虚のデザイン、賢しらの弊害・・・老荘思想の貢献

中国思想といえば儒教が何と言っても主役で、老荘思想は学問の対象とするに値しないと思われていた時期さえあったらしい。
しかし福永光司「老子」「荘子」は、それまで読んできた哲学や思想と違って、乾いた砂に初めて潤いを与えてくれた水のように、気持ちよく染み込んだ。

私が老荘思想を微生物の研究に活用してきたと言うと、不思議がられるかもしれない。
私のもとにきた学生には次のようなクイズをよく出す。「ここに邪魔な木の切り株があるとする。これを微生物の力で取り除いてほしい」多くの学生は、木材を分解するのが得意な微生物を見つけて、それをかけるという。

その方法は実際に学会でもよく研究されてきたが、ぶっかけた微生物は3日もすると駆逐される。土着の微生物のほうがその場の環境では最強だからだ。新参者の微生物は環境に馴染めず、駆逐されてしまうことになる。残るのは、何もダメージを受けていない木の切り株。ではどうしたらよいのか?

面白い方法がある。切り株の周囲に、炭素以外のあらゆる成分を含む肥料をまくこと。すると土着微生物からしたら「あと炭素さえあればパラダイスなのに」と、一種の炭素欠乏症に陥る。そんなとき、炭素のカタマリとして存在するのが、木の切り株。すると土着微生物のうち、

切り株から炭素をとりだすのが得意な微生物が活躍しだす。他の微生物は炭素をもらうかわりに、炭素以外の成分をその微生物に運んでやる。こうして土着微生物の生態系全体が切り株を分解するために動き出す。3ヶ月もしたら切り株はボロボロになるだろう。私はこうした方法を老荘思想から学んだ。

老荘思想が画期的なのは「虚のデザイン」という考え方を生んだ点にあると思う。
たとえば水に、丸くなれ、四角くなれと命令しても、決して丸くも四角くもならないだろう。殴っても蹴ってもいうことを聞かず、ただ飛び散るだけだろう。しかし。

丸い器、四角い器を用意したら、水は自ら丸くなり、四角くなる。隙間を埋めようと、自ら動き出す。なぜか。丸い空虚、四角い空虚を用意したからだ。命令して動かそうとするより、そう動かずにいられない環境、構造を用意すると、水は自らの性質をそのままに、こちらの意図通りに動いてくれる。

「虚のデザイン」は水だけに有効なわけではない。人間についても同じ。
「孫子」には「囲師必闕(いしひっけつ)」と呼ばれる兵法がある。城攻めをする場合は、包囲網に必ず一箇所、手薄なところを設けておけ、というもの。

もし完全包囲してしまうと、城兵は「逃げ道がない、逃げられないのなら最後まで抵抗してやれ」と覚悟を固め、なかなか城は落ちなくなる。しかし囲みに一箇所スキマがあると、城兵は「あそこから逃げられるかも」と弱気になり、実際逃げてしまう。こうして城を落とすことが容易になる。

この城兵の動き、何かに似ていないだろうか?そう、ダムの水。水をたたえたダムの壁に、もしアリの穴でもあいたとしたら、そこから水が吹き出てくるだろう。人間も水分子も微生物も、圧がかけられる一方で陰圧(虚)の場所があると、そこに向かってまっしぐら。

私は、何かを抜く「マイナスα(アルファ)」をデザインすることで、群集を思った通りに動かすテクニックを「選択陰圧」と呼んでいる。他はいっぱいの圧力がある中で一箇所だけ陰圧(虚)があると、水も微生物も人間も群れをなして虚に向かって走り出す。いわば群集制御術。老荘思想は「虚のデザイン」の点で画期的。

老荘思想でもう一つ画期的な発見は、「虚のデザイン」と深く関わるが、「賢(さか)しらの弊害」を見つけたことだろう。
包丁の語源にもなった古代の料理人、庖丁(ほうてい)は、王様の前で牛を丸ごと一頭解体してみせた。踊るがごとく、音楽でも流れるかのようにスパスパと。

王様はその妙技に驚いて「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」とお尋ねになった。庖丁はそれに答えた。「私は切っていません。普通の料理人は切ろうとしてしまいます。そのためすぐに骨や筋に刃先が当たり、欠けてしまいます。何度も包丁を研ぐ羽目になります。しかし私は切りません」

「私は牛をよく観察します。すると次第に筋と筋のスキマが見え、そのスキマに刃先をそっと差し入れるだけで身がハラリと離れます。私は切らないから包丁は欠けることがなく、何年も研いでいません」
なぜ普通の料理人は刃が欠けてしまうのだろうか?切ろうとばかりして、観察しないからだろう。

頭の中の想像上の牛ばかり見て、その通りに切ろうとする「賢しら」があるから、眼の前の牛の筋とは違う流れで刃を入れてしまい、欠けてしまうのだろう。
庖丁はそれに対し、これまでの膨大な経験もいったん脇に置き、虚心坦懐に牛を観察するのだろう。すると、筋と筋のスキマを、無意識が教えてくれる。

自分の考えは正しい、優れているという「賢しら」を捨て、眼の前の牛から教えを請(こ)う謙虚な姿勢でいると、牛が筋と筋のスキマを教えてくれる。賢しら(意識)を捨てるからこそ物事を上手く処理できる。この「賢しらを捨てる」というテクニックは、現代のコーチングにも引き継がれている。

コーチングの創始者ともいえるガルウェイ氏は、著書「新インナーゲーム」で、面白い事例を紹介している。
テニスのバックハンドが上手く打てるようになった生徒に「上手くなったね」とほめた途端、ホームランの連続。「違うよ、さっきはこんなふうにラケットを振っていたよ」と指導すると。

余計に動きがぎこちなくなり、もはやバックハンドがまるで打てなくなり、生徒は茫然自失、すっかり自信を失ってしまう。
そこでガルウェイ氏、指導法を変えてみた。ラケットの振り方とかフォームを教えることは一切せず、「ボールの縫い目を見て。スローモーションのつもりで」

すると生徒は再びバックハンドで上手く打てるようになった。上手く打とうとせずに。フォームを意識せずに。ラケットの振り方も考えずに。なぜ?
意識(賢しら)というのは、身体を動かすのが下手クソ。ラケットをこうして、フォームはこうして、と意識してると、ものすごくぎこちなくなる。

ラケットの振り方やフォームを教えると、生徒の意識はそれらの動作に移る。すると意識はそれらを見ずにいられなくなり、命令せずにいられなくなり、命令通りに動かそうとする。しかし意識は本当に身体を動かすのがヘタクソ。だから動きはぎこちなくなる。

しかしガルウェイ氏は、生徒の意識をボールの縫い目に移した。これにより、ラケットの振り方やフォームから意識が離れた。すると身体の操縦権が意識から無意識に移る。無意識は身体の操縦が実に上手い。複数のことを同時並行で調整するのに長けている。意識は一度に一つのことしかできないのに。

ガルウェイ氏がボールの縫い目を見るように言ったのは、意識を身体の操縦からそらすため。意識は視線につられやすい。ボールの縫い目を見ると、意識はそっちにつられ、身体の操縦のことを忘れてしまう。すると無意識に操縦権が移るというわけ。

ガルウェイ氏は、意識(賢しら)の弊害を見抜いたが、それを老子や荘子ははるか昔に指摘していた格好。賢(さか)しらという言葉は、賢いという字を使っているけど、意識することの不器用さ、弊害を上手く表現した言葉のように思う。

老荘思想は、儒教に負けず劣らず、私達に面白い視点を与えてくれる思想のように思う。儒教はどうしても「意識」して物事を進める学問であるために、かえって不自然な「賢しら」になることが多い。それを老荘思想が補ってきたという面があるだろう。

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老荘思想をはじめ、中国思想や西洋思想が世界任務どんな影響を社会に与えてきたのかを考えてみた本。明後日26日発刊。

「世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方」
https://x.gd/MWrKc

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