「素」の自分と「素」の世界

子連れの母親が近づいて「勉強しないとこうなっちゃうよ」と言って立ち去ったという。「俺の仕事、簡単と思われてるのかな。結構難しいんだけど」と言ってその人は笑っていた。ちなみにその親子を私は知っていた。その後、その子は勉強できなくなってしまった。

とある、高学歴が自慢の母親が「このあたりの人はレベルが低い、話にならない」と言って小バカにしていた。その子どもが転職を重ね、学歴を活かしきれない仕事に変わると、その子どもは母親のかけた「呪い」に苦しんでいるようだった。母親の小バカにしていた人間に自分がなったような気がして。

一般に、上を目指すことはよいことだとされる。上昇志向は努力を促し、能力を高めることができると考えられているからだろう。しかし上昇志向は別の見方をすると、強烈な「呪い」になるように感じる。もし上昇できず、そこから落ちこぼれたらお前はもうダメ人間なのだ、という呪い。

最近、「教育虐待」という言葉が広がっている様子。親が熱心に子どもを指導し、「上昇」させようとして子どもを潰してしまう事例が目立ってきているのだろう。私も複数見てきている。問題は、ものすごく「こじれる」ことが多いことだ。
https://bunshun.jp/articles/-/63989

失敗すればやり直せばいいし、なんならやり直さなくても、現在与えられた環境を楽しみながら取り組めばいいと私は思う。なのに「上昇志向」で育てられた子どもは「自分は落ちぶれてしまった、もうダメだ」と自分をみなし、自暴自棄になっている。自分を認められず、許すこともできない「呪い」。

「ああなったらダメよ」という親の価値観、世界観が、子どもを苦しめてしまう。自分はダメになってしまった。ダメなところで満足していてはダメだ、と思うから、目の前のことを楽しめない。「俺はこんなところでくすぶっているような人間ではない」という思いが湧いて楽しめない。

しかもそうした傲慢な気持ちがどうしても端々に現れるから、周囲からしたら不愉快。で、周囲とうまくいかず、摩擦が多くなる。その摩擦は実は、自分から周囲を見下す言動があったことが原因なのに、「自分以外は程度が低いからだ」と見下し、さらに悪循環を生む。

私は高校を出て翌年、京大を受験した。そこそこ成績がよかったためか、周囲は「受かるかも」という目でチヤホヤしてくれていた。しかし不合格。すると、どう声を掛けたらよいのかわからないのもあったのだろうけれど、スーッと人が引いて行ったのが分かった。

その後、中堅大学に合格することができた。でも、周囲は「京大落ちた人」みたいな感じで、反応が微妙。でも、私は仕方ないと考えていた。高校を出てすぐ母が死に病だと聞かされ、実際には助かったのだけれど、1年間家事を担当して、受験勉強が思うようにできなかった。それでも。

家事から逃げなかった自分を認めていた。それでも周囲はそんな事情は分からない。事情が分からないのも仕方ない、と諦めていた。しかし中堅大学に合格したその翌朝、正面にお住いのおばあさんがチャイムを鳴らして「合格おめでとう、あんた、本当によく頑張ったね」と言ってくれた。

「お母さんが病気で倒れて、それでも買い物行って料理作って洗濯して、本当によく頑張ったね。このたびは本当におめでとう」そう言って、涙まで見せてくれた。
私は、ああ、見てくれていた人がいたんだ、と思った。いちばん認めてほしいところを認めてくれた人が、ここに。

本当は親にその点を認めてほしかったのだけれど、親も「京大落ちた」にガックリして、私が1年間家事を手抜きせずにやっていたことをスルーしていた。後日、「あんたは阪大とか名大とか受けてても合格できる実力なかったと思えばいいんやな」と吐き捨てられて、茫然とする事件が起きたほど。

でも、ご近所のそのおばあさんは私の心を救ってくれた。京大とか成績が良いとかそうした外面的なこと、飾りでしかないものを一切見ずに、私が家族の危機に際して家事から逃げなかった様子を見てくれていた。
その時頂いたお祝いは、今も手をつけずに大切に保管している。

さらにその翌年、私は再挑戦してようやく京大に合格したわけだけど、チヤホヤする言葉は嬉しいというより、微妙だった。親は大喜びしてくれたが、家事を逃げなかった自分を認めず、学歴のことで露骨にガッカリされたことが引っかかって、それも微妙。以後3年ほど、鬱のような状態になった。

それでも救いになったのは、お向かいに住んでいたおばあさんの言葉。学歴とかどうとか、外面的なものを見ず、「素」の私を見て、その努力を見てくれていた。それが何よりうれしかった。京大に合格したことをほめる人は、私をほめているのではない。京大をほめているだけ。

「素」の私を見てくれていた人がいた。そのことはずっと私の中で一つの灯でもあったが、周囲の表面的なチヤホヤですっかり嫌気がさし、私はなかなか鬱の状態から抜けられなかった。ようやく抜けることができたのは、思い切って出かけてみた高知への一人旅だった。

海岸べりでテントを張ったら強い雨風。雨が吹き込んで全身ずぶぬれ、荷物もずぶぬれ。朝になり、傘をさすのもバカバカしくなって、バス停のベンチでぐったり座っていた。すると初老の女性が私を見て「おいで、ともかくこっちにおいで」。

「私はこれから出かけなきゃだけど、旦那に言っておいたから」すると男性の方が「ともかく風呂にはいりなさい」。風呂から出ると食事の用意ができていて「食べなさい」。食べ終わるころにお酒が出てきて「飲みなさい」。ご近所の方たちも来て酒盛りに。やがて奥さんが戻って「今日はもうお泊りなさい」

朝起きると、荷物がすべて乾かしてあって、お弁当まで渡してくれた。「近くに来たら、またおいで」と夫婦で手を振ってくれた。
この人たちは、私を学歴とかそんな外面的なもので一切見なかった。ただのぬれねずみになった情けない男でしかなかったのに、親切にしてくれた。

「素」の私を見てくれた。そして「素」の私を面白がり、「またおいで」と言ってくれた。お向かいのおばあさん、高知のご夫婦は、私を「呪い」から解き放たってくれた。上昇しなければならない、落ちぶれたら終わり、という「呪い」。なんてつまらないのだろう、と。

阪神淡路大震災では、様々な職業、立場の人がボランティアで集まった。髪の毛を真っ黄っきに染めたトウモロコシ頭の青年もいた。けれど、それぞれの人間がそれぞれの個性を生かして、避難所の仕事を回していた。そこでは学歴とか社会的立場は無意味だった。「素」が大切。

私は、学ぶこと自体は大切だと考えている。しかしそれは学歴を得るためとか社会的地位を得るための「道具」だから、ではない。むしろ、そうした考え方は学ぶことを汚してしまい、面白くないものにしてしまうように思う。学ぶことの大切さは、「学ぶことは楽しいから」だと思う。

お向かいにお住いの農家さんは、80歳半ばだったのだけど、向学心旺盛。「インターネットで調べたんやけどな」え?自分でインターネットで調べてるんですか?と驚いた。
巨大な庭石を動かせなくて困っていたら、棒2本で見事大移動。その手腕に私は驚いた。

「わし、コメはまだ50回しか育てたことがないからようわからん。毎年違うねん」と言って、50年分の農業日誌を見せて頂いたことがある。肥料をどのくらいやったか、今年の工夫はどうしたかなどが克明に記載されていた。その知恵と工夫に私は心底驚かされた。

その奥さんは「背骨が折れた」と言いながら杖ついて、余分に作ったからとおかずを持ってきてくれた。いや、背骨折れているんですよね?
数日後には軽トラを運転しているのを見て仰天した。その奥さんの持ってきてくださるおかずはとてもおいしかった。

雨で息子を幼稚園まで迎えに行かなきゃいけない、でもまだ赤ちゃんの娘をどうしよう、とYouMeさんが悩んでいたら、お向かいの奥さんが「赤ちゃん、預かっておいてあげるよ」と言いに来てくれた。雨の様子を見て、気を利かしてくれた。なんとありがたい。

人間ってすごい。外面的なもの(学歴とか社会的地位とか)に囚われる人は、その外側のものに幻惑されて全然見えなくなっているようだけれど、そんなものはまあ、どうでもいい。でも、「素」の人間って素晴らしい。すごい。驚きの連続。

私もYouMeさんも、子どもに勉強しなさい、とは言わない。「勉強しないと~になるよ」なんて脅しを使うつもりはさらさらない。学ぶことを楽しめばそれでいいと考えている。「楽しみなさい」と親が言うのも変だからそれも言わない。楽しむことは、他人から言われてするものじゃないから。

親としては、子どもがそれまでできなかったこと、知らなかったことを、「できた」「知った」に変えた時、驚いているだけ。「へえ、そんなこともできるようになったの!」「ほう、もうそんなことも知っているんだねえ」と驚いていると、子どもは新たに学んだことを披露してまた驚かそうと企むらしい。

子どもは本も読むけど、マンガも読むし、テレビも見るし、友達とも遊ぶし、ゲームもする。でも興味深いことに、どんなことからも学んでいるらしい。何か気づいたことがあったら「こんなのに気づいたよ」と教えてくれる。私は「よくそんなのに気がついたな!」と驚く。

学び方に境界線はない。本を読むのだけが学びだと思ったら大間違い。日常の中の遊びに学びはある。学びは遊びでもある。遊びと学びに境界線はない。学ぶこととは、遊ぶことだと言ってもよいように思う。

何事にも興味を持ち、楽しむ。学ぶことを楽しむ。それさえ子どもたちが身に着けてくれたら、それで十分だと考えている。そういう意味では、子どもたちには、上昇志向を期待していない。むしろ足元を見て、足元で楽しんでくれたらよいように思う。

自分の足元にも、知らないことがいっぱい。ムシムシ博士との初めてのハイキングでは、1時間たっても2メートル移動したかどうか。足元の雑草や虫を観察するだけで知らない世界が広がっていたから。足元に楽しいことがいっぱい転がっていた。

上?なにそれ?それより、楽しもうよ。目の前のことを。ありもしない架空の「上」を見て、現実を見下し、つまらないものだと断定し、楽しめなくすることって、そんなに価値のあることだろうか。

この世界はすでに面白い。魅力に満ちている。足元でさえ宇宙が広がる。こんなに面白い世界、楽しまなきゃ損。「素」の私たちのまま、変な架空のものを持ち込まないで、世界を「素」のまま楽しめばよいのだと思う。楽しむことは学ぶことであり、学ぶことは楽しむことでもある。それでいいと思う。

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