戦後処理の失敗は致命的な結果を生む

クレマンソーが第二次世界大戦を準備したのと同じ意味で、クリントンはウクライナ戦争(そして新冷戦)を準備したと思っている。いずれのケースでも、戦争に勝利した側が敗者を追い詰めすぎたが故の反動が生じてしまった。

アイケンベリーは『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』(アイケンベリー 2004)で、戦後処理こそが平和維持にとって重要だと論じた。「勝って兜の緒を締めよ」が平和維持のために重要なのに、それが政治家の無能故にできなかった。

ヴェルサイユ講和会議でもNATO東方拡大交渉の過程でも、ものの分かった人はいた。クレマンソーに対しては、ケインズが批判した(『平和の経済的帰結 』(ケインズ 2024)。クリントンに対しては、例えばケナンが批判した(Kennan 1997)。しかし、クレマンソーもクリントンも、その忠告を聞くことはなかった。そして破滅的な結果を迎えることとなった。

対して、第二次世界大戦後の戦後処理は、少なくともアメリカのそれは、敗者に対してとても寛大だった。お陰で、西ドイツと日本は平和を愛好する豊かな親米的な国家になった。当時のアメリカ政策当局者の賢明さ!

しかし、第二次世界大戦後のアメリカの賢明さは、第一次世界大戦の戦後処理の失敗から学んだものだったのだと思う。そして我々は、過去の教訓をすぐ忘れてしまう。そうして今の我々の苦境がある。「我々が歴史から学べる唯一のことは、我々が歴史から学ばないということだ」とは良く言われることではある。しかし、やはり悲しい。ただただ悲しい……。

ゴルバチョフ〜エリツィンの時代ならば、平和で自由で西側の一員となったロシアという世界線もあったと、私は思う。だが、そんなロシアが実現する可能性は、もはや数十年単位の未来にしかないように思われる。


しかし、そんな国内政治の選挙力学で、国際政治上の一大問題を決めるなんて、なんてことなんだ!と愕然とする。

ホウソーンの名著『信ぴょう可能性のある諸世界について:歴史と社会諸科学における可能性と理解』"Plausible Worlds : Possibility and Understanding in History and the Social Sciences"(Hawthorn 1993)で論じられているように、歴史を調べると、常に「別の可能性があった」ことと、「そうでしかありえなかった」ことの2つが同時に明らかになる。

そう考えると、頭が混乱してくる。過去を見る場合、その歴史は全て、別の可能性があると同時に決定されていたかのように思える。しかし、だとするとやはり関係諸アクターに行動の自由はなかったかのように見えてくる。だが、今現在の私を含む全員には、行動の自由があるように思える。さもなければ人間は機械人形ということになってしまう。つまり、我々にとって、過去は決定されている。しかし、未来は決定されていない。未来に向けては、我々は自由である、ということなのだろうと思う。

恐らくそういうことなのだろう。アメリカは、国際政治を国内政治の延長として捉える傾向があるのだろう。トランプの大統領再選の可能性が現実的なものとなる今、アメリカのこの思考傾向は、恐ろしいものである。

参考文献

アイケンベリー、G・ジョン.(2004)『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』(鈴木康雄訳)NTT出版.

ケインズ、ジョン・メイナード.(2024)『新訳 平和の経済的帰結』(山形浩生訳)東洋経済新報社.

Kennan, George F. (1997)"A Fateful Error, " The New York Times,  Feb. 5, 1997(https://www.nytimes.com/1997/02/05/opinion/a-fateful-error.html

Hawthorn, Geoffrey. (1993) "Plausible Worlds : Possibility and Understanding in History and the Social Sciences," Cambridge University Press.


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