ちゃびん

その小鳥さんには ちゃんと愛情と
願いをこめて わたしが かわいい名前をつけてあげていた。


6羽兄妹の末っ子で からだも小さく
先に生まれた お兄ちゃん鳥や お姉ちゃん鳥に ママ鳥からもらう ごはんを かすめ取られていたのではないかと思うくらいの 小ささだった。


それでいて 怖がりやさんではなく
満々と 爛々と 思うが儘に飛んでゆく 愉快な子だった。愛しい。

 
小鳥さんが蹴る という概念を持たずにいたまま 飼いはじめたので はじめてそれを目にしたときは あいた口をふさぐまでに 時間がかった。
みんながみんなではなかったのだが 蹴ることをする子は 目撃して確認したかぎりでは2羽ほどいた。


仲間との いとなみの中で ある個体が あの可愛い足で キックするのだ。
ひとが指で 3をあらわすときの あのかたちの足で 蹴りをいれるのだ。
それは 想像するものを遥かに超えて  爽快でもあり 味わいもある。


頭をつつかれたり キックされる 弱い子は 頭や胸元の羽が なくなったりすることが あるのだが 
そういう子は 得てして たいていは
可愛い性格をしていて 愛らしく よく遊びにきてくれた。


小鳥さんたちは ちゃんと ひとの見分けができる 顔認識ができる生きものである。
飼い主である わたしの目の前では
みんな チャーミングなくちばしで 羽根をきちんと揃えて 気をつけ的な姿勢で おすまししていたが
わたしの見ていないところで 蹴ったりだとか 頭をつつくということを
しているとは 思ってもみなかった。


気付いたときには 小鳥さんのピンク色した肌が 見えていた。
禿げになってしまった 頭を見て
なんということだと 悲しくなったが
また かわいい羽がはえてくるということに 期待した。


にもかかわらず いつまでたっても 羽ははえてこず 胸元の羽もない 禿げちょろけのままだった。 それでいて 元気いっぱいで いつもと変わらず 楽しそうに遊んでいた。



禿げても わたしの愛する小鳥さんでなにも 変わらないのだが
そのひとは わたしの可愛い小鳥さんを ちゃびん と呼ぶようになった。
理由は もちろん禿げているからと
いうことに 疑う余地はなかった。


ちゃんと 名前があるのに
ちゃびん だなんて ひどいな〜と
思ったが そのひとは そのひとなりの 愛情をこめて ちゃびんと呼んで
可愛がってくださった。 
ときには さらに愛情を添えて
おちゃびん と呼んでくださり 進化してゆく愛情を 目にするたびに ひそかに喜びを覚えたものだ。

愛情表現というものは ひとすじ縄ではゆかず 多種多様なものなのだなぁと 本当に感心した反面 ちゃびんはないだろうと そのひとが その小鳥さんを名前で呼んでくれるのを 待っていた。


たくさん飼っていたから 名前を 覚えられなかったのかも 知れないけれど そのひとは その小鳥さんがいなくなってしまうまで ずっと ちゃびんと 呼び続けて 愛してくれた。
楽しかった想い出でもある。


そういえば 好きな子を いじめるという あまのじゃくなひとと 
お付き合いをしたことがあることを
思い出した。


きみのことが 好きなんだけど
わかってほしい・・という想いがあり
それでいて どこまで あまのじゃくれば 気が済むのかと 呆れさせる
ほどに
投げかけてくるのが いじめるなのである。


それでは 百年かかっても
伝わる手法ではないと思うのだが  
そのひとの凄いところは
想いを届かせてしまったところだ。
一念岩をも通す とは あながち嘘ではなさそうだ。 


当然、嫌われていると思っていた
わたしとしては 嫌いなら いじらないで欲しいと ささやかながら願っていたのだが かなりいじられ からかわれて ペコっと凹んだりした。
本当は やさしくて 自ら望んで
自分を差しだすということの できる
稀な存在でもあるひとでした。 


のちに 聞いてみたところ たとえに
うり坊のことを ひっぱり出してきて
愛情表現についての説明をしてくれた。


うり坊に けもの道で出会ったら 可愛いだろう? 木の枝とかで 突っついてみて 困ったり 逃げたりする反応を 試して可愛いことを確認してみたくなるだろう? 
その気持ちと 同じなんだよと 彼は言っていた。


彼のなかで わたしは うり坊と おなじ並びにいて 可愛いうり坊たちに
はさまれていると 思うと それも悪くはないもののように思えてきた。 


ちゃびんと言うのも おなじように
そのひとなりの 愛情表現なのだと
思うと なんて不器用で 可愛らしいのだろうと 思えるようにもなってきた。


わたしは そのひとに これからも
愛を込めて どうぞちゃびんを ふやしていってくださいと 実は 願っている。


愛する対象が ふえるということは 素敵になってゆくという そういうことなのだろう? と思いながら。

わたしは そのひとの口から
ちゃびん という言葉が飛びだす瞬間を 楽しみにしているのだ。
それは 愛のことばでもあるからだ。


そして そのひとが さりげなく
今日 ちゃびんがね、 と言ったら
どの ちゃびん?と 尋ねてみたくて  
うずうずしている。


なにを愛したのか 待ちどおしい 
まだかな まだかな・・・
わたしと そのひととの境い目が
愉しそうに 横たわっている。




















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