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翁とわたし

◆花街へ

あれは私が二十代半ばのときだった。
節目の季節ではなく晩冬の候。
当時いた会社を辞め、次に入る会社も決めていた。しかし暫く自由な生活がしたいと思い入社をやめた。
自宅は押上。
スカイツリーはまだなく閑散とした下町だったが私はそこが大好きな街だった。
近所でバイトでもしよう。

そう思った私は近所の定食屋さんやキレイとはいえない中華屋さん、純喫茶など色々な店をリサーチした。

が、ピンとくるところはなくアルバイト情報雑誌を見てある求人を発見する。

場所は向島。お座敷サービス係、時給三千円。
なんだそれは、と思いながらもピンときたので応募してみることにした。

電話をしてみたら女性が出て、あっさりと「じゃあ今日の四時に来れるかしらー」と面接に。

押上駅前に住んでいたのだが向島方面に行くのは初めて。
踏切を渡り桜橋に近づくにつれなんだか不思議な空間になってきた。
景色がカラーからセピアに、しまいにはモノクロに。

着いた。
ものすごく古くて大きな日本家屋。
門をくぐり情緒のある小径を少し歩くと引戸の扉があった。

ベルも何もないのでノックをしてガラガラと開けた。

中はタイムスリップしたかのような異空間だった。
そして何故か私はここで働くだろうと思った。

「こんにちはー」
と大きめの声で言うと髪を結い着物姿の五十過ぎ位の美しい女性が現れた。
萬田久子さんと加賀まりこさんを足して二で割ったような美熟女。

面接にきましたと説明すると応接間に通された。
一階は吹抜けになっていて、初めて見たそれは見事な日本家屋だった。

美熟女こそ女将さん。
話し始めると典型的な主語のない説明をする不思議な人だった。

最初に言われたのは
「ここは花柳界なの、わかるわよね?」
「花の柳の花柳界ですか?」

私も大人なのでさすがにこの時給で料理を運ぶだけなわけないと思っていた。

「隣でニコニコして座ってればいいから。あとはお客さんのお酒が減ったらお注ぎする、それだけよ。
早速明日からきてみたら?」

わかりました。とお店を後にした私。
こんなところに花柳界があったなんて。

お座敷は大抵十八時に始まる。
よって私たちは十七時に髪を結い、お店で着付けをする、という段取りだった。

初日、髪を結い身支度部屋に行くとひとりの美しい女性がいた。
唯一の先輩と呼べるお姉ちゃん。
小柄で童顔だが当時で三十歳と言っていた。

とにかく美しくてその整った小振りな顔をマジマジと凝視してしまった。

彼女はプロの女優さんだが売れてはなく、予定の融通がきくここで働いていた。
芸事にも熱心でとにかく踊りが上手かった。

私は着物が着れなかったのだが、一から手取り足取り教えてくれた。
こうすると綺麗に見えるよ、など裏技的なことも教えてくれた。

するとドタバタと女将さんが入ってきた。

「今日はあなたが入るからお客さん呼んだの!作家の先生だけど大丈夫?」

「はあ」
ギリギリのところで気付く女将さん
「あ!名前どうしようかしら!決めてなかったわね!」
そうか名前か…
「花丸ちゃんとかどう?菊丸ちゃんもいいかしら?」

なんだそれと思い咄嗟に従姉妹の名前を言ってみた。

「すみれ(仮名)とかどうですかね?」

「いいじゃない!じゃあそれで!」

あっさり決まった。

街のお姉ちゃん達は普通の名前の人もいたが金太郎お姉ちゃんや千代丸、小手鞠、蔦丸など独特な名前の人も多かった。

普通の名前になってなんとなくホッとした。

そろそろお客さんがやってくる。

緊張しながら女優姉と玄関で正座をして待つ。
女将さんは門を見通せるように一段降り立ってお迎えをする。

そして某作家の先生が現れた。
いかにも神経質そうな雰囲気。
大丈夫なのだろうか…

「あら先生〜今日も素敵〜」
女将さんは言いながら部屋に通すよう促がす。

完全な初日、なんのレクチャーも受けてない。
それでも始まってしまったお席。
女優姉がこういう時はこうするのよ、と目で合図をしながら教えてくれた。

幸い、昔は純文学系の本をかなり読んでいたので話題が止まることはなかった。

政治に経済、真面目な話で終わった気がする。
だがこれは稀。

向島しか知らないのでなんとも言えないがここは特殊な花街だった。
頂点である祇園を始め他の街では存在しない「かもめ」という子達が存在する。

彼女達は女子大生などでお稽古などはせずバイトとして置屋に所属し料亭にやってくる。

芸ができないので芸者と呼ぶにはプロに失礼、と言う人もいる。

芸者は呼ばれた料亭で気に入られれば「専属」になれる。

誰かに見染められればその客は旦那となり、芸者の面倒を見る。
月々の手当ては置屋の女将さんが抜くので置屋も儲かる。

子供も産ませてもらえれば一生安泰。

街を管理するのは「見番」
芸者衆はここで日中お稽古をする。

その中でも私の入った料亭は特殊だった。

普通は置屋に入るところを私は直接女将さんに雇われたのである。

当時は三〇件近い料亭があった(今は十件位)が他所の女将さんは全員芸者上がりに対し、ここの女将さんだけは普通の人だった。

しかも本所の実家は商人、末っ子お嬢様育ち。

華道教室で出会った一回り上の男性と恋愛し、嫁いでみたら彼は向島料亭の三代目の跡取りだった。

よって自分も三代目女将になることが決まった。

この頃旦那さんは沢山の芸者衆に狙われていた。
結婚すれば女将になれるからだ。
そこに素人の何もわからない女が嫁いできた。
相当混乱しただろう。

狙っていた旦那さんを取られ、芸者衆から徹底的に苛められた女将さん。

その一方で余所の料亭の女将さん達はみんな芸者上がり。
素人なんかに務まるはずがない、絶対続かないと噂されていた。

そして二代目(義両親)、女中さん、板前さんたちとの共同生活が始まった。

義母からこの子が若女将です、と紹介され御座敷に上がる日々。

何もわからないけど逆に素人っぽさがお客さんには好評だったよう。

そして負けず嫌いな性格。
見番での女将の集まりには積極的に参加したという。

嫁いだときは百軒以上あった料亭も今は十軒ほど。
そこに残ってるまでになった。

私と出会った頃の彼女はとにかく強い女性だった。

おっとりお嬢様から花街の女将さんへ。
すごい人生だ。

そして彼女は未だに芸者さんを軽蔑しているふしがあった。

だから自分の所に来た子にはプロっぽくなって欲しくないという強い気持ちがあった。

下品な事をする芸者さんを特に嫌った。

ベテランの芸者さんは結構すごい事をする。

私は流石にショーツだけは履いていたが、着物に下着は御法度。

局部をチラチラ見せたり、その場で毛を抜いてお客さんにはあげたり。

そんなことをしたらここのお店では出禁になる。

セクハラされそうになったらすぐに逃げていいからとも言われた。

私と女優姉は女将さんから直に雇われた専属。
見番も通していないのでお稽古は向島最後年齢のお三味線のお姉ちゃん(当時七十代)からつけてもらっていた。

お稽古をすること自体、女将さんは必要ないと考えていたが、私の場合はお客さんには合わせて小唄や清元など。
踊りはそこまでやらなかった。

向島には繁忙期がいくつかある。

一月は新年会(プラス初七日は上客だけが呼ばれちょっとしたステイタス)

二月初旬はオバケと呼ばれ、芸者衆が仮装をするイベント。

三月はお花見

七月は花火

九月は牛嶋神社のお祭り

十二月は忘年会

私はお花見に向けての求人で入った。
時期は二月末頃だった。

私が入り、何名か女の子たちが入ってきた。
お花見繁忙期はそれで乗り切った。

が、やはり特殊な世界。
女将さんが辞めさせたり自ら去って行ったり、円満に辞めた子は元々期間を決めて入ってきた子ひとりだった。

唯一の先輩女優姉も女将さんと揉めて辞めてしまった。
そして専属は私一人に。

◆出会い

月に一度、二十一時頃二次会としてくる人達がいた。
それが霞ヶ関ライオンズのメンバー達。

浅草の鰻屋で集まり、気の合うメンバー七,八名でやってくるのである。
その中にいたのが翁だった。

だいたいみんな七十代か八十代。
女将さんはみんなお歳だからお酒は薄めにねと、ほぼお湯を飲ませていた。

初めて会った時の事は正直よく覚えていない。

ただ、周りのみんなが翁は銀座にビルを沢山もってるんだよ、などとチヤホヤしていて、翁はいやいやそんな大したものじゃありませんよと謙遜していた。

芸者衆にも優しく、歳下のメンバーにも敬語を使い優しい大らかなおじいちゃん、という印象だった

私は皆さんに新しい専属のすみれですとご挨拶をした。

みんなはニコニコしていて和やかなお席だった。
翁からはお前さんは背が高いわねぇ、と言われた気がする。

するとメンバーの一人が翁は長身の女の子が好きですよね、と言っていた。

実際、私は百六十と少ししかないので長身というほどではない

それから翁は月一のライオンズ以外にも会食で料亭を使うことが多くなった。

その際は必ずすみれちゃんを呼んでよと言ってくれていたらしい。

ある日十八時から翁とT工務店の社長たちとの会食。
何故か翁だけものすごい早い時間に来た。

私は応接間で身支度をしていたところだったが女将さんがきた。

「なんだか翁が随分早く来ちゃってるのよ…すみれちゃんのこと呼んでるから行って相手しててもらえる?」
そう言われ、急いで支度を終え御座敷に向かった。

翁に挨拶をすると彼は真剣そのもの。
「今日はお前に話があるんだ」
と。
「???」
だった。

そこで言われたのはなんと
「俺はこれから一生お前を守る」
だった。

この時私が率直に思ったのは
「どっちの一生?」
だった。
翁は八十一歳、私は二十五歳。
どっちの一生なんだ?

花街でいう旦那になるってこと?
ってことは男女の関係を望んでるのか?
それは絶対無理だ…

など混乱していた。
すると
「携帯電話っていうのは持ってるかい?」
と言われた。

当然持っているので番号を教えたら、翁は携帯番号を手書きで書いた名刺をくれた。

「今度の週末飯でも食いに行こう」
そういわれた。
翁のことは沢山のお金を持っているのに謙虚で誰にでも丁寧に接してくれる、優しいし悪い人ではなさそう。
そんな風に思っていた。

わかりました、と食事の約束をした。

◆初デート

週末銀座で待ち合わせをした。
場所は前の年に出来たばかりの並木通りの翁ビル前。

嬉しそうに
「これは俺が全部デザインしたんだよ、この光るとことか」
と教えてくれた。

凄いなーと思ったらスケルトンエレベーターで上まで行ってみようと。
ただ二人で一番上の階まで行って降りた。

週末なので運転手さんはお休みだった。

てっきり銀座で食事をするのかと思ったのだが、じゃあ行こうかと二人でタクシーに乗った。

着いた所はオークラ 。
車寄せに着いてからスタッフの方々のVIP扱いがとにかく凄かった。

鉄板焼きのさざんかに行くと言う翁。
するといつもの裏口を促される。

すると翁
「この子は初めてだから普通の入り口か入るよ」
と言いちゃんとした店のエントランスから入った。

最初だけ小さなグラスのビールで乾杯、するととんでもない量の肉や海鮮を頼む翁。
到底二人では食べきれる訳がない。

と思っていたら完食していた。
とにかく食べる人だった。

デザートルームに移動しコーヒーとフルーツが出てきたが満腹過ぎてどうにかなりそうだった。

そこで会計をする翁。
気になってチラ見すると二十万円を超えていた。
お酒は最初のグラスビールのみ。

良いお肉を大量に食べるとこんなにかかるんだなと思ったが、最後はノルマの様に食べたのが惜しかった

さざんかを後にした私達はもう一軒行こうと言われ、薄暗い地下道を通って別館に移りハイランダーというスコティッシュバーに行った。

麻生さんの行きつけで有名になったバー。
行くと常にアントニオ猪木さんがいる。

翁が来ると全員のスタッフが挨拶に来てキープしてるウイスキーやらブランデーが出てきた。

満腹な上にウイスキーもブランデーも未経験の私は完全に無理だったので紅茶を頼んだ。

すると紅茶にブランデー少し垂らすと美味しいんだよと翁が教えてくれた。

本当に美味しかった。
正直この日話した事は全然覚えていない。
女将さんの話とか、ただただ世間話をして終わった気がする。

帰ろうか、と翁。
別館の車寄せでタクシー乗ろうとする時に今日はありがとうな、タクシー代だよ。と、ポケットからかなりの札束を渡してきた。

怖かった。
「まだ電車もありますし、受け取れません」
そう言うと、すごく悲しそうにしょんぼりとした表情をされた。

それでも渡して来る。
ベルマン達の視線も感じ揉めてる感じにはしたくなかったので渋々受け取った。

翁からしたら端金なんだろうが、私にとっては大金。

受け取った途端嬉しそうにタクシーに乗りじゃあなと
「麹町の日テレ行ってよ」
とドライバーさんに言い去っていった。

◆日常

その日からほぼ毎朝翁から電話がくるようになった。

昼ご飯を食べようと。
平日の三〜四日は翁とランチをするようになった。

翁が会社に着いたらうちに車が迎えにくる。
食事をしたら翁は会社に戻り私は自宅まで送ってもらう。

そんな日が続いた。

押上に派手な車はとにかく目立っていた。

行き帰りと運転手さんと二人だけの時間があったのだがそれも楽しかった。

もう三十年以上翁専属の運転手さん。
当時で七十歳近かった。

基本翁の悪口を私に言う。
私が告げ口したらどうなると思ってたんだろう。

でも彼が退職する時はすごく翁に感謝していた。
なんだかんだあったけど温かい人だと。

そして翁は相変わらずお金を渡してくることがほとんどだった。
金額はマチマチだったが会う頻度が高いので先日も頂いたばかりだし要りません。
と断ると、とにかくショボくれる。

とりあえず受け取って、貰ったお金は手を付けず、いつでも返せるように全て自宅の引出しに入れておくことにした。

ランチが終わるとどこかのラウンジか喫茶店でコーヒーを飲むのが日課だった。
そして御用達のビスポークに行きスーツの生地や裏地、パイピングの色を一緒に選んだ。

ビスポークの社長
「最高の生地が入りました、会合(ライオンズ)に着ていったらみんな驚きますよ」
がお決まりの言葉。
流石だ。

◆翁の告白

そんな毎日が続き、ある日
「のんびりしたいわねぇ、熱海でも行こうか」
と言われた。

泊まりか…
正直怖かったが、これまでの翁との時間を考えたら変なことはされないだろうとも思った。
でもわからない。
初めてそういう関係を求められるかもしれない。
暫く迷ったが行くことにした。

土曜に車で出発、二泊しないと安らげない、とのことで月曜に出るというスケジュールだった。

いよいよ当日。
車で迎えに来てくれ、建て直す前のパレスホテルのお寿司屋さんに行った。
お弁当を頼んでおいてくれた翁。

それを持ち向かった先は大観荘。
駅すぐの丘を上がったところにある有名旅館。

その名の通りフロント横の応接間には横山大観の絵がこれでもかという程、壁に掛けられていた。

今はリニューアルして無くなったが、渡り廊下を歩き、確か「かもい」という特別室に通された。

部屋はベッドルーム含め四つ程あり、トイレも二つあった。

こんな広い部屋、当然初めてだった。

運転手さんも帰ってしまい、私はずっとヒヤヒヤしていた。
翁とはいえ二人きりの空間。

何かあったらフロントに人がいるはずだし逃げよう、いや、でも翁はそんなことをする人ではない、など頭の中はゴチャゴチャだった。

今まで手さえも触れられたことはない。
とにかくシャイな性格の人だった。

部屋に夕食が出されゆっくりとそれを食べた。

私たちは自然と窓辺の先に移り花火を見た。

私は相変わらず心ここにあらずの状態。

翁に目をやると真剣そのものの表情だった。
そして少しだけバツが悪そうな感じにも見えた。

「今日はお前に話がある」
真面目な顔で私を見てそう言った。

翁から見て私はどんな表情をしていたんだろう。
引きつっていたのか、困った顔をしていたのか。

妾になれとか、愛人契約の話をされるのか。
はたまた全然違う話なのか。

前者だったら申し訳ないが丁重にお断りしよう。
今まで頂いたお金も返そう。
そんなことを思っていた。

「はい」
と言うと、翁はそれはそれは真剣な顔で
「俺はヤクザだったんだ。それでもいいか?」
と言った。

意味がわからなかった。
元ヤクザだったところで週四のランチをやめる人がいるのか?まあ、いるだろう。でも私はそんなことは関係ないと思った。

「そうですか、いいですよ」
それだけ言った。

翁は心から安堵し、いつもの大らかな顔に戻った。

それから翁は自身の生い立ちの話をしてくれた。

父が死に貧困に陥り銀座のゴロツキになった。
母には迷惑をかけた。
住吉会の大日本興業にいて高橋輝雄という兄貴にお世話になったこと。

足を洗ってからのことも色々と。

気付けばとうに花火は終わっていた。
何時間話を聞いていたんだろう。

当時の私はヤクザに偏見がなかったわけではないが、特にチンピラ時代の話をする翁はイキイキしていた。

彼の人生を聞いてひとりの人間として更に興味が湧いた。

「じゃあ俺は寝るよ。お前はそこの部屋に布団を敷いてもらいなさい」
と言ってベッドルームへ消えていった。

私も安堵した。

翌朝、部屋で朝食をとった。
翁は茶碗が空になると無言で私に渡してきてご飯をよそる。
熟年夫婦みたいだった。

この日は中日だったので一日フリー。
お昼頃「美味しい店があるんだ」とタクシーに乗ってスコットという洋食屋さんに行った。

帰りは散歩して干物やらカラスミなどを買ってくれた。

部屋に戻ると「エステに行ってきたらどうだ」と。
素直に嬉しくて「はい!」とやる気満々。

「俺は疲れたから寝るよ、一等高いやつをやれよ」
と念を押される。

そのまま一番高いコースを選んでエステを受けた。

温泉に行くとコレがお決まりだった。
私にとっては至福の時間だった。

エステから戻ると翁は起きていて、照れ臭そうに
「いい女になったな」
と言った。
これも毎回同じだった。

夜は旅館内の寿司屋に行った。
翁の熱海での行きつけ。

「昔は他の座敷の芸者達も私も食べさせてってみんな来ちゃって店が一杯になったんだよ」と
伝説の熱海芸者、金魚さんもいたとか。

そして翌朝、また同じように部屋で朝食をとり身支度をして旅館を後にした。

運転手さんは土曜出勤したので代休。
二人で新幹線に乗った。

東京駅で降りると八重洲からタクシーに乗る。
「また電話するよ、じゃあな」
とやはりタクシー代という体で大金を渡して来る。

これがいつもパターン。

◆告白後の日常

それからも毎朝の電話、週三,四のランチにお茶、ビスポークはお決まりだった。

ただ、ヤクザだったことを告白したことでいつも昔の話を楽しそうにしていた。
私も翁が楽しそうに話すのを見て聞くのが好きだった。

そこから当時のことを知りたくなり昭和の裏社会について調べ始める。

児玉誉士夫や小佐野賢治など、昭和のフィクサーと呼ばれる人達の本を徹底的に読み漁った。

翁はこんな世界にいたんだ。
改めて凄い人だと思った。

よく翁は私に
「お前は呑気でいいよな」
と言った。

私はそれが嬉しかった。
それは女将さんの言葉があったからだ。

向島という名前は浅草の川向こうにあるから、という理由で付けられたらしい。

それは少し馬鹿にされた感じで。
浅草や赤坂新橋神楽坂に比べて劣った花街である、という認識を持たれていた。

ただそれは違った。
みんなが敢えて二流を演じているのである。
偉い人達は二流の場所も必要なのだ。

女将さんは常々私にこう言った。
「馬鹿を演じるのがここの仕事なの」

総理大臣や政財界の人も沢山見えるが、向島に求めるのは何も考えずホッとできる場所。

下らない都々逸を歌いギャハハと笑う。
真面目な話を求めるお客なんていないのである。
だから私は翁がそう言ってくれて嬉しかった。

翁は料亭を使うことが多くなり、チンピラ時代の仲間もよく連れてきた。

その中の一人港区一帯を仕切っていた親分T氏。
指は十本中七本位無かった。

「うちの娘は俺がヤクザもんって全く気付いてないんだよね」と。

そんなわけないだろう。
そんなお嬢様はアメリカで国際弁護士をしているらしい。

このメンバーが来ることを女将さんはよく思わなかった。
翁のお連れ様だから断れなかったんだろう。

向島には二つ有名店がある。

田中角栄の贔屓で大きくなった料亭、そこの芸者が妾だったどうかは不明だが確実に角栄のお陰で大きくなった。

もう一つは仁侠と芸能の贔屓で大きくなったお店。

そのお店は仁侠界の重鎮達が集まる料亭。
山口組の二十日会なども毎月やっていた。
そして、たけしさんや鶴瓶さんタモリさんなども芸能界の人も多く来ていた。

しかしそのお店=ヤクザの印象が強く、置屋によっては自分のうちの女の子を絶対そこには行かせない、というところも何軒かあった。

当然翁も当初はそのお店に行っていた。

だが、ライオンズのメンバーの行きつけだった私のいた料亭に来て、すっかりこちらに乗り換えたようだった。

「あそこは女将の素朴な感じが呑気でいいよな」
とも言っていた。

女将さんは頭のキレる人。
全部計算だとは気づかずに。

あともうひとつ、今もう無くなったがピンク系が売りの料亭もあった。

余りにも下品なので見番から除名され復活を繰り返していた。

女将さんも強者で旦那が何人もいた。
そして男に刺されたことがあるという武勇伝も。

そこに入ったお姉ちゃんから聞いたが、警視庁のお偉いさんがよくきていたと。

旅行の後のある日、ランチが終わりいつも通り一人送ってもらうのかと思ったら
「このままお前の家に行くよ」
という翁。

なんだろう…と思いながらも一緒に押上の自宅に入った。

すると方位磁針の凄い版みたいなのを内ポケットから取り出し
「家の真ん中はどこだ」
といいながら方角を見だした。

水回りやデスクの位置を確認、こっちが鬼門でとかぶつぶつと。
「これなら大丈夫だ、よかった、じゃあな」
と言って帰って行った。

後日聞くと、方位学がいかに大事か、そしてもし悪い家だったら引っ越しさせようと思っていたらしい。

それから易者を紹介され私も定期的に見てもらうことに。

易者は年配の女性だった。
大抵は翁の会社に呼び、私もお邪魔して一緒に見てもらった。

定期的に運勢的なものを。
翁は自分と御子息、そして婚外子2人のことも見てもらっていた。

御子息から嫌われていたがやはり気にはかけていたんだろう。

あとは銀座で売りに出た土地があればそれも聞いていた

この頃初めて社主室(翁の部屋)に入った。
物凄く広くて重厚感のあるデスクに応接セット、その奥には美術品が沢山並び見事な切子や美濃、九谷、謎の壺。

そしてビックリしたのがとんでもなく大きな金庫がそこにはあった。
棺桶を縦にして三個分位は優にあった。

壁には大きな写真があった。

それを見て私は驚愕した。

翁を中心に社員達と撮った写真だったのだと思う。
翁の隣に品の良い着物を着たマダム。
奥様なのだが、自分かと思った。
それ位瓜二つだった。

歳はだいぶ違うがドッペルゲンガーかと思うほど似てる。

一番楽しかったチンピラ時代に出会った奥様、それを私に重ねてた?

それとも娘や孫がいたらこんな感じなのかなと愛着を持たれていた?
真相は今でもわからない。

翁は私と会う度に生活の心配をしていた。
「金のことは俺をあてにしていいから」といつも言っていた。

しまいにはクレジットカードを渡され、買い物する時はこれを使いなさい、と強制的に持たされた。

持たされたカードは一度も使わずに何年か経ってたから返した。
翁は明細なんて見ていない。

沢山使わせていただきましたと、言っておいた。

当時は既に不景気だったが祝儀(チップ)だけで十五万程を貰え、更に稼ぎの分もあったので生活には特に困らなかった。

◆お見合い

ある日翁から「お前に合わせたい奴がいるんだ」と。
?状態だったがランチに来るという。

そこは翁のビルに入っている全席完全個室の日本料理屋さん。
翁、秘書さん、私でいたらその人は入ってきた。

私の一つ歳上の男性。
顔は翁と瓜二つ、婚外子の御子息だった。

向こうも?な感じ。

「こいつは太郎(仮名)。こちらは〇〇(私の旧姓)さん」
翁は彼を紹介してくれた。

彼は翁の所有するゴルフ場をひとつ譲り受け、支配人をしているという。
つまり割と遠方から銀座に呼び出され駆けつけたのだった。

私達は挨拶を交わし、で?、という感じだった。

そこで翁の提案が始まる。

「お前達気が合いそうだから一緒に会社でもやったらどうだ?」

私も彼も全く意味がわからなかった。

どうやら私がファッションの仕事をしていたこと、そして彼がファッションに興味があることを踏まえてこれだ!
と思ったらしい。

すると同席した秘書さんがスッと書類を出してきた。

それは定款だった。
しかもなんとなく出来上がっていた。
彼は彼で会社を持っている。
なので全て私が社長、という体で書かれていた。

社名は私の芸者名(花の名前)を英語にした名前だった。
翁が考えてくれたらしい。
嬉しかったがこれは彼と一緒になれと言う事なのか。

彼はとても爽やかな好青年だったと記憶している。
だがいきなりビジネスパートナーなり、お付き合いするのは有り得ない話だった。

どうやってこの話がナシになったのか覚えていないが二人で会社をやることは無くなった。

ただ私は一つやりたい事があった。
南アジアの国で服を作り日本で売りたい。

私はこの件をポジティブに捉え、ひとりバングラデシュへと向かった。
行先は首都のダッカ。

都心部は今にも崩れそうな雑居ビルが立ち並び誰もが知っているブランドの縫製工場が沢山あった。
ツテがあったのでそういった工場に話をしに行った。

偉いおじさん達は日本人に一所懸命アピールしてくる。

しかしそこで劣悪な環境で働く人々を見た。
昼休憩は狭い階段に座りすし詰め状態でお弁当を食べている。

そして外を歩けば物乞いだらけ。
スラム街にも行った。

そしてその後富裕層が住むグルシャンというエリアに滞在した。
知人が住んでいたのだが真逆の世界だった。

日本の富裕層とは桁が違う

あり得ない豪邸に呼ばれ、アメリカンクラブで食事。
首相のハシナ氏にも会わせてもらった。

こんなにも貧富の差がある世界。
受け入れるのに時間が必要だった。

スラムで暮らす人々や劣悪な環境で働かさせる人々、そしてメイドが何十人もいるお城のような豪邸に住んでる人々。

真逆を見た。

しかし私には前者の人々の方が圧倒的に幸福そうに見えた。

物乞いキッズに、あげないよ、と言えばじゃあ遊ぼーと無邪気な笑顔で言ってくる。
スラムの人達も私には楽しそうに見えた。

一方富裕層の人々は自分が一番金持ちだ、ということに必死だった。
俺はこんなに凄い物を持っている、とか。

私がやりたかったことは所謂フェアトレードだった。

でも現実を見て自分が何をしたいのかわからなくなった。

劣悪工場の他にも郊外の綺麗な工場も沢山見せてもらったが混乱したまま帰国した。

そもそも人のお金でビジネスを始めること自体間違っている。
考えはそこにいきついた。

翁にその事を話すと「そうか」と少し残念そうではあったが、理解してくれた。

その後のランチで今度はまた突拍子のない事を言い出した。

「うちの社員になれ」
最初は断ったがあまりの押しに負け、翁が所有する会社の社員になった。
社会保険、厚生年金、雇用保険、全部やってもらった。

だが給料は振り込まれず、その分を翁が現金で受け取る、というカタチをとった。

それでも保険や年金、ありがたい。
これは私が結婚し妊娠するまで続いた。

経理の方は「産休、育休扱いもできますよ」と言ってくれたがさすがにと思い、そのタイミングで退職した。

◆翁祭へ行く

春に知り合った私達。
気が付けばこれを書いているこの候。紫陽花が散り始めていた。

私の地元ではこの時期大きなお祭りが催されている。
昔を懐かしむのが大好きな翁を誘ってみた。

翁はとても乗り気で楽しみにしていた。

車で一時間程、途中鎌倉にあるミカサでステーキを食べた。

お祭りの会場に着いた。
ド派手なファントムから降りた私達は物凄い視線を感じながら的屋街を見始めた。

翁は目を輝かせていた。
楽しいなぁ懐かしいなぁとずっと言っていた。

翁がふとキャップの出店の前で足を止め、これいいわねぇ、と言い始めた。
フロントにはBMWとロゴの入ったキャップ。

もちろんバッタもの。
オークラのプールに行くときに丁度いいと買っていた。
金額は五百円だった。

それから的屋のものを食べたり飲んだり。
歩き回った私達すっかり疲れて車に戻り東京に帰った。

それから毎年この時期がくると
「今年はいつ行こうか」と言われ、毎年一緒に行った。

翁は気が向いた日は朝そのままオークラ別館にあるプールで水中ウォーキングをしていた。
髪をセットしないで行くのでキャップは必需品だったのである。

BMWの偽帽子を被りロールスロイスから出てくる翁をみんなはどう思ってたんだろう。

プールから出ると中曽根さんなど、仲間とハイランダーへ。

◆翁女子と交流

私には大親友と呼べる友人がいて、彼女たちとランチの約束をしていた。

その日急に翁から今からお昼でもどうだと電話。
今日は友人達と約束があって、と言うとみんなで食べようと提案してきた。

急遽四人でランチ。
親友MとKには当然翁の話はしてある。

二人を紹介すると翁はご満悦。

翁に近づく人はほぼお金目当てだった。

そこに私の親友MとKとの交流。
とても嬉しそうだった。
彼女達は何の裏もない、私の友人。
普通の会話が楽しそうだった。

Kはマツキヨ勤務。
「そうか、松本薬局で働いているのか」など、なんてことの話。
Mは専業主婦で夫は広告代理店勤務。
私がご主人はイベントの仕事をしていて、というと
「そうか司会者なのか」と勘違い。
何度正してもMの夫を司会者だと思い込んでいた。

この2人とは後に何年も交流することになる。

いつも私の友人も交えて食事を終えると、オークラだったらハイランダーへ行き、翁は少しだけそこにいると
「好きなだけ食べて飲みなさい、サインはしておくから」
と、タクシー代を置いて先に帰った。

他のお店でも食事が済むと俺は帰るからみんなでコーヒーでも飲みなさいと必ずお金を渡された。

◆翁とお医者

ある日、翁からの電話に出ると
「明日から入院するから部屋の電話番号伝えておくよ」と。

「どうしたんですか?」
と、びっくり。
翁は糖尿病なので定期的に食生活を正すために五日程入院をしている、とのことだった。

あとは何となくだるいとき。
きっと暇だろうと思い行きますと。 

翌日J大学病院に行った。
最上階がグルっと全て特別室フロアとなっており、セキュリティは厳重だった。

誰がいるのか知らないがスーツの男が沢山いるときもあった。

翁の名前を伝え、〇〇さんですよね、と。

部屋に通されると「よお」といつも通りの翁だった。
棚には理事長からのドデカイお花。

ベッドの横に座りいつものように話をした。
途中質素な食事が運ばれてきたが、翁が普段食べる量の五%くらいしかなかった。
足りるわけないけど健康の為に我慢していた。

少しすると糖尿の主治医がきた。
「翁様、美味しいものを召し上がるのはとても良いことですが適量が大事なんですよ」と。

そりゃそうだ、と思いながら話を聞いていると
「引き出しのひとつ取ってよ」と翁。

ベッドチェストの引き出しには二十万入りの封筒が無数にあり、その中の一つを主治医に渡した。

いつもありがとうございますと主治医は出て行った。
それからもひっきりなしにお医者が挨拶にくる。

お医者たちは
「〇〇科の〇〇です、翁様とは〇〇のとき診させていただきました」など

翁は誰が誰だか全く覚えていないが、全員に私から封筒を渡させた。

みんな躊躇なく受け取りほんの数分の挨拶をして出て行く。

そして翁は毎年多額の寄付をこの病院にしている。

理事長のO氏とは特に親しく、翁御用達のビスポークで定期的にスーツを作らせてあげていた。
なんでも好きな生地で作って下さい、と。

ただ病室にいても仕方がないのでそろそろ、と帰ろうとすると言いづらそうに
「退屈だからまだいろよ」
と引き止められ結局お座敷ギリギリの時間までいるのが日課だった。

数ヶ月〜半年に一度はこの調整入院をしていたので、ある時は翁が一階まで下りてきて山の上ホテル監修のレストランで食事をすることもあった。

そしてある時は親友のMやKと一緒にお見舞いに行くこともあった。

そしてまたある日、入院連絡が。
明日風呂に入るのを手伝ってくれと。

特別フロアの看護師さんたちから私は完全に家族だと思われていた。

翌日行くと
「ご家族の〇〇さんですね、お風呂に入りたいそうなのでお願いします」
と通された。

翁はお風呂に入りたいが一人だと不安だし看護師に付き添われるの嫌だったよう。

ここで私は初めて翁の全裸を見た。

付き添いといっても翁は元気なので、ただ転んだりしないか見守るだけだった。
裸体も入る時と出た時しか見ていない。

ご家族が来ている気配はない。
秘書が着替えを取り替えにくるだけ。

定期的な翁の入院生活はそんな感じだった。

翁は常々お医者はお金なんだよ、と言っていた。(翁の私見)

私が翁に電話をする、ということは七年間で数える位しかない。
殆どは翁からの電話。

その貴重なひとつ。
ある日起きたら物凄く体調が悪かった。
風邪どころじゃない、死にそうだった。

迷ったが翁に電話をした。
「あまりにも体調が悪くて今日はご飯行けそうにありません」
そう言った。

「すぐ行くから待ってろ」と。

息を切らして本当にすぐ来た。
髪のセットもせず服もその辺にあったものを着たような感じ。

J大学病院の理事長に連絡しといたから行くぞ、と。
フラフラのまま車に乗り病院へ。

本来紹介状がないと行けない大学病院。
すぐ診察してくれた。

内科で適切な処置をしてもらった。
カルテにはデカデカと「O理事長紹介」と書いてあった。
なんだか申し訳ない気持ちだった。

そしてまた別の話。
私は扁桃腺が大きく腫れやすい。
何気なくそんな話をしたら、翁は切った方がいいなら切ってしまえ、と。

山王病院の耳鼻科に名医がいると。

その名医はたまにしか居ないようだが翁がアポを取り、二人山王病院へ行った。

そして子供の親みたいに診察にも同席する。
神妙な面持ちで〇〇(私の旧姓)さんの扁桃腺は切った方がいいですか?と。

名医は私の喉を見て切るほどではない、という判断だった。
翁もホッとした様子だった。

また別の話。
ある日お風呂中脇の辺りにシコリを見つけた私。
まさか乳癌じゃ…と不安に。

翁に話してみたら今度は東京女子医大にそっちの名医がいるとすぐ手配してくれた。
その先生は名誉教授で年配の方だった。

翁が大袈裟に言うものだからマンモグラフィーもエコーも飛ばして細胞検査に。

結局良性のシコリ、とのことで問題はなかった。

それから私の押上の自宅に診てもらった三人の先生から御礼状が定期的に届く。
翁が私の名前で贈り物をしていたのだ。

先日は結構なお肉を有難う御座いました、や好物を有難う御座いましたなど。

先生方との縁が切れないように翁なりの優しさ。

◆翁の勘違い

夏の日々。私達は相変わらずだった。
週に三,四回はランチ、月に一回は熱海か伊豆(淡島ホテル)に旅行。

翁の知り合いも沢山紹介してもらったり、私も友人も紹介したり。

二人で話をしていると
「それで親父さんはいつ亡くなったんだっけ?」
と聞いてくることが何度もあった。

私の父は健在だし、そんな話をした事は一度もない。
恐らく誰かと勘違いをしている。

その都度
「父は健在ですよ、仕事もしています」
と訂正していた。

それでもずっと勘違いをしていた。

秋分日が過ぎ、まだまだ暑かったが私の誕生日が近づいてきた。

この頃で翁と出会って半年。

翁は私の誕生会の開催に張り切っていた。
勿論、私はそんなことやらなくていいと言ったが聞くわけがない。

初めての誕生会はオークラさざんかの大きな個室で。
友人は先に出たMとKを始め親友と呼べる十人位を呼んだ。

司会進行に翁の会社の社員の方。
翁は慶事用のネクタイを締め、そこに来てくれた。

社員の方が最初に挨拶をし、翁がスピーチをしてくれた。

「〇〇(私の旧姓)さんはたったひとりのお母さんを大切にしており、それを自分と重ね感銘を受けました」と。

他にも私の良い所を沢山述べてくれていたが、やっぱり父が殺されている…。

友人達も「?」な感じだった。

誕生会は楽しく終わり、友人達も喜んでくれた。

この誕生会は私の三十歳の誕生日まで恒例行事となる。

そして翁は私に松屋の袋を渡してきた。
中の箱には薄謝と書かれた箱。
司会をしてくれた社員さんに渡せと。

中は靴下だったらしいが彼はとても喜んでくれた。

つくづく翁は気遣いのできる人。

確かに母は持病があり、何かと気掛かりな存在だった。

翁は旅行に行くと必ず、おっかさんと行ってこいよ、と招待してくれる。

断れないことはわかっているので事情を説明して母と二人で何度も高級旅館に旅行をした。

請求は翁の所へ。
飯もエステも一等高いのにしろ、とやはり言う。

レストランでも同じだった。
「おっかさんと来たらいい」
スタッフを呼んでこの子が来たら俺のツケにしてちょうだいと。

母はとても恐縮して乗り気ではなかったが、この頃は一銭も使わずに沢山親孝行できた。

私達は翁手配の客。
店や宿の人は昔の愛人と隠し子だと思ってるかもねと二人笑った。

◆地獄のルーレット

翁と出会い一年ほど経った頃
「引っ越しでもしたらどうだ?」
と提案が。

私は二十歳で浅草に住み、その数年後に押上に移りずっとそこに住んでいた。
五十㎡ほどのワンルーム、管理費入れて十八万程、管理人さんもそこに住んでいて安心でき、身の丈に合った物件で気に入っていた。

料亭も歩いて行けるしその必要はありませんと断ったが、翁の性格は思いついたらすぐ行動。止められない。

「明日易者を呼ぶから」と
引越しに何故易者?と思ったが、やはり新居は易者の言う方角でないとダメだから、と。

翌日会社に行くと東京の地図が何枚もコピーされていた。

易者曰く、現在の住まいからどっちの方角に行ったら良いか見ると言う。

その時私は思った。
西〜南だったら都心へ近くなっていいけど北〜東だったら不便にならないか?
北西も厳しい。

千葉や埼玉がいいって言われたらどうすればいいのか…

診断が始まった。
私にとって地獄のルーレットだった。

心の中で祈りつつ易者は言った。
「完全な西、或いは南ね、西がベスト」と。

翁は「そうですか、わかりました」と
分厚い封筒を彼女に渡し帰らせた。

そこから地図に西と南の線を引き、どのあたりがいいか考え始めた。

そして社員も何名か巻き込み物件を探せと指示をする。

翁は本郷、春日町、飯田橋あたりを候補にしていた。
ちょうど直線で西になり、かつ自分の自宅からも近いからちょうどいいと。

その次に会った時、大量の物件の紙を持ってきた。
とんでもない金額のマンションばかり。

ここが方角的に一番いいだろう、など勝手に話をすすめていた。

大は小を兼ねるが口癖の翁。
一人で住むには広すぎる物件、当たり前だが億は超えてる。
俺が買ってやると。

今回ばかりは強引な翁に流されてはいけない、そう思った私はどうしても引っ越しは出来ないと言った。

しょぼくれてはいたが納得してくれた。
すると家具家電を全部新しくしたらどうだと。

ちょうど家電が古くなり始めそれ位ならいいかと思い、その足で有楽町のビッグカメラに行きまとめ買いカウンターへ行った。

その時も大は小を兼ねるの精神の翁は大きいものばかりを選ぼうとするので大変だった。
それだとうちには入りませんと何度言ったか。

冷蔵庫テレビ洗濯機を買ってもらった

その冷蔵庫とテレビは今も使っている。
洗濯機は数年前買い替えたが、翁が買ってくれた物だったので名残惜しかった。

その後、松坂屋地下の無印に私が連れて行きソファーを買ってもらった。

凄いのを選ばれたら困るので予めこのお店で買いたいんですと無印に行った。
翁の人生最初で最後の無印来店。
商品を不思議そうに見る翁が可愛かった。

◆翁との旅

翁とはたくさん旅行に行った。
熱海と伊豆は月一レギュラーで。
私の大好きなタイに興味を持ち、いつかそこにも行こうと言っていたが、それは叶わなかった。

唯一遠出したのは和倉温泉加賀屋。
誰もが知る有名旅館。
私たちは羽田まで車で行き飛行機で向かった。

能登空港からタクシーに乗り加賀屋に着いた。
私はここでおもてなしの真髄を見た、気がする。
お出迎えから凄かった。
もちろん相手が翁だからだろうが。とても勉強になった。
まずは支配人に三十万の祝儀、そして担当中居のお姉さんに十万の祝儀を渡す。
翁様のために最高の部屋を用意しました。と。

当時、最近できたという特別室に通された。
扉のすぐ隣にもう一つ扉があり、そこは至って普通のビジネスホテルだった。
どうやら運転手さんやお付きの人がそこに泊まるらしい。
部屋は当然素晴らしかったが翁は掘りごたつでないのが気に入らなかった。

電話をして「部屋変えてちょうだいよ」その後の対応はとても速やかだった。
そこは天皇陛下(現上皇陛下)がお泊まりになる部屋で扉の横には陛下の部屋という旨の礎石があった。

そこも大変広くベッドルーム、リビング、和室、と百平米はあったと思う。檜風呂もありとても快適だった。

翁は上機嫌で私たちは加賀料理を食べた。

夕食は次から次へと凄い量だったがイサザという魚が泳いだまま器に入って出されたのは驚いた。
まさに踊り食い。
なんとなく私は食べることができなかった。

冬だったので蟹などもとても美味しかったと記憶している。

翌日、私はスパへ。
加賀屋には資生堂の「氣」というスパが入っていた。

そこで金箔パックをしてもらい、昼食はエントランス出てすぐのお寿司屋に行った。
まだあるか不明だが、翁はずっと間違えた店名(大将の名前が店名だった)で記憶しており、大将にも間違った名前で呼んでいた。

丁度パレスホテルが取り壊しになり寿司難民だった私達。
本当に美味しいお寿司だった。

三日目、家族やお医者さん、色々な人にお土産を送り東京に帰った。
スケジュール的にはいつもの旅行と同じ。
でも最初で最後、翁と一緒に飛行機で旅行した良い思い出。

もうひとつ、遠出したのは秋保の茶寮宗園。
新幹線で仙台まで行き、そこからタクシーで移動した。

現在はリニューアルして変わったようだが、ここが私の人生で一番広い部屋の宿だった。
ベッドルームを除くと全てが続き間の和室で、もはや何部屋あるのかわからなかった。
トイレは三つあった。

ちょっとしたアクシデントも。
私がひとつのトイレにいたら翁がに扉を開けられた。
三分の一の確率。

まさか私が入ってる思わなかったようで、お互いびっくり、ごめんなと去っていった。

時期は真冬だった。
露天風呂がとても気持ち良かったのを覚えている。

もうひとつ。
翁は知覧に行きたがっていた。
私も平和記念館などすごく行きたい場所のひとつだった。
じゃあ行こうと計画を立てた。

飛行機も宿も手配したと。
しかし当日の朝電話があり、体調がイマイチでやはり行けないと中止になった。

翁の兄貴や先輩は特攻隊志願兵だった人も少なくない。
あのタイミングで終戦を迎えてなければ翁も行ったかもしれない。
沢山の思いがあったはず。
そこには行けず翁は亡くなった。おそらく。

旅行というほどでもないが…
ある日私は翁のポイントについて考えてみた。
もちろん本人や家族はそんなもの考えたこともない。
ポイントって知ってますか?と説明したらオークラのポイントがとんでもないことになっていて、プレジデンシャルスイート的な部屋がタダで泊まれるほど貯まっていた。

なのでオークラ に泊まった。
ツインベッドだったが初めて同じ部屋で寝る。
だがイビキがうるさ過ぎて無理だった。
私はソファで寝た。

近場で泊まるのも悪くないな、とそれから新しくできたホテルに下見がてら何度か泊まり行った。
リッツカールトン、マンダリンなど。

私がポイントに興味があると知った翁は、ちょっと違うけど内祝いなどで貰うカタログギフトを私にくれるようになった。
いつもは捨てていたらしい。
送る額が額なのでギフトも十万以上のものがほとんどだった。

これは純粋にラッキーだと思い私も欲しいものをもらっていた。

◆狙われる

翁と会うことが日常となり、銀座の人々は私を認識するようになった。
恐らくお気に入りの愛人か何かだと思われていたんだろう。
何のツテもない人は直に話せない存在。

よくあったのは売りに出る土地を買うよう説得してくれませんか、手数料の半分あなたに払います。
たしかひとつは、中央通りの600億の土地、手数料の3%を山分けしましょう。と。
翁が手数料など払うわけないでしょう。

あとはクラブの人も多かった。
新橋銀座口から五丁目辺りまで、中央通りから北を歩く若い女性は大抵スカウトにあう。
当時で二十代半ばの私の場合、目当ては翁だった。
どんなにしつこくてもお断りしていたが、一軒並木通りの有名店、スポーツ選手御用達のお店(一茂氏の奥様や有名人も在籍していた)からも話を聞いてくれと。
働く気は一切ないがミーハー心で話を聞いてしまった。

銀座のクラブには向島のお客さんと何度か行ったことがあるが、そのお店は狭くて質素なお店だった。
何を聞いたか覚えてないが要は翁と繋がりを持ちたいんだろう。

検討すると店を出て、すぐに働けませんと返事を。

だが彼は諦めなかった。

毎日何十件もの着信、そして私と翁はランチ後みゆき通りと並木通りの交差点の風月堂か中央通りメルサの文明堂でお茶することが多かったのだが、柱の影からずーっと見られていた。
気持ち悪かった。
そして、翁と解散した頃を見計らって着信…立派なストーカーだった。

着信拒否をして半年ほどでストーカー行為?も収まった。
面倒なことになりそうだったので翁には言わなかった。

常にド派手な車が横付けされてるので私たちの居る場所はすぐわかってしまうので仕方がなかったのかもしれない。

◆断想

当時八十一歳の翁から「お前を一生守る」と言われ、付き合いが始まってから私は常に彼の死を意識していた。
近い将来、明日来週来月に翁は死んでしまうかもしれない。

それを踏まえ、これはきっと彼の死後、ふと思い出して懐かしむんだろうな、と思う、そういったエピソードを書いていきます。

ある時母が入院し、私は手続きに追われていた。
その日も朝から役所のような所にいた。
翁から着信。出ると狼狽え慌てた様子て
「大丈夫か?お前が風邪を引く夢を見たんだ」
大丈夫、私は元気です、と答えた。
母の件の暗い気持ちが和らぎ可愛い人だと思った。

ある時、私は何を思ったか翁に
「人を殺したことはありますか?」
と聞いてみた。
翁は一瞬固まり間を開けて
「さすがにそれはないなぁ〜」
とおどけた表情で言った。

あの間は…あるな、と私は思った。

翁と色々な話をして、私は言った。
「翁は怖いものがありませんね」
すると翁、不思議そうにキョトンとした顔をして
「俺に怖いもの?そんなものあるわけないだろう」
???に溢れたキョトン顔、私が生きてきた中で一番のキョトンだった。

翁は決して私に怒る事がなかった。
当然不機嫌な時はあり、社員か運転手さんに文句を言うことはあった。
そんな私に唯一怒るというか注意をしてきた事があった。

ある日旅館で床の間に翁の浴衣を綺麗に畳んで置いた。
これはお座敷の時に床の間は大事な物を置く場所だからとお客さんの上着や鞄を置いていた。

その癖で置いたのだがそれを見るなり
「ここは一等位の高いところなんだ、ここに浴衣なんて置いたらダメだ!」
と注意された。
風水方角に拘る翁らしいエピソードだが、本気で注意を受けたので少々びっくり。
そんなことはそれが最初で最後だった。

翁は月に二回ほど散髪をしていた。
場所は西銀座デパート地下のバーバーヤマモト。
私は彼の散髪中、隣の喫茶店コーヒーハウスブリッヂでコーヒーを飲んで待っていた。
待たせたなと言って席に来る翁はもうひとつコーヒーを頼みゆったりとした時間が流れていた。
今日行ったらまだそのままだった。

東日本大震災が起きた。
翁は一号館の最上階に部屋があり仕事中はそこにいる。
古いビルだし椅子の後ろには壺やら割れ物が沢山飾ってある。

心配になった私は何度も電話をしたが全然繋がらない。

夜になってやっと繋がった。
「大丈夫でしたか?」というと
「なにがだい?」
「今日大きな地震がありました。お怪我などされませんでしたか?」
「地震ねぇ、そういえばあったかしら。俺は大丈夫だ。これから六本木で飯を食うんだけどなんだか渋滞して進まないんだよ」と。
歳を取ると鈍感になるというけどとにかく安堵した。
それか一見ボロいのあのビルが凄く頑丈だった?

ランオンズの会合で翁と仲の良いIさんという人がいる。歳も同じ。
今は故人。
彼は銀座のど真ん中で江戸時代から続く宝石商をしていた。

翁も親しみ、そして一目置いている存在。海外で見つけた宝石や時計を買うべきか相談したりしていた。
そんな信頼しているIさんがこんなことを言った。

「コアビルの地下のトラジという大衆的な焼肉屋が案外美味しかったんですよ」と。
翁は興味深々。早速行こうと。
私は嫌な予感しかしなかった。

それからすぐ行った。
ランチにしては遅い時間だったのでお客は私達以外誰もいなかった。
ランチセットはさすがにと思い、ここは私が頼みますと言う。

アラカルトメニューの一番高いのを沢山頼んだ。
店員さんがお肉運んでくる。が、焼いてくれない。
トラジなので当然である。が、翁はその店員がピンポイントで怠けていると思いなんであの人焼かないんだ?と。
ここはそういうお店なんですよと何度も言うが機嫌は悪くなる。

私が全て焼き、翁に食べ頃のお肉を差し出すがなんでレストランなのにお前がやらなきゃいけないんだ、という感じ。
結局美味しいとも何とも言わず店を後にしたが相当不満足だったよう。
ただ会計は思ったより安く感じたはず。

食に関して庶民的なお店には連れて行ってはいけないと心から思った。

私はよく錦糸公園で友人とフリーマーケット出店していた。
客層は夜っぽい方が多いがフリマーケットでありながら毎回十万以上売り上げていた。

ある日フリマが終わり片付けていたら財布が無くなっていた。
常に身につけていなかった私も悪いが急いでカードを止めたり交番に被害届を出したりとバタバタに。

翌日翁にそれを話した。
現金はいいとして、気に入っていた財布だったのでショックです。と。(狙って言ったわけではない)

すると今から買いに行こうと。
そのメーカーは並木通りに路面店、三越にショップがあったが両方とも私が持っていたのと全く同じのは無かった。

仕方なく似たようなタイプのものを買ってもらった。
そしてその次に会った時「見舞金」と書かれたのし袋を頂いた。
財布すられたけどなんだかんだでプラスなってる。

そしてそのお財布、大好きな翁に買ってもらった物なのでボロボロだけどいまだに使っている。

日比谷にペニンシュラホテルができた。
香港に行く時は必ずペニンシュラに滞在する翁。
昼食後「行ってみようか」と。

メインエントランスからふたり進みラウンジがあるが、そこは今でいうインスタ映えスポットに。
両サイドでキャピキャピ女子が携帯片手にアフターヌーンティーを楽しんでいる。

すると立ち止まった翁、その年齢とは思えない軽快さで180度スッとエントラス方向に回転、
「帝国行こうか」
と低い声で呟き私達は帝国のラウンジに向かった。
ペニンシュラ東京はお気に召さなかったようだ。

いつだったか花畑牧場の生キャラメルがブームになった。
乗りに乗ったそこは銀座の一等地に旗艦店をオープン。
そこは日産ビルの隣の隣、翁ビル10号館だった。
連日大行列だが、ビルオーナーの翁は先方から沢山のキャラメルなどを貰っていた。

翁はそれが何かわかってなさそうだったが先ず私が頂いた。

わーこれ流行ってる美味しいやつですよね!と喜んで頂いたらご満悦。
向島に来る時も大量に持ってきて芸者衆が喜び更にご満悦。

その頃はどこに行くにも手土産に生キャラメルを持って行っていた。
そして喜ばれて嬉しかった翁。

花畑牧場はその頃外苑前にしゃぶしゃぶ屋さんもやっており、翁、秘書さん、私、友人の4人で招待されたこともあった。
正直しゃぶしゃぶはイマイチで、誰も感想を言わなかったと記憶している。

そしてブームは一過性のもの。
次第に下火になり銀座店は一年ほどで撤退した。
ただあの頃のキャラメル配りご満悦翁、可愛かったなぁとよく思い出す。

キャラメル配りから少しして有楽町の阪急がリニューアルし阪急メンズになった。
見たいなぁと思っていて翁に「紳士服だけになって良さそうですよ」と言ってみた。
「じゃあ言ってみようか」と。
館内では働いてる友人も多かったが翁と2人ぶらぶら館内を見行き着いた先は伊勢丹でいうリスタのようなバイヤーがセレクトした平場のようなお店だった。

翁が既製品を着ることはまずないが、そこのドレスシャツに食い付いた。
それはエトロのド派手系ペイズリーシャツ。
完全にヤクザ上がりの翁好みだった。
がたいのいい翁だがサイズもなんとかあった。

スタッフの方が優秀で助かった。
翁が試着をすると華麗な手捌きでピン打ちをしてくれて肩と袖をどれ位直すか提案してくれた。
それでも拘りが強い翁は「右はもう五ミリ上げてちょうだい」など注文。
数着購入し、直し上がったらまた来ることに。

それから直しが上がって取りに行ったらまた違うエトロを買う、というのが続きかなりの期間私たちは阪急メンズに通った。
翁も気に入ってそのエトロをよく着ていた。
セールでも売れないだろうな、という奇抜な配色なものばかり買っていたのでお店の人も相当助かっただろう。

エトロで思い出した。
ある日ランチ後無印かどこかで寝具カバーを買おうと思っていた。
食後「この後どうしようか」というので「買い物に行くのでこのまま銀座にいます」と送ってもらうのを辞退した。
すると「何を買うんだ」と。
そのまま伝えると運転手さんに「日本橋の西川行ってちょうだい」と

西川に着き「好きなのを選びなさい」といいながら「これいいわねぇ、これにしたらどうだ?」
それはエトロのペイズリー(ピンク×グリーン)シリーズ。
結局翁の趣味でそれのシーツ、枕カバー×4、布団カバー、タオルケットを買ってもらった。
かなり派手だけど、これも未だに大切に使っている。

熱海にいた私たち。
いつもコーヒーを飲むお気に入りのレトロ喫茶が休みで同じ並びにある違う喫茶店に入った。
テーブルには地球儀のようなカタチをした小豆色の星座占いの置き物。
わぁ懐かしい、やってみましょう、と私が言いそれぞれ百円玉を入れて丸まった紙を出した。
運勢がどう書かれていたのかは覚えていない。
覚えているのは翁がいなくなったらきっとこの光景を思い出し、私は彼を懐かしむんだろうな、そう思うながらその喫茶で占いをした。

◆ダークサイドへ

翁と頻繁にランチしている日常だったが私も二十代後半の女。
普通に恋愛もしていた。
二十歳から海外一人旅が趣味の私はとある国でひとりの男性に出会った。
彼は「世界の大富豪スペシャル」みたいな日本の番組にも出たことがあり、お金持ちの人だった。

でも所詮そんな番組のオファーを受けてしまうような人。
今思えばミーハーで自慢屋で、人としてどうなんだろうか。と思う人。
そもそも親が富豪、でも自分の事業で成功し国では有名人だった。

何故か好かれてしまい若かった私も惹かれてしまった。
それからは毎日Skypeで話したり海外で待ち合わせをしで会ったり、所謂付き合っている関係性だった。
ある日ある国でチャリティーパーティーという名目のセレブ自慢大会のようなところに同伴した。

そこで魅力的な人に出会ってしまった。
その人はある国の英雄、次期大統領とも言われている人。
フランクでユーモアがあって魅力的。

向こうも何かを感じてくれたようでその瞬間から私は自慢屋からその人に乗り換えた。

そして彼との付き合いが始まる。
彼は二回り歳上、一夫多妻ではないが二人妻がおりそれぞれに子供もいた。
それでもいつか僕たちは一緒になれるからとの常套句に惑わされ何でも言うことを聞いていた。

しかし国の英雄、事業の傍ら慈善事業を率先して行う彼の正体は真っ黒なマフィアと同じだった。
日本にも裏社会の取り巻きがいて私は彼らと行動を共にする様になった。

この辺りは翁と無関係なので割愛するが、私はただ彼と一緒に居たかった。
毎月日本にも来てくれるし、海外でも会っていたがそれでも足りなくて情緒不安定になった。

それでも日本にいる時は翁ランチはいつも通りしていたが、異様に一人旅の頻度が高くなった私の異変には気付いていたようだった。

好きな人と一緒になれないストレスでどんどん痩せていったが唯一の安らぎが翁だった。
そんな生活が一年弱、しかし彼は翁の存在を知り激怒。

自分は妻が二人いるのを棚に上げて私に大切な人がいたのが許せなかったらしい。
英語だから深く理解できなかったが日本の取り巻きに翁を始末しろと電話で言っていた。

そこで目が覚めた。
こんな愚かな人のどこがよかったんだろう。
そして怖くなった。

本当に翁が危険な目にあったらどうしよう…そう思った私は泣きながら翁に電話をした。
するとすぐ自宅に駆け付けてくれた。
酷い状態の私に「俺は大丈夫に決まっている。お前が心配だ」と。
抗争になったらどうしよう…本気で心配だった。

しかし話は意外な方向に。
日本の取り巻き達は翁があの伝説のヤクザだと知り尻尾を巻いて逃げていった。
到底敵う相手ではないからだ、
外国人の彼はその辺りを理解していなかったようだ。

そしてやっと別れられた。
暫くストーカー&嫌がらせ行為は続いたがなんとかメンタルも持ち直した。

◆翁の覚悟

それから平和な日常が戻った。
翁は出会った頃から高齢の人がよく言う「俺は爺さんだから」とか「おれは歳だから」などという年齢に関するネガティブなことを一切言わない人だった。
いつも若くイキイキとした人だった。

それがこの頃変化してきた。
「俺もあともって四,五年だろう」
突然そんなことを言ってきたり。
「俺が元気なうちはなんでもしてやれる。その後が心配だ」とも言ってきた。
ビックリしたのは真剣に「お前と結婚する方法がないが調べているんだ」と言ってきた。
一生守ると言ったから責任を負わせてしまったのか…
奥様もお元気なのに離婚して私と結婚なんて、完全なる金目当て、仰天ニュース悪女SPの題材にされてしまう。
とにかくそんな突拍子もないことを毎回言い出すので私は強いトーンで、彼の目をじっと見て、真剣にこう言った。
「翁はずっとお元気です。絶対に」
翁も真剣に私を見ていた。
その後は何も言わなかった。

余程私の行末が心配だったのだろう。

金ならどうにでもなるが外国人との一件で弱った私を見て、自分が居なくなったら彼女は心の拠り所のようなものがなくなってしまう、
いるのは病気がちな母親ひとり(相変わらず父が死んでる)
死ぬ前にそれを見付けないと、そう思っていたのかもしれない。

そして私の結婚相手を探しているようだった。

それから翁は何かあったら頼りなさいという意味だったのか、色々な人を私に紹介してくれた。
裏社会の人、そうではない人。
母の持病の権威と呼ばれる先生にも会わせてくれた。

翁は死んでしまうんだ、最初から覚悟していた事が現実になる恐怖。
そしてこの頃から物忘れが多くなってきた。

ちょうどその頃が2011年の夏だった。
私は現在の夫と出会いすぐに付き合うようになった。
翁の話もした。
ただ翁にはなかなか話せなかった。

そして同じ頃三十年以上翁の運転手さんだったTさんが辞め新しく若い運転手さんになった。

少しだけボケてきた翁。
私との約束をしていない日に車が迎えにきたり、その逆もあった。
運転手さんとメールでやりとりできるようにし、私たちは前日確認しあうようになった。

2012年の春、私と夫は入籍することにした。
翁に話そう、そう決意してランチに向かう。

そこは並木通りの天一だった。
デザート席に移動してから私は言った。
「結婚しようと思っています」
反応は想像以上だった
「そうか!よかったなぁ本当に…どんな人なんだい?」
「〇〇さんという物書きをしてる人です」
「よかった…」翁は泣いていた。

こんなにも自分のことを思ってくれる人がいるだろうか。
改めてそう思った。
それからまた平和な日常が続く。

ただ物書きと言ってしまったため金がないだろうと毎回三越の地下やオークラの売店で沢山の食品を買って持たせてくれる様になった。
実際当時の夫はお金がなかったが。

◆妊娠そして別れ

結婚に際して双方の親の後、翁にも挨拶をした。
結婚祝いはとんでもない金額だった。
それから半年後、私は妊娠した。
翁はとても喜んでくれた。
楽しみだなぁ、上からぶら下がって回るやつ買わないとな、とか、色々揃えないとなとウキウキぶりはまるで孫でも産まれるかのようだった。

妊娠を期に料亭を辞め、暇になった私はほぼ毎日翁とランチやディナーをした。
段々お腹が大きくなっていく私。
銀座の人達はどう思っていたんだろう。
翁、ついにあの子を妊娠させたのか?とか思ってたかもしれない。

私は漠然と子供が産まれたらきっと会えなくなる気がしていた。

妊娠後期、ショックな事が続く。

ライオンズの仲間、J寿司のJさんが亡くなり、その後には翁の2回り歳下のRちゃんが亡くなった。
Rちゃんは翁がライオンズの会長をやった年、副会長として翁を支えてくれた仲間、五号館オープン時のパーティーでは司会もしてくれた人。
翁は落胆していた。

そこから物忘れやボケの症状が進んでいった。
大切な歳下の仲間を失い、次は自分が死ぬんだという恐怖を相当感じていたんだろう。

それでもこれから産まれてくる生命への希望や愛情もたくさん注いでくれた。

ひとつとても後悔している事がある。

臨月に入りいつ産まれてもおかしくない時期に「明日飯を食おう」と言われた。
すると夕方運転手さんから電話があった。
「社主(翁)が明日約束したと思うのですが、実は僕お休みを頂くので忘れていると思います。出社自体しないかと。
明日はゆっくり休まれてください」と。

そうかと思い私は家にいた。
すると十三時頃翁から電話があった。
「今日約束しただろう。携帯を家に忘れてしまったんだけど五号館の前で待ってたんだよ」と。

びっくりした。
五号館の前で待ち合わせは初耳だけど運転手さんがお休みなのに出社し約束を覚えいたとは。
すごく申し訳ない気持ちになった。
忘れてたならしょうがないなと翁は全く怒らずその日は終わった。

今思うとそこから翁に会えるのは数える位。
運転手さんはああ言うけど行っておけばよかった。
ずっとずっと今でもそう思って後悔している出来事。

それから出産ギリギリまで会っていたが、私は予定帝王切開で入院、そして出産した。
翁はすぐ来てくれた。

孫のいない彼は新生児を見ることはここ何十年殆どなかっただろう。
「可愛いなぁ可愛いなぁ」とずっと抱っこしていた。
私と子供が出掛けられるようになるまではよく家に来てくれた。

家に来るとずっと子供に夢中でいつ帰るんだろうか…と困るほど長居した。
でもこんなに喜んでくれる人がいて子供も私も幸せだと思った。

出産祝いも突拍子もない金額だった。
この辺りから自分が居なくなることを想定していたんだろう。

産後ひと月経ち、私達は子連れでランチをするようになった。

ある日、阪急で買ったグリーンのエトロのシャツを着た翁。
子供はピンク色の服を着ていた。
翁に抱っこされ居心地の良さそうな子。
対色のそれが美しく良い絵面だったので写真を撮った。
翁は子に笑いかけて俯いている。
子はジッと真顔で翁を見ている。


それが翁を見た最後の日だった。


その後も電話はくるが子供は元気か、などと聞くが飯に行こうとは言わなかった。
そしてついに電話もこなくなった。

電話をしても電波が入っていないと。
時が近付いてきていることは一目瞭然だった。
運転手さんにメールをした。
「社主は元気ですか?」と。

返事は「完全に自宅から出ていない状態です。ただ元気ですのでご心配なく」と。
それからどうしても気になるので数ヶ月に一度は運転手さんにメールをした。
「相変わらず家に篭っています。実は僕が入った時から〇〇さん(私の旧姓)と会う日しか外に出ていなかったんですよ」
そうだったのか…

それからまた少しして翁に電話をしてみた。
すると解約されていた。
この時翁は亡くなったんだ、そう思った。
運転手さんは辞めている可能性もあるので連絡はしなかった。

虚無感はあったが悲しみで泣くとかそういう感情はなかった。
ついにこの時がきたんだ。
ただただそう思った。

そして次の夏が来て隅田川花火大会のヘルプで私はお座敷に出た。
そこにはライオンズのEちゃんが来ていた。
「ライオンズの方たちはお元気ですか?」と自然に聞いた。
「ついに翁が死んじゃったよ。色々事情があって内内に済ませて俺たちもだいぶ経ってから聞いたんだ。」

翁が亡くなれば普通は社葬だが、その事情とは亡くなった事が公になれば情深いヤクザ達がとんでもない人数来てしまうからだ。

翁に「お前を一生守る」と言われたこの部屋でそれを聞いた。
ここで改めて実感。
翁と過ごした七年間を思い返す。
色んなことを経験させてもらった。

翁にとって私は何だったんだろうか。
それはいくつか考えられる。

若い頃の奥様に似ていて何となくタイプだったからなのか。

母親思いの私に自分を重ねていたのか。

楽しかったヤクザ時代の話を唯一できる相手だったからか。

お金目当ての人しか寄ってこない孤独な自分の安らぎだったからか。

単に若い女を連れて歩きたかったのか。

色々考えられるが私はこう思う。
仕事も人に任せ、時間があり金持ちである翁の究極の暇潰しだったのではないかと。

それでも私はここには書ききれない程沢山の何かを翁からもらった。
こんなに私の事を考え愛してくれる人はもう出会えないだろう。

彼にとって暇潰しでも私は感謝してもしきれないことをしもらった。

そして逝ってしまった彼に何も恩返しする事ができない現実。
それだけが心残り。

私が死んだら真っ先に彼を探すだろう。
そしてあの世で恩返しをすると決めている。

追記
昔々人を苦しめていましたね、時効はありませんよ。
行き先が地獄でも、私はあなたを探してお礼を言いにいきます。
一緒に蜘蛛の糸を探しましょうね。

「翁とわたし」終わり

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