弁証法=産婆術

ソクラテスといえば弁証法で有名。天才プロタゴラスやゴルギアスらを弁証法で論破した華々しさが、多くの人々を惹きつけてやまないからかもしれない。
実際、解説書の多くが、弁証法を中心に解説しがち。しかし私は、誰かを言い負かすいけ好かん方法にそんな価値があると思えない。

ソクラテス自身は、自分の特技を「産婆術」だと言っている。誰かを言い負かす技術ではなく、無知な者同士が問いかけ合うことで、互いに知らなかったことを発見する技術。知が誕生するのを助ける技術として、自身のその技術を産婆術と呼んだ。

実は、産婆術と弁証法は同じものだと考えている。こうした指摘をしてる本を私はまだ見たことがないけど。
産婆術も弁証法も、相手に問いかけるのは同じ。なのに前者は新しい知を発見する実に建設的な技術となり、後者は相手の無知ぶりを暴く恐ろしい武器となる。同じものがなぜこんなにも違うのか?

それは、相手が自分の無知ぶりを自覚している人間か、あるいは自分は賢いと思い込んでいる傲慢な人間か、相手による、という違いの様に思う。
無知を自覚している若者にソクラテスが問いかけると、若者は無知なりに一所懸命に考え、答える。ソクラテスはその答えを面白がり、さらに問いかける。

その際、「それについて、こういうことを思い出したけど、それと合わせて考えるとどうなるだろう?」と、新たな情報を加味して問うと、若者はさらに一所懸命に考えて答える。これを繰り返すと、若者は自分の口から、これまでにない発想が出てくることに驚くことになる。これが産婆術。

一方、傲慢な人間に同様に問いかけると、「ああそれはね、こういうことだよ」とあっさり片付ける。そこでソクラテスがさらに問いかけると、また知ったか振りして答える。こうしていくと、次第に自分の答えた言葉同士が矛盾し、おかしくなってくる。最後には「自分はそのことにあまり詳しくない」と、

白状しなければならなくなる。
無知を自覚している人間同士なら、新たな知を発見する素晴らしい技術、産婆術になるのに、自分は何でも知ってると傲慢な態度の人間には、その無知ぶりを暴き立てる弁証法になってしまう。実は産婆術と弁証法は、表裏一体だと考えている。相手が違うだけ。

産婆術と弁証法は、実は同じもの。でも、相手が無知を自覚する謙虚な人間か、知識を誇る傲慢な人間かで呼び名が変わるだけ。私はそう見ている。
こうした見解の本を、私は今のところ見たことがない。けれど私にはそうとしか思えなかったから、自分の本ではその見解を書いた。

ソクラテスの産婆術は、弁証法以上に人類に大きな影響を与えたように思う。天才でなくても新しい知を発見できる方法を明らかにした、というのは、実に革命的なこと。それまで知は、天才の独占物だったのだから。ソクラテスは、歴史に名を残すにふさわしい人物のように思う。

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