具体的些末的な問題から「普遍」を見出す

以前、哲学をやっているという人から「篠原さんももっと高尚で難解な形而上の問題に取り組めばいいのに」と勧められたことがある。あいにく私はそうしたことに関心がない。もちろん、そうしたところに突入していく人には敬意を持っている。私にはできない芸当だと認めている。他方。

私はそうした難しいことを考えるのが苦手。そもそも興味も湧かない。ほかの人が達成したことに「へえ!」と驚き、感心はする。面白いとも思う。でも自分がそれをしたいとは思わない。興味関心もないし、私はそうしたことが苦手だという自覚があるから。

それよりも、私はもっと身近なことに関心がある。ここ数日、食品ロスと規格外野菜の問題をつぶやいたり、「湯婆婆的自己犠牲」についてつぶやいたりしている。それらは決して高尚でも難解でもない。でも、少なからぬ人が勘違いし、その勘違いのために社会がおかしくなりがちな問題でもある。

私はそうした問題に取り組むのが好き。そして、そうした、高尚でも難解でも何でもないが、どうしたわけか社会の中で誤解が広がり、そのためにうまくいかないことの交通整理をしたいと考えている。こうしたボトムアップ的なことは、一気に事態が改善する可能性を秘めている。

そんな些末なことを一つ一つ取り上げたって、キリがないじゃないか、と、高尚派からはバカにされてしまうかもしれない。しかし、私は些末な事柄の中に普遍を見出し、思わぬ広がりを見せることがある、と考えている。

ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力を発見した、という話は作り話だと言われている。しかしこうした話は、案外人間の思考をうまく言い当てているように思う。昔、アルキメデスは王冠に銀が混ぜられていないか見極めてほしい、でも傷をつけないで、と注文を受けた。

銀が混ぜられているかどうかは、ザラザラした表面にこすりつけると、その模様で純金か銀が混ぜられているかが分かる。でも、王冠を傷つけてはいけないと注文受けたから、アルキメデスは困った。で、ある日、お風呂に入った。で、お風呂の水があふれるのを見て、ひらめいた。

あふれた水の量は、沈めたものの体積と同じ。それにより、重さと体積を精確に調べれば、銀が混ぜられているかどうかを見抜ける、という「アルキメデスの原理」を発見した。風呂の水があふれるのを見て、普遍的な現象を発見した好例。

私は、高尚かもしれないけれど難解で抽象的な問題に取り組む気がない。でも、とても具体的で些末的なことに取り組んでみると、そこには思わぬ「普遍」を発見することが多い。様々な分野に応用できる「知恵」を発見できることが多い。

食品ロスという具体的な問題を深掘りしていくと、
・世間で流布している「常識」と「現場」がかけ離れていることが往々にしてある
・「現場」は見るだけではなく「前提を問う」ことが大切
・「問う」にも、やり方次第で答えが全然違う
という普遍的な気づきが得られる。
https://note.com/shinshinohara/n/nd38fb95513e0?sub_rt=share_h

自己犠牲という具体的な問題を深掘りしていくと、献身的に見えて実は自分の利己的な理由からそうしている、という、人間心理の不思議な綾が見えてくる。具体を深掘りすると、思わぬ「普遍」が顔をのぞかせる。
https://note.com/shinshinohara/n/nab00a907d394?sub_rt=share_h

そして、具体的に考えるからこそ、顔をのぞかせた「普遍」に対して、どういう姿勢で臨めば改善できるのか、やり方が具体的に見えてくる。そしてその方法は、考え始めたその問題だけでなく、様々な場面で応用可能だったりする。具体を考えるからこそ、普遍的な対応策が見えてくる。

私はこうした、些末で具体的な現象を突き詰めることで顔をのぞかせる「普遍」を発見することが大好き。そしてこれは私の性分に合っており、どうやら私の得意と言ってもよい様子。ならば、自分の苦手に取り組むより、得意を伸ばしていった方がよいように思う。

難解で抽象的で形而上なことを追求することは、それが得意で苦にならない人にお任せしたい。私は、具体的でわかりやすくて些末で、それでいて少なからぬ人が迷路に迷い込む、そんな問題を追究し、そこから「普遍」を発見したい。それが私の得意ワザなんだろう、と思っている。

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