見出し画像

青い空 赤い林檎

自分が 生まれてはじめておしゃべりした ことば が何だったのかを わたしは なぜだか知らない。


想像するに あ〜あ〜 とか う〜う〜 とかいう 母音を発して 指さししながら 楽しむところから はじまってゆくのだろうが 意味を認識して はじめておしゃべりした ことばが はじめにひとつあったはずなのだ。


残念なことに その記念すべき ことばが 何だったのかを わたしは知らないのだが きっと素敵な瞬間であったのだろうと思う。


おそらく 名詞であったはずだ。
できることなら はじめて指さしした
ものが 何であったのかも 知りたいと思う。


ひとは その最初のひとつのことばを獲得することにより 次々とあたらしいことばを 獲得してゆくことが 可能になるとされている。行き着くところは 脳のおはなしになってゆくのであるが、狼に育てられた子供が ひとのことばを 流暢におはなしできるようになれない理由の 紐解きにもなっている。


学習者と ネイティブであるということのちがいには 実は脳が深く関わっていて 3歳とも9歳とも言われる壁があり それまでに獲得した言語は
ネイティブといえるものになり 自分のコアなところを支えてくれる言語となるとされている。


念のため 書き添えておきたいのは
この壁の情報は わたしがかつての配偶者である 聴こえない世界のひとと
ともにあったころのものなので 研究が進みゆくなかで 新しい解明がされているかも知れないと思います。
ご存知のかたがいらしたら お力添えをいただければ 心から有り難いと思います。よろしくお願い致します。


学習者は ネイティブにはなれない。
当然のことではあるが その事実を受け入れるのにも 強さは必要であると思う。逆に言うと 分かりやすいと思うので 書いてみると 日本を愛する外国人のかたが 日本語や文化を学習し どんなに愛しても 日本人にはなれない。そういうことになる。

わたしは 聴者であり
聴こえない世界に 生まれていない。
なりたくても なれないし
どんなに 視覚言語が使えるようになっても
学習者だという枠を 超えられないのだという想いは 限界を突きつけられたような感覚でもある。
けれど それでいいのだ。


どんなに お花が好きでも
お花には なれないし
お花も ひとが好きでも
ひとには なれない。
ならなくてよいし おたがいさまなのだ。



わかって 学習すると より尊び謙虚に学んでゆけ 得られることに触れる機会も増えるし お互いに深く 愛し合えるようになれるのだろうと思う。



わたしたちは 自然と聴いて 感じて
ことばを得ながら 書いてみて 自らも
試すようにつかってゆくことで その世界をひろげ そのひととなりのアイデンティティ 自分は何者であり どんな存在であるのかを 認識してゆくことを可能にしてきたのでは ないだろうか。


わたしは ざっくりと 自分は日本人であるという アイデンティティは持ち合わせているが 残念なことに そのコアな部分となるはずのことについて
自らのことを眺めまわしてみても ことばで説明出来るほどには 身についているとは思えない。
知らないことのほうが まだまだ多く残されている。


日本人であるということの 最も重要な プライドの部分が 曖昧なままで
抜け落ちていて 不明瞭なそれなりの存在として生きているのでは あまりにも居心地がよくない。
薄い膜で覆われているように 透明ではないのだ。
日本人であることの プライドを知っている先人の方々や 多くの発信している方々の手をお借りして 学びなおさなくてはならないと思っている。



この気付きは 聴こえない世界のひとたちのなかでも ごく少数のかたが わたしに委ねてくださった ギフトであると受けとめていて わたしというものを満たしたあと どこかへと巡りゆくことを望んでいるエネルギーだと思っている。


ネイティブな手話をつかうことは ろう者がろう者であるという誇りでもあり 手話はプライドである。


手話は 自分たちの言語であり
プライドでもあるという そのことばは
つかわれる言語によって 異なった文化が生まれ 民族というものが 成り立ってきたのだということを 思い起こさせてくれるだろう。



そういうアイデンティティを持った 少数のかたたちのなかにおける そのまた限られた意識を持つ 少数のかたたちの叫びでもある。 手話はプライドだということばは 自分が何者であるのかを 力強く投げかけてくる。
経験するということが 彼らをつくりあげてきたのである。


日本語をつかうことは わたしのプライドであるということばを 
いまの わたしはいまだに つかうことが出来ない。
つかえるようになるためには それを脅かす圧倒的な何かが必要で そこへ到達するための いま 現実で起こっていることなのかも知れないと 経験することを 心から望んでいる。
経験しなくては 自分がどんな存在であるのかを 確認できないからだ。

そして 日本語は わたしのプライドだと言えるようになり 守りながら歩めるようになって 彼らとおなじ立ち位置に ようやく 立つことが出来るようになるのだろうと思う。


最近 ちまたで 世界統一言語ができるかもと ささやかれているが もし それが母国語である 日本語でなければ わたしたちは 学習しなくてはならなくなるし、日本語であれば 世界統一言語のネイティブになれて とてもカッコいい人種になれるかも知れない。これは妄想に過ぎないのだが うっすらとした想定のなかに 据えておくことをしても 悪くはないと思う。


統一された言語を 仮に強制されたとして
母国語を手放すのかどうか。
日本語をつかい続けることを 揺るぎないものとする何かがあるとすれば
それがプライドであり アイデンティティなのではないかと思う。


どこにいる どなたさまのものでも
それは 尊重しなくてはならないと思う。そして その強さとやさしさが
自分のなかに あるのかどうかも 確認しておかなくてはならないのだろう。


仮に まったくあたらしい言語が あたらしい世界に据えられたとしよう。
恐らくは すべてのひとの アイデンティティも 言語とともに 変わってゆぐことになるだろう。
世界がひとつであれば 人種という概念も消えてゆき どごで生まれた人とかいう 使いかたにふさわしい あたらしい ことばが 生まれる可能性だって見えてくる。
想像するだけでも 興味深いことだと感じている。


可能性として 世界がひとつになったとき
頭上にひろがる 青いものか 空であり
たまたま 目の前に 差しだされた
赤くて 不思議なかたちをしたものが
林檎だと 認識したのときの
素晴らしさを もういちど確かめて
みることが できるかもの知れない。


そして その機会が 用意されているのであれば 意識して 触れてみたいと願っている。


青い空  赤い林檎
意識であれば どう伝えれば
よいのだろうか
イメージするように
頭のなかで それを描くだけで
伝えることが できるのだろうか。
イメージして 昼夜とわずに
誰かに届いてしまうのであれば
届けたり 受けとったりして
忙しくて 眠れなくなりそうだから
シチュエーションやタイミングを
設定できるのであれば 最高なのだろう。

眠りながら 小鳩さんに
お願いしてみよう✨✨













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?