視座の違い

最近読んだ本で共感した一部分。
『この世界には単一の、客観的な現実などというものはもう存在しない。存在するのはさまざまな視座から眺められ、さまざまなフレームで切り取られ、さまざまなコンテクスト上に配列された、似ても似つかぬ事実たちである。』

頭に一生棲みついていて欲しい考え方です。
この文を読んだ時にいい例えを思いついたが、ボツになったものがあります。蛇足ですが記します。
月って日本から見るとうさぎさんで、南ヨーロッパから見ると蟹に見える、他の国だとワニや女性に見える。
それと同じように人によってひとつの事象の見え方が違うんだと。しかし、それだと月(事象)の方が複数の意味を持つにものになっているためすこし違うなと気づきました。まぁでも、人によって異なって見えるという点では、その一つの事象もいろんな面をもっているから
例えられているのか、、な?
(誰に説明するわけでもないのに例え話が好きで、〇〇に例えると、、っていうのをやってしまう)
一つのものを共有していても、それぞれの捉え方の数だけ事実があるなと常々感じます。
人と思い出やものを共有しておんなじ気持ちになることが好きなので残念な事実です。おんなじ気持ちと思っていても、それがぴったり同じってことはないですよね。

この紹介した一節の考え方って人生の救いにもなっていて、人と意見の違いに直面したときに魔法のように気持ちを軽くしてくれる言葉です。自分の言動を指摘された時に「自分は〇〇と捉えたけれど、この人は△△と捉えたのね」と一呼吸置くだけで楽な気持ちになれます。

この言葉への共感と同時に、やはり議論は大切だなと感じます。その時どのように考えて行動したかという本当の理由を知らないと、他者理解は深まらないなと考えます。議論ができないまま軋轢が生じ、縁が切れてしまうのはもったいないなぁ、と思ったことがあり書きました。

全然話がまとまっていないのですが。
(記事ごとまとめて修正か、消します)
人が対立する時には視座の違いがあって(もちろん意見の違いもあって)一つの事象を別の角度から見ていることにより、認識の齟齬から関係の不和が生じることが多々あります。そこで、各々が柔軟に視座を変えてみることによって、対立している意見を理解することができるし、正確に確認することができる。そのため、人は議論はし続けなければならないと思います。

うーん、なかなかに支離滅裂ですが
本を読んで、世の中に1人でも自分と同じ捉え方(それもピッタリとは限らないけれど、そのように認識した)をしている方がいるということを知れただけで嬉しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?