「全否定」してたらキリがない

デカルトと言えば「我思うゆえに我あり、でしょ!」とか、「心身二元論だよね!心と体を別々に分ける考え方がいろんな問題を引き起こした!」とか、主にその2点がやり玉にあがることが多いのだけれど、私はそこ、あまり重要ではないと考えている。デカルトが厄介なのは「全否定」だと思う。

デカルトの生きた時代はキリスト教が二つに分裂していた。旧教(カソリック)と新教(プロテスタント)。互いに自分こそが正しい、相手が間違っていると批判し合って、ついには聖バーソロミューの虐殺と呼ばれる大虐殺事件まで起きている。まさに血で血を洗う争い。

それまで西欧は、キリスト教が絶対的な支配をしていた世界だった。キリスト教の教えは絶対正しい、それを教え広める教会は絶対正しい、そこでお勤めする僧侶も絶対正しい。そうしたそうした世界で迷いなく生きていけたのに、そのキリスト教が真っ二つに分裂してしまった。

何が正しいのかわからない、何を信じてよいのかわからない状態に人々は追いやられて、「絶対に正しいものを見分けるにはどうしたらいいのか?」という課題が浮かび上がっていた。しかし旧教も新教も、互いに自分を正しいと言い、相手が間違っていると指摘するばかりで、決着がつかなかった。

そこで登場したのが、デカルトの「方法序説」だった。デカルトはその本で、次の二つの方法原理を示した。
①すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ。
②確からしいと思われる概念から、思想を再構築せよ。
デカルトのこの提案は、当時の知識人たちに衝撃を与えた。

「この方法なら、絶対正しい思想をゼロから作れる!それも自分自身の力で!」いろいろ批判は出たけれど、「全否定」して「再構築」するというこの方法は、間違いを完全排除し、正しい概念だけで思想を再構築できる、素晴らしい方法だと、その後の多くの知識人たちを魅了した。

しかし、それがまずかったのだと私は考えている。デカルトの方法では、否定しなくてもいいものまですべていったんは否定する。その作業はとてもつらいものになる。つらいから、その作業をやりおおせた暁には、完全無欠な思想を再構築できているに違いない、と信じたくなる。「補償」というやつだ。

デカルトの「すべてを疑い、否定せよ」という提案は、皮肉なことに、「自分の再構築した思想を疑いもせずに信じ込んでしまう人」を大量生産することになったように私は感じている。つらく苦しい作業をやりおおせた人は、「自分のように果敢に思想を再構築した人間は世界で一人かも」と思ってしまう。

ものすごい思想的格闘をしてきたのだという自信が、自分の思想への過信につながってしまう。デカルトの提案の問題は、「全否定」という極端な方法を実施してしまうがために、再構築の作業を終えた人は「自分の正しさを信じて疑わない」人間に変えてしまうことにあるように思う。

ニーチェは確か、「自分はなんてすばらしい本を書くのか」と自画自賛、自己陶酔している文章を残していた。ニーチェはデカルトっぽくない思想家だが、こういう心理状態になる知識人を、デカルト以降はたくさん輩出することになったように思う。

恐らくヒットラーもポル・ポトも、「自分以上に徹底してこれまでの既成概念を否定し、もう一度思想を検証し、再構築した人間は他にいない」くらいに思っていたのだろう。だから平気で人を殺すこともできた。自分は絶対正しいという確信があるから。

しかし私は、それは幻想だと思う。人間はしょせん人間。絶対正しい思想を再構築できると考えることに、そもそも無理がある。無理があるのだけれど、デカルトの提案通り「全否定」をやっちゃうと、あまりにしんどい作業なので、自分の再構築した思想を信じたくなってしまう。

デカルトの生んだ近代合理主義の大きな問題は、この「すべてを疑い、全否定する」ということを当然のように考え、実行する性質にあるように思う。どれだけ過去に信じられてきたものでも「迷信でしょ」であっさり否定してしまう。そのことの副作用なんかに全く頓着せずに。

しかし「全否定」の恐ろしさは、それなりの時間をかけ、検証してきた結果、妥当性が認められているものまで「迷信でしょ、既成概念を信じ込むのは合理主義者じゃないよ」といって、あっさり否定してしまう軽々しさ。そして破壊してしまった後に、破壊することの愚かさに気づくという愚かさ。

私は、「全否定」の副作用が強すぎるので、もうやめたほうがよいと考えている。「全否定」の代わりに「前提を問う」で十分だと思う。何かうまくいかない、なんかおかしい、と感じた時は、それが正しいとされる前提を問う。すると課題が見え、改良すべき点も見えてくる。それで十分。

今まで、それでそれなりに上手くいっている方法を全否定し、イチから全部やり直すのは、ひどく骨が折れるうえに、再構築のまずさで余計にひどくなることはよくあること。改革のつもりで改悪になってしまう。

昔、前衛的な建築家がコンクリートの打ちっぱなしの家を作ったりして高い評価を得た。デザイナーのセンスが隅々にまで活かされた、かっこいいデザイン。でもいざ住んでみると、実に不便だったりしたという。生活者のことを考えてないから。デザインだけ考えたものだから。

生活の知恵から生まれた配置、工夫というものを「既成概念」として否定し、デザイナーがかっこいいと思うデザインで統一した結果、住むには不便過ぎる家になってしまう。こうしたことが「全否定」した場合に数多く起きる。頭の中だけで考えたことって、うまくいかない。

せいぜい、これまでのやり方では不便を感じたら「なぜこうなってしまうのか」という前提を問い、そこを修正するだけで大幅な改善が図れるのだから、全否定はする必要がない。むしろ害悪のように思う。

デカルトの提案した「全否定」は、もう実施しないほうがよいと私は考えている。ところが不思議なことに、デカルトの問題点としてこの「全否定」を問題視する本がどうも見当たらない。私はこれ、大問題だと思うし、思想界に激震を与えたのもこれだと考えている。このことの自覚は、非常に大切だと思う。

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