関係性をデザインする

中高生と思われる男女が公園で花火して大騒ぎ。ロケット花火がパンパンと爆発する音、笑いさざめく声でかなりうるさい。ご近所の男性が怒鳴りつける声。一瞬静かになったけど、しばらくしたらなお一層やかましく。注意されてよけいに騒いでやろう、となったらしい。

夜10時近くなって、父が公園に。どう話しかけたかというと。「お楽しみのところ、悪いな。あそこ、病院やねん。夜10時になったら否応なしに消灯で、入院してる人は否応なしに寝なあかん。すまんけど、少し静かにしたってくれるか。悪いな」
途端に静かになり、しばらくしたら帰ったらしい。

ご近所の男性が怒鳴りつけても静かにならなかったのは、恐らく、「騒ぐ若者達は悪、怒鳴りつけにきた勇気ある自分は正義」という「関係性」のつもりで怒鳴りつけ、それが若者たちの反発という結果になったためだろう。「なんやオッサン、偉そうに」と、よけいに騒いでやろうという気に。

父の場合、「君達には花火を楽しむ権利がある、楽しむことは何も悪いことではない、私もそれは不快に思わない」という「関係性」で語りかけた。その上で「入院してる人は否応なしに10時消灯で寝なきゃいけない、入院してるから静かにしてほしいとも言いに行けない、そこを配慮してやってほしい」と。

若者たちに花火をやめろとも言わず、病院の入院患者に配慮するかどうかの判断も若者たちにある意味委ねてしまう。花火を楽しむことを肯定され、配慮するかどうかの判断も若者たちに委ねられた「関係性」を示されたとき、若者は自制的な行動を見せた。

人間はこのように、どんな関係性が示されるかで反応がガラリと変わる。「お前たちは夜遅くに騒ぐ悪者に違いない!」と決めつけてる態度で来られると、若者はムカッとくる。反発し、よけいに騒いでやろうというアマノジャクになる。でも、自制心を十分持つと思われた対応をされると自制する。不思議。

道案内をしたのがきっかけで韓国人留学生と親しくなった。大阪の小さな居酒屋で飲んでいると、たどたどしい日本語で気づいたのか、明らかにヤクザと思われる風体の男性が「わしゃ、朝鮮人が嫌いじゃ!」と店内に響く大声でこれみよがしに怒鳴った。何度も。立ち上がり、ヤクザに迫ろうとする友人。

友人はヤクザが分からないだろう、しかしヤクザとケンカになると非常に厄介。私は友人を抱きとめて必死に制止した。その間にも挑発的にヤクザは「わしゃ、朝鮮人が嫌いじゃあ!」と笑いながら怒鳴る。
すると、韓国人の友人はしきりに目配せして笑ってる。何か考えがあるのかと思い、手を離した。

その刹那、ヤクザに向かって突進!「あなた、気に入らないね!」と。すわ、ケンカか!と思いきや、ヤクザの隣にドカンと座り、「ママさん、ビール!」ハッと我に帰ったママさん、慌てて瓶ビールを友人に。そのビールをやくざのコップに継ぎながら、「あなた、気に入らないね!」。

ヤクザは、明白に抗議を受けるのはまだわかるけど、ビールを注がれるという親愛の情を同時に示されるという矛盾した態度に混乱してドギマギ。しかもすでに間合いを詰められすぎて、ケンカになれば自分も無傷ではいられない距離。しかも相手の手にはピール瓶。割れば武器になる。刺されれば大ケガ。

ここは体面を保ちながら講和したほうが得策だととっさに判断したのだろう、ヤクザが「朝鮮人は嫌いじゃが、お前のことは気に入った」と言い出した。すると友人、ガバッとヤクザに抱きつき、「よかった!これでトモダチね!」いきなりハグされてさらに息を呑むヤクザ、なんとか笑顔を繕って肩ポンポン。

友人は笑いながら私の席に戻ってきた。私は一瞬のうちに起きた一連のドラマに呆気にとられた。まさかケンカのプロのヤクザから毒気を抜き、自分のプライドを保った上で、平和裏にことを収めることができるなんて!私はその人間力に圧倒された。私が人間の「関係性」を研究するようになったきっかけ。

ヤクザは、韓国人である友人が怒らずにいない挑発をすることで、「あいつからケンカ仕掛けてきたんや」という格好に持ち込もうとしていたのだろう。そうした「関係性」を示すことで、「わしは言葉だけ、自分の考えを述べただけ、それに勝手に食ってかかってきた相手が悪い」という関係性を用意した。

もし友人がその関係性の構造のまま挑発に乗ったら、ヤクザは「我に正義あり、ケンカを仕掛けてきたのは相手や」と警察にも申し開きできるようになっていた。その上で仲間を呼んでボロボロに料理するつもりだったのだろう。しかし友人は。

気に入らないことは気に入らない、とはっきり伝えつつ、殴り合いになればどちらもただでは済まないことがわかる距離まで詰めつつ、ビールをついで親愛の情を示すことで、ヤクザに逃げ道を用意した。ここは親しくなったという体裁にしたほうが得だぞ、という関係性を用意した。

しかも、相手に心の準備ができる前に間合いを詰められ、ビールを注がれるという予想外の行動をとられてどう対応したらよいか混乱に陥れつつ、「お前のことは気に入った」という言質をとった途端、それを翻すスキも与えられないうちに抱きつかれた。常に機先を制された形。

気に入らない、ということはハッキリ伝え、間合いを詰めてケンカするとまずいと思わせ、親愛の情を示すことで「こちらにあなたの体面も保てる逃げ道がありますよ」という「関係性」を示す。私と2つしか歳が違わない若者だったのに、見事だった。

もし友人が、ヤクザを悪の存在とみなし、懲らしめてやろうなどと考えたら、泥沼に陥っていただろう。相手はヤクザだからタダでは済まない。しかし「関係性」をうまくデザインし、相手に心の準備をする暇を与えなかったことが功を奏した。ケンカの呼吸というのを見せつけられた思い。

関係性をどうデザインするかで相手の行動、態度がガラリと変わる。相手の「存在」を決めつけ、それで関係性を固定化すると相手もそのつもりで行動し、何も変化を起こせない。しかし「関係性」をデザインすると、存在が変容する。存在を固定して考えず、関係性を変えると存在は変わる。

このように、存在に着目せず、関係性に注目し、関係性をデザインしてみる。すると、変化した関係性に合わせて存在が変容する。こうした考え方をする社会構成主義というのは、なかなか面白い。面白いけど、実に堅苦しい名前。改名したほうがよい気がするけどね。「関係性から考えるものの見方」って。

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