しんすけ

文学や音楽が大好きです。でも社会に出た二十代からの仕事は電子工学を主にしたものでした。…

しんすけ

文学や音楽が大好きです。でも社会に出た二十代からの仕事は電子工学を主にしたものでした。応用面で統計力学を用いて半導体の強度に関する調査が主たる仕事でした。その関係で三十代からはプログラミングにまで手を伸ばすことなってしまいました。

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夏 第1回 ロランの『魅惑の魂』から

第一部  シャッターが引かれ明かりが薄くなった部屋で、湯上りの白い服に身を包んだアネットが、ベッドに腰掛けて微笑んでいた。洗ったばかりで梳かれたままの髪が彼女の肩を覆っていた。開けた窓には、八月の午後の止まってしたような金色の暑気が横たわっていた。それを見なくても、太陽の下に眠っているブローニュの庭は脱力を感じさせていた。アネットはそこから至福を迎えられる自分を想っていた。いくつもの時間を、彼女は横になったままで、動くことも考えることもしないでいた。考える必要などなく、動か

    • 不器用な先生 765

      前回  このみや幸太郎たちが学食にやってきた。ちょうど安岡賢治たちの傍の席が空いたからそこに着いていた。このみが夢見に何か話しかけていた。夢見が笑いながらぼくのほうを見ていた。ぼくがいることに気づいたこのみが、ぼくに手招きをした。このみの傍に空席があったからだ。  吉岡洋治と細井雄造との話は一段落していた。それで席を移動することにした。  そこまで行くと夢見に言った。 「昨日はメールを愉しく読みました。読み飛ばしもしませんでした。とても愉快なメールだったからね。ありがとう

      • 母と息子 第4回『魅惑の魂』第3巻第1部 第4回

         アネットが住んでいる建屋では上から下まで、どの家からも蜂の巣が群れを吐き出すのに似た様になっていた。各階からこの貢ぎ物が出されていた。どの階でも一軒以上が貢ぎ物を出していた。その各家庭の男たちが貢ぎ物として犠牲になっていた。  最上階の屋根裏部屋には、一家の父親である二人の労働者がいた。五階には未亡人と三十五歳になるその息子がいた。アネットと同じ階には、結婚したばかり若い銀行員がいた。下の階は、司法官を家庭で、二人の息子がいた。さらにその下は、法学教授の一人息子いた。一階で

        • 不器用な先生 764

          前回  教室を出ると、三人が待っていた。吉岡洋治の表情が興奮しているように観えた。この三人の中では一番冷静だと思える彼のその顔を見ることが、ぼく自身にも感動を呼び起こすのでは… そんな錯覚が生まれていた。  細井雄造が話しかけてきた。 「先生、今日の昼食は学食にしませんか?」  今日の講義に対し、話したいことがあるのだろう。 「わかりました。一旦部屋に戻りますが、すぐに学食に向います」  安岡賢治が、続けるように言った。 「桐川さんが、待っていると思いますよ」  それが、

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        夏 第1回 ロランの『魅惑の魂』から

          母と息子 第3回『魅惑の魂』第3巻第1部 第3回

           この興奮の最中でも、それに関わろうとしない者もいた。それはシルヴィの夫のレオポルドだった。この家族の中で戦列に加えられたのは彼だけだった。彼も国民兵の一員になっていたが、もっとも古参の部類だった。だからすぐに招集されることもないだろうと考えて、のんびりと構えていた。しかし、戦争のほうが彼よりも急ぐのではないだろうか、さらに戦争のほうも彼のことを忘れはしないという予感はあった。そして戦争は思っていたよりも、もっと早く彼のことを思い出した。彼の出身はカンブレーだった。そこは今、

          母と息子 第3回『魅惑の魂』第3巻第1部 第3回

          不器用な先生 763

          前回  学生全員を眺め終わってから、講義の先をつづけた。  ぼくはノートを閉じた。そして言った。 「これで、認識論の講義の終了とします。一年近く聴講してくれたことを感謝しています。ありがとうございました…」  しばらく沈黙が続いた。  教室の隅から拍手する者がいた。大半の学生が、それに続くよう拍手しだしていた。 つづく

          不器用な先生 763

          母と息子 第2回『魅惑の魂』第3巻第1部 第2回

           息子のマルクは、新たな熱情の中にいるようだったが、それが暗いと表現されるようなものではなかっただろうか。だがマルク自身がそれを面に出すことはなかった。それでも彼の手の熱と眼からは、それを観ることはできた… 彼の本能には、これからの先の悲劇的が観えていたのではないか。彼のなかの弱さは、それを恐れていた。だが彼にはこれから訪れる青春を思うと、その到来を認めたくもなかった。どちらつかずの中で本能の声さえ曖昧にしか聴こえないようだった、時代に青春を奪われることへの想いが、彼の中から

          母と息子 第2回『魅惑の魂』第3巻第1部 第2回

          不器用な先生 762

          前回 二月五日 (月)  認識論講義の教室に入ってすぐに安岡賢治が、眼に入った。  講義の最初の言葉を、「ちちんぷいぷい」に、したくってならなかった。そう思うと、笑ってしまいそうだった。前のほうの席にいる学生たちが、ぼくを観ながら怪訝な顔をしていた。 「今日でこの講義も最後となりました。今日は認識論のなかでも大きなテーマである自然法則に対する諸々の原因と結果に関する筋道を語ることで、認識論の一つの締め括りとしたいと考えています。本来なら二律背反、この講義ではアンチノミー

          不器用な先生 762

          母と息子 第1回『魅惑の魂』第3巻第1部 第1回

           戦争はアネットを驚かせるものではなかった。彼女は思っていた。 「世界のすべての出来事が、戦争なんだ…」  日常が、仮面を被った戦争だった… 「…顔を隠してしまったあなたを見ても、だれも怖がりはしない」  彼女の家の人々はすべてが、彼女と同じようにこの出来事を大きな反感を持つこともなく受容できるのだった。彼女は、この数日の試練を経て得ることができた一つの運命論を再認していた、そうしてこう言った。 「わたしには、もう準備ができている。どんなことが起こっても構わない!…」  妹の

          母と息子 第1回『魅惑の魂』第3巻第1部 第1回

          不器用な先生 761

          前回  読みながら、眼を見張っていた。かって枕草子の桃尻訳というものがあったが、それすら思い起こしていた。  正確な翻訳などと言えるようなものではない、だが対象の判断での規則がもつもの、経験の役割と範囲、そしてそこに到達するための理解力にまで触れている。  それらは概念に過ぎないとしても、初めて読むの者に、一つの鏡像を与えることも可能だと思われる。  夢見も環と同様に、まだフランス語に堪能というわけにはいかない。だが、フランス語を学ぶ楽しさは十分に心得ているのではないだろ

          不器用な先生 761

          夏 第457回 『魅惑の魂』第2巻第3部第137回

           夕方になり帰宅する彼の足取りは軽やかだった。それは魂の中の重荷を捨て去って、すべてを軽やかにできること知ったからなのか… だが彼女にその説明を求めても答えは得られなかっただろう。彼女には、理由などはなく背いたものもなかった。輝く喜びに包まれた女の謎、そう観える力強さだけがあった! 彼女を取り囲むすべてのもの、世界の全体は、この瞬間には彼女の夢が生みだす熱情的な幻想が演じる自由な発想のためのテーマに過ぎないものだった。  街で見かける人たちの多くが不安そうな顔をしていた。新聞

          夏 第457回 『魅惑の魂』第2巻第3部第137回

          不器用な先生 760

          前回  指摘された箇所を一通り読み終えたとき、メールが入っているのに気づいた。夢見からだった。  時間はあと五分ほどで、正午になるところだった。約束を果たすために、午前中の時間の大半を使ったのかもしれない。  さっそくメールを読むことにした。昼食後では、待ちきれないそんな思いに駆られていたのだろう。 つづく

          不器用な先生 760

          夏 第456回 『魅惑の魂』第2巻第3部第136回

           自分から解放される、今の彼女はそれができていた。そしてこの重荷を、今も背負った人たちを熟考するように思い浮かべた。それは全体には一つの目的が観えない群衆だった。同じように先に進んでるように観えても、互いのことを知りはしない。進んでように観えるのは、牧場の犬に押し出される羊のようなものだからだ。それぞれが他の人たちを無視して走り急いでいるだけの群れ、この街路にもそうした群衆が見えていた。無秩序の下の主権だけのリズム… そのすべてが信じている、導かれていくことだけを… どこへ向

          夏 第456回 『魅惑の魂』第2巻第3部第136回

          不器用な先生 759

          前回 『プロレゴメナ』第二十四節の注記に関して考えていた。カントが『純粋理性批判』で参照することを勧めているページは、現在ではアカデミック版で指示されるようになっている。そして邦訳でも欄外にアカデミック版のページ数を書くことが慣習になっている。  そこをぼくが読み反芻して、なんとか簡易な表現にできないものかと思うのだが、これは容易なことでないだろう。  しかしここを通過しない限り、『超訳プロレゴメナ』に託した夢は実現しないに違いない。  夢。夢ってなんだ! それはだれでも

          不器用な先生 759

          夏 第455回 『魅惑の魂』第2巻第3部第135回

          「あなたには、後悔はないのですか?」 「ええ、何もない」 「やったこと、やらなかったこと、そのすべてにないって言えますか?」 「何もない。あなたはわたしのことが、よくわかっていない! わたしが後悔するのを、あなたは待っていたのね? でもそれは無駄になった! わたしはすべてを手に入れる。持っていたものも、持っていなかったものも、堅実なものも愚かなものでも、すべてを手に入れる。そのすべてが、真実で賢明でありながらも、狂ってることだってある。多くの人は間違いを犯すけれど、それは生き

          夏 第455回 『魅惑の魂』第2巻第3部第135回

          不器用な先生 758

          前回 "Mère et fils" の良い邦訳が無いと書いたが、いま進めている『超訳プロレゴメナ』も、カントの主旨を伝えているのかと、ときおり考えていることがある。  カントの原文に忠実であろうとはしていない『超訳プロレゴメナ』だが、カントが考えたことには忠実っであろうとしている。カントの邦訳はかなり多いのだが、カントの主旨を明確に示したものは、邦訳には少ないのではないだろうか。ぼく自身がカントをどれだけ理解しているかと問われても、答える自信はないのだが、二十年以上をカント

          不器用な先生 758