湯婆婆的自己犠牲

「自己犠牲」考。
誰かのために損得勘定を抜きにして、いや、損ばかりであっても献身的に他人のために尽くす。これはとても美しい行為とみなされがち。しかし、とても利己的な「自己犠牲」もある。表面上では何の得もないけれど、明らかに自分のためにしている自己犠牲。それはどんなものか。

その人が自分で生きていく力を奪うような自己犠牲。しばしば、こうした事例を見ることがある。
「千と千尋の神隠し」では、湯婆婆が、我が子の「坊」が大きくなっても赤ちゃんのまま、自分に依存しないと生きていけないように「自己犠牲」している。

「坊」はオモチャとぬいぐるみだらけの部屋に閉じ込められ、無能力者の状態に閉じ込められている。世間も知らず。もしそのまま湯婆婆の「自己犠牲」に閉じ込められ続ければ、立派にわがままで傲慢な無能力者に育ったことだろう。そして湯婆婆が亡くなった途端、破綻してしまっただろう。

湯婆婆的自己犠牲は、守ろうとする相手を無能力者に仕立て上げ、自分なしでは生きられなくする。自活する能力を奪う。そして、自分がいなくてはどうしようもなくなる「不可欠感」を演出しようとする。「やっぱり私がいないとダメだね」という状況を作ろうとする。

湯婆婆的自己犠牲は矛盾している。守ろうとしている相手を、かえって将来的に破綻に追い込むことにしてるのだから、守っているとは言えない。むしろ追い詰めていると言える。なのに本人は守っているつもり満々。守っている私は絶対的正義で、聖母や慈母観音にも比されるべき存在。

けれど守られている側からすると、結果的に迷惑な話。鬼子母神を例に考えるとわかりやすいか。鬼子母神は我が子を育てつつ、他人の子どもを喰らっていた。鬼子母神にとって、我が子はかけがえのない存在。でも、他人の子どもを喰らうのなら、その子は鬼子母神が亡くなったとき、どういう立場になるか。

鬼子母神が受けるべき恨みを一身に背負うことになるだろう。もし鬼子母神の可愛がり方が湯婆婆的自己犠牲であるならば、そこに「無能力」もついてくる。湯婆婆も、もし自分が亡くなれば坊が周囲からどんな目にあわされるか、想像できていたのだろうか。

子育ての要諦は、「親である自分がいなくなっても生きていける」ようにすることだと思う。順番でいけば、親が先に死に、子はその後も生きる。その時、子どもが自分のいない第三者(赤の他人)だらけの世界の中で生き延びる力を身に着けておいてもらう必要がある。
湯婆婆はなぜそれができないのか?

おそらく、自分の「生」を肯定したいためではないだろうか。人間は誰しも、「自分は生まれてきて良かったのか、生きていて良いのか」という不安をどこかで抱えているように思う。自分の生をなかなか肯定できないでいるのが普通だと思う。

ところが、子どもはそんな自信のない自分を全面的に信頼してくれる。あけっぴろげに依存してくれる。自分が生きていなければこの子の命はない、という状況にむしろ、親は自分の生を肯定できるような思いを抱く。

親である自分がいなければ生きられない、そうした存在を手放したくなくなってしまうのかもしれない。その結果、いつまでも自分に依存し続けなければならない状態でい続けてもらおうと、湯婆婆的自己犠牲で囲いこんでしまうのかもしれない。自分に依存させることで自分の生を肯定したいのかもしれない。

湯婆婆的自己犠牲の人は、自分の生を肯定するのに、誰かに依存させる方法しか思いつかないのかもしれない。自分に依存させることに依存している、というややこしい状態。湯婆婆的自己犠牲は、「自己犠牲依存症」と言えるかも。

子どもが自分なしでも生きていく力を身につけることと、自分の生を肯定できること。この2つを両立させる必要がある。湯婆婆的自己犠牲に陥る人は、この2つを両立させる「テクニック」を知らない状態なのかもしれない。

では、子どもが自活する力を身に着けることと、自分の生を肯定することの二つをどうすれば両立させることができるだろうか。それは、「驚き、面白がる」ことではないか、と思う。その好例が「赤毛のアン」で登場するマシューではないか、と考えている。

マシューは不器用な男で、特にこれといった能力もない、無口で人づきあいの苦手な人間。でも、主人公のアンが大好きで仕方のない人間。マシューは、アンがその日あったことを話してくれるのをニコニコしながら聞いている。ときおり「おお」と驚き、面白がりながら。

孤児であるアンがあれほども明るく育ったのは、マシューとの出会いが大きいように思う。アンの成長を心から祈り、何か一つ成長が見えたらそれに驚き喜んでくれる。そんな関係性をつくってくれたマシューのことを、アンは大好きで仕方ない。恐らく、死んでもなお、マシューのことは楽しい思い出。

マシューは、アンの生活力を奪うことを一切していない。アンが自分に依存しなければ生きていけなくなるようなかかわり方を一切していない。ただただ、アンの成長を祈り、成長する様子を見ては驚き、喜ぶだけ。それが恐らく、アンにとって何よりの心の支えだったのではないか。

子どもはどこかで覚えているように思う。赤ちゃんのとき、初めて立った瞬間、あるいは言葉を口にした瞬間、親が驚き、喜んでくれたことを。自分の成長で親が驚き、喜んでくれる。それが強い快感となるから、子どもはやがて「ねえ、見て見て」が口癖になるのだと思う。

子どもが自分に強い愛惜の情を持つようになるには、何も湯婆婆的自己犠牲をする必要はない。ただただ、成長に驚き、喜んでいればいい。自分の成長を見守り、驚いてくれる人、喜んでくれる人がいることが、子どもにとっては何よりうれしいのだから。それは大人になっても続くのだから。

自分に深く依存させようと、生活能力を奪う必要はない。そもそも、自分に依存させる必要はない。子どもの成長に驚き、喜んでいればいい。すると子どもは、時折戻ってきては「ねえ、見て見て!」をやり、また新たな冒険へと旅立つのだから。

「千と千尋の神隠し」では、坊は主人公との出会いをきっかけに外の世界へ冒険に行き、自分で歩くことの楽しさ、自分が誰かの役に立つことの充実感を知る。自分が能動的に生きることの快感を、坊は知ることになる。それまで湯婆婆が全く与えようとしなかったもの。奪い続けてきたもの。

そう、湯婆婆的自己犠牲は、なにくれと世話をしているから「与えている」ように見える。しかしその実、子どもが自分から能動的に動く時の快感、達成感を「奪っている」。それを奪ったうえで、自分に依存させる。自己犠牲のように見えて、実は感情的盗賊の行為なのかもしれない。

私は思う。他人の成長や活躍に「驚き、面白がる」と、不思議と人が寄ってきてくれる。またこんなことができるようになったよ!と報告しに来てくれる。それが嬉しい。私に言う必要がないにもかかわらず、時折顔を店に来てくれる。それは恐らく、人間は「驚かす」のが大好きな生き物だからなのかも。

「驚き、面白がる」ことは、相手の成長を促し、自活する能力を高める。それでいて、「また自分の成長を見せて驚かしてやろう」と、楽しみにして会いに来てくれる。自活する能力を高めつつ、こちらの「生」を肯定することもできる。そうしたコツ、テクニックなのかもしれない。

湯婆婆的自己犠牲に陥っている人は、最終的に、自分が守ってきたものから裏切られ、恨まれることが少なくない。自分を無能力者のままにしようとしたその企みに気がつかれて。その企みは決して子どものためではなく、自分の生を肯定したいがための自己中心的な理由であることに気がつかれて。

それよりは、マシュー的なあり方を目指してみてはいかがだろうか。子どもの成長に驚き、喜ぶ。それをするだけで、子どもはどんどん成長し、自活する能力を高め、それでいて、こちらを愛惜してくれる。湯婆婆からマシューへ。それを試してみるとよいように思う。

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