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「犬も歩けば棒に当たる」心に浮かんできた言葉(004)

 おはようございます。「てると大吉」です。
 新年度が始まりました。昨日はとても暖かく、洗濯物を取り込んだあとのベランダで大吉も春の風の匂いをかいでいました。

 さて、大吉と散歩しながら、ふと浮かんできたのは「犬も歩けば棒に当たる」という言葉です。大吉が歩いたら当たる「棒」とは何だろうと。
 気になって少し調べていたら、玄侑宗久さんの『禅のいろは』という本と出会いました。

 本文の「犬も歩けば棒に当たる」のところを読んでみると「棒」はプラスマイナスのどちらとも考えられるようです。

「要するにこの諺では、出逢う前からあれこれ棒を詮索するのではなく、とにかく動いてみろと言いたいのである。」17頁

「禅的には、予断なく出逢うことを風鈴と風の出逢いにも喩える。風鈴の音は、予期せぬ風に無計画に鳴るからこそ涼しげなのである。」18頁

「自然界は予期せぬ棒に満ちている。棒を怖れず、しかも棒に予断をもたず、虚心に棒をみつめていただきたい。」18頁

2008.11.19 玄侑宗久『禅のいろは』PHP研究所

 「予断」という言葉で、日々の暮らしを振り返るとき、僕はたくさんの思い込みのなかに生きていることに改めて気づく。その思い込みが僕自身をなんだか窮屈にしている。できるならそこから離れたいと思う。
 
 そこで「そもそもどうして予断を持ってしまうのだろう」と考えてみた。

 人間関係で考えると、相手がどんな人か知っていると安心するから。知っているよ、分かっているよという気持ちでいたいから。などの理由を思いつく。
 例えば僕は背が高いので、バスケとかバレーボールとか得意でしょと見られるが、球技は大の苦手で、黙々と走る方が好きだったりする。

 つまり、パターン化した予断でその人を見るのではなく、「いろいろな予断を僕たちは持っているよね」と、まず意識する。
 そして、だけど本当は「それぞれだよね」と思った方が、相手をより理解できるということではないだろうか。

 「背が高いから・・・」という予断を持ってもらわないで、「好きなスポーツは」と尋ねてもらったほうが、僕のことはそのまま理解してもらえる気がする。
 
 暖かくなったけれど、風鈴の季節はまだ遠い。
 だけど、僕は自分の思い込みを一つでも意識して、人と関わっていきたい、ものごとを見ていきたいと、これを書きながら改めて思っている。

 新しい出会いがきっとたくさんあるこの4月、新年度、新学期・・・。
 その出会いのひとつひとつが、みなさんにとってよりよいものになりますように。

  今回も読んでいただきありがとうございます。 

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