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本音で逢いに行きます [後編]

前回、Noteを書いてから6日が経過。
書こうと思い、なかなか書けなかった前編の続きを今日は書きたいと思う。


新幹線から降りて、京都駅の近くのホテルにチェックイン。荷物を部屋においてから、待ち合わせ場所のレストランに向かう。
時間ちょうどに到着して父と母を待つ。
5分ほど遅れて2人もやってくる。
いつもだと会うと、笑顔になる2人だが、その日は笑顔が心なしかぎこちない。

『何から話そう・・・』

簡単な挨拶を済ませた後、少々戸惑っている自分に対して、斬り込んできたのは父親の方から。
そこから一気に自分のセクシャリティについての話題になる。


詳細は割愛するが、対話を通じて分かってきたのは以下の点

・両親、自分にはお互いにそれぞれ譲れない価値観・理想・想いがある
・それらは現時点で、決してキレイに交わっていない
・しかしながら、両親は私の幸せを、私は両親の幸せを願っているのは事実

お互い完全に理解し合うというところまではまだまだ道は遠そうだが、
[理解できるポイント]と[理解できないポイント]が明確になったことは、20年間、心の底から本音で向き合っていなかった両親に対して、私にとっての大きな第一歩だった。

あと有り難かったのは、今回の話をするに当たって、父が私の考えを完全に理解できないと言いつつも、父と母が家族になる過程で乗り越えて来た差別や偏見についての体験談を生まれて初めて息子である私に語ってくれた。

『ああ、そうか。両親も今の状況を自らの力で切り開いてここまで来たんだ。』


私と全く状況は異なるが、彼らもとんとん拍子に人生を歩んで来た訳ではなかったからこそ、息子の少し普通の人とは違った生き方を、自らの人生に重ねて見ることによって、現時点で理解は出来ないが、最大限理解をしてみよう、という心持ちになってくれたのかもしれない。
今回、「面と向かって話をしよう!」と話を持ちかけてきてくれた父の考えの背景が理解できた気がした。

己が何者であるか?
というアイデンティティがぼんやりしてしまっていると、
相手が何者なのか?
というダイバーシティに対しても、ぼんやりとした共感・理解に留まってしまい、結果、不寛容に繋がってしまう。

逆も然りで、ダイバーシティの中に身を置かないと、アイデンティティの確立はできようがない。

これらはメビウスの輪の様に相互に絡み合っている。

そんな風に考えると、70歳手前の父の考え方が割と柔軟なのは、きっと彼が歩んできた人生の結果、アイデンティティの確立とダイバーシティへのアクセスが同世代の人たちに較べると強かったのかもしれない。

話に緊張・集中しすぎて、全く味のしなかったご馳走を食べた後、私は滞在するホテルに、両親は実家へとそれぞれ帰った。
今回は帰省ではなく、会食に留めて正解だったかもしれない。

ホテルに帰ってから、普段一人酒なんか絶対にしないのにその日はなんだか無性に酒が飲みたかった。
ビールを飲んでベッドの上でごろんとあれこれ思索に耽っていたらいつの間にか眠りに落ちていた。

急に枕元の電話が音を立てて、起きると父からの電話だった。
寝ぼけ眼で電話をとると、

「お前のパートナーに会ってやってええぞ」

と開口一番、そう告げられる。
発言自体は上から目線で、偉そうな感じだが、文字に書き起こせない口調からは、父の優しさが伝わって来た。
どうやら会食後に別れた後、色々と両親間でも対話を重ねたようで、Gayの息子を認めたくないという気持ちを持ちつつも、理解のための次のアクションプランの提示をして来てくれた。

過ぎ去ってしまった過去は、戻らないし、変えられない。
けれど、今この瞬間や未来は如何様にも変えられる。

20年間、本心を塞いで適度な距離感で接して来た親子関係のリセット。
そして、新たな距離感での親子関係のリスタート。
これからは本心を積極的に交差させながら、もっと居心地の良い親子関係を築いていこうと、自分自身に誓った。

お し ま い


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