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連載小説「クラリセージの調べ」5-8

 おじいちゃんは無事に解熱し、嚥下訓練と食事指導を受けて二週間後に退院した。だが、肺炎で体力を消耗したのか、前にも増して寝ている時間が増えた。自力で行けたトイレも難しくなり、夜だけ使用していたポータブルトイレを常時使用するようになった。今まで以上に、誤嚥に注意が必要なため、食べられるものも限られてくる。それに伴い、以前は見られた食への執着が失われていった。すずくんの訪問診療は、引き続き、週一回受けることになった。
 絹さん親子は、おじいちゃんが静かな環境で療養できるように、予定を繰り上げて自宅に戻った。育児休暇を二年間取得するので、これからも頻繁に顔を出せるだろう。
 母屋が静かになると、冷たくなった風が妙に寂しく感じ、ベランダに吊るしたままの風鈴をしまった。

 同じ頃、大学病院の予約が取れた。
 今朝くゆらせたクラリセージの香りが移ったカーディガンを羽織り、大学病院に車を走らせる。しばらく、この香りとはお別れと思うと、愛おしさが募る。窓を開けると、初冬の風が車内を吹き抜け、前髪を乱していく。街路樹の銀杏いちょうは、かすかに黄味がかってきた。夫の車で同じ道を走った初めてのデートを思い出し、あれから二年経ったことに気付く。

 久々に会うフサちゃん先生は、少ししゅっとしたように見えるが、穏やかな声と眼差しは変わっていない。

「凍結融解胚移植には、自然周期とホルモン投与周期があります。市川さんの場合は、自力で排卵できているので、どちらでも選択できます。
 自然周期は、エコーと血液検査で排卵日を特定し、それに合わせて移植します。薬を使わなくて済みますが、通院回数は増えてしまいます。最適の日と病院の休みが重なってしまった場合、その日に移植できない可能性もあります。
 ホルモン投与周期は、ホルモン剤で排卵周期と同じようなホルモン状態を作って移植します。通院回数を減らせて、移植日を早く決められますが、経口薬、貼り薬、坐薬を使用します。陽性反応が出た後も、自然排卵後にできるホルモンを分泌する黄体がないので、胎盤からホルモンが分泌される9週まで薬を続けていただきます」

 採卵前に薬を使い、身体に負担をかけた。メンタルへの影響も大きかったので、薬を使いたくないのが本音だ。
 それでも、考えてみれば、人工授精のとき排卵日を調べるために何度も花房クリニックに通えたのは近所だったからだ。1時間弱かかる大学病院に何度も通い、待たされるのは負担になる。病院が休みの日と排卵が重なり、移植を見送るのも避けたい。

「通院回数が少なくて済むホルモン投与でお願いします」

「わかりました。看護師からも説明がありますが、薬のことなど、心配なことがありましたら遠慮なくお尋ねください」


 生理が始まってから、卵胞の形成を促し、子宮内膜を整えるために、下腹部にエストラーナテープというエストロゲン製剤を貼っている。2日間貼ったら、入浴後に貼り替えるが、かぶれが気になってしまう。ネットで調べると、市販のかゆみ止めや保湿剤を使っても大丈夫だとわかって安心した。
 生理から2週間目に受診し、卵胞ホルモン値、卵胞の発育具合、子宮内膜の厚さを調べてもらい、ここまで順調だと確認された。排卵日から、黄体補充のためにプロゲステロン坐薬の挿入が始まる。冷蔵庫に保存した坐薬を一日二回、膣の奥深くに挿入する。決まった時間に入れるのを忘れてパニックになり、焦ってネットで検索すると、2-3時間のずれは問題ないとわかって胸を撫でおろした。

 移植の日は、緊張していたが、採卵のときほどではなかった。融解された胚盤胞を吸い込んだカテーテルが膣から挿入されるので、無事に着床してくれることを祈るしかない。お腹のエコーで子宮にカテーテルが入っていくのを見ているうちに、あっけなく終わってしまう。移植日から、貼り薬と坐薬に加え、血流を良くするためのバファリンと免疫抑制剤のメドロールを妊娠判定日まで服用することになった。

 薬を正確に飲んだり、貼ったり、入れたりするのに神経を使い、費用もかさんだので、それに報いる結果を求めてしまう。けれど、移植から10日後に受けた血液検査では、hCG値が上がらず、着床は確認できなかった。悲しく、虚しく、夫に申し訳ない気持ちはあったが、絶望に耐性ができてしまったのか、どこか冷静な自分もいた。
 夫の楽観的で不器用な励ましに罪悪感を覚え、それを埋め合わせるように二度目の移植に臨んだか、失敗に終わった。

                  
                 ★
 瑠璃子から、裕美の裏アカウントらしい「私の最愛─唯一無二の関係」というブログのURLが送られてきたのは、看護学校の入試を終え、結果を待っている頃だった。開設は彼女の結婚直後で、現在まで更新が続いている。人気ドラマ『最愛』に着想を得た関係と書いていることもあり、数百人のフォロワーがいる。

  ブログでは、裕美と夫が歩んだ中学時代から婚約破棄までの過程から始まり、恋人を超えた家族のような友情まで、洗練され、情感豊かな文体で綴られている。

 読み進むにつれ、二人が歩んだ濃密な時間が脳内で展開し、私小説を読んでいる気分になる。とりわけ、二人が結婚を決めてからの義母の仕打ち、市川家の冷淡な態度、婚約破棄までのくだりは、裕美への同情さえ引き起こす。結翔と私の結婚が決まってからの投稿は、読み進むにつれ、不快感から何度も画面を閉じたくなったが、気力で読み通した。

 意外だったのは、裕美の夫が、結翔と裕美の関係に理解を示し、三人で頻繁に会っていることだった。結翔が夫妻の食卓に招かれることはめずらしくないらしく、写真も何枚かアップされている。三人の顔はニコちゃんマークで隠されているが、夫婦と一緒にワイングラスを掲げているのは間違いなく結翔だ。今年に入ってから、三人でプロ野球観戦や東武動物公園に行った写真まである。蚊帳の外に置かれた不快感を通り越し、奇妙なものを見せられたような後味の悪さがある。

 私が夫と裕美の関係に理解を示さず、連絡をとるのも会うのも止めてほしいと言っているのを批判的に書かれたことには強い憤りを覚えた。日付を見ると、ショッピングモールで裕美と鉢合わせし、スターバックスで話をした後だった。

              最愛くんの奥様
 
 最愛くんの奥様は、彼が私と会うことを認めないようです。

 私達に恋愛感情はなく、互いの幸せを願う家族のような関係であることは、私から何度か奥様に説明しました。それでも、ご理解いただけないのが残念です。

 最愛くんが奥様との結婚を決めたとき、私は幸せになってほしいと心から願いました。

 これまでも書いてきた通り、最愛くんは実家の後継ぎという立場をとても大切にしています。そんな彼が、自分の家庭を実家の干渉から守れるとは到底思えませんでした。特に、我が強いお母さんから奥様を守れなければ、結婚生活は早々に破綻すると確信していました。だから、私は最愛くんに、どんなときも奥様の意志を優先して、実家とトラブルになったときは必ず奥様側に立つようアドバイスしました。実際、私の助言に従った最愛くんの家庭は、うまくいっていたのです。

 ですが、奥様は夫と私の関係を理解せず、縁を切れの一点張りです。私の言葉も無断で録音されていました😠。どうやら、奥様は、私のアドバイスがなかったら、幸せな家庭が維持できないことを理解していないようです。

 私は、奥様も含めて四人で仲良くお付き合いできれば最高だと思っていますが、さすがにそれは難しそうです😔。

 いまは、最愛くんの幸せを祈るのみです。私も最愛くんも、いつも互いの幸せを願ってきました。互いがそうでないときは、いつも全力で助けてきましたが……。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

「私の最愛―唯一無二の関係」

 投稿に寄せられたコメントは、「奥様が嫌がるのは当然」、「自分の世界に入りすぎて、奥さんの気持ちを考えていない。気分が悪くなる」という共感できるものから、「理想的な関係で憧れます」、「私も元彼の友達と結婚したので、似た関係です。お互いに、貴重な関係を大切にしましょうね」、「奥様とも仲良くなれたら最高ですね」、「ドラマみたいな関係、大切にしてください」、「素晴らしいです。小説のネタに使わせてください」という裕美寄りのものまで幅広い。

 応援コメントが多いことに驚き、自分の考えは柔軟性に欠けるのかと考えさせられた。

                ★
「看護学校、合格おめでと!」
「ありがとう。頑張っている瑠璃子の姿を見て、私もなりたいと思ったから開けた道だよ」

 ノンアルコールビールで乾杯した後、瑠璃子は、ねぎとろ丼にわさびをといた醤油をかけながら話し出す。

「私も『最愛くんの奥様』読んでぞっとした。あのブログ、すーちゃんに知らせるか迷ったんだけど……」

「教えてもらって良かったよ。
 人の価値観はそれぞれだし、どれが間違っているとか正しいとか、優劣の絶対的な基準はない。自分と違う考えも、できるだけ理解したい。
 でも、私は恋人と別れたら、関係を断つべきだと思うし、それが次の恋人に対する礼儀だと思う。仕事で元彼と接しなくてはならないときは、業務に支障のない最低限の付き合いにしてきた。だから、正直言って、この関係は無理。二人は互いへの未練を友情と言い換えて、関係を正当化してるようにしか見えない」

 物価高で具が減ったバラちらしを口に運びながら、私は嫉妬めいた感情を持つくらいに、夫を大切に思っているのだと気づいた。それが愛情なのか、なれ親しんだ関係への執着なのかは説明できないが、夫婦で向き合いたいという気持ちがあるのは間違いない。

 瑠璃子はきれいな箸使いで、ねぎとろの乗った酢飯を口に運びながら頷く。
「それでいいと思うよ。裕美の言う関係は、関係する人たちが納得した上で成り立つもの。裕美の夫の靖博やすひろさんは、結翔と少年野球チームから始まって、中学、高校、大学の野球部でも一緒だった。結翔とは親友で、裕美との一部始終も近くで見てきたから、三人で幼馴染のような付き合いを続けられるんだろうね。
 でも、結翔はすーちゃんと結婚した。いま、彼が一番に考えなければならないのは、家族であるすーちゃん。すーちゃんが受け入れないなら、結翔は裕美との関係をきっぱり断つべき」

 瑠璃子が私と同じ意見であることに安堵し、箸でつまんだままだった酢飯を口に運ぶ。

「そうしてくれればいいんだけどね。
 でも、私が一方的に、裕美さんと縁を切れと要求し続けても、話し合いにならないよね。だから、互いに歩み寄って妥協点を見つけるために、私はすずくんと会わないほうがいいと思った」

 瑠璃子の眉が、不可解だと言わんばかりに、ハの字に下がる。
「何それ? だって、すずはゲイでしょう。それに、二人だけで会ってるんじゃなくて、私と三人じゃない」

「私もすずくんと友達でいたいよ。でも、夫はすずくんに密会現場で会話を録音されたことで、悪感情を抱いてる。医療機関の口コミサイトに書き込まれたすずくんへの悪口も見ていて、もう彼と関わらないほうがいい、おじいちゃんへの訪問診療も止めてもらおうとまで口にした。おじいちゃんが誤嚥性肺炎で熱が高かったとき、すずくんが夜中に駆けつけてくれて、受け入れてくれる病院を探して、自分の車で連れてってくれた夜にそんなこと言ったんだよ。私が看護学校に受かったと報告したときも、あの医者の傍にいたいから看護師になるのかって言われた。
 私がすずくんをかばって夫を刺激して、すずくんの仕事に支障が出るのだけは避けたい。それに、夫の誤解を解くために、すずくんがゲイだと言えば、彼が変な目で見られてさらに仕事がやりにくくなるかもしれないでしょう。だったら、これ以上、面倒なことにならないように、私がすずくんと会うのを遠慮したほうがいいと思ってる」

 彼がゲイだとわかってからも、中学時代からの憧れめいた感情は変わらないことに、後ろめたさがあることは口に出さないでおく。

「だから、今日はすず抜きでと言ったのか……」

「そういうこと……。本当は、すずくんの意見も聞きたかったけどね。このこと、すずくんには言わないでね。気に病ませたくないから」

 瑠璃子は箸を置き、私の顔を正面から凝視する。
「ねえ、すーちゃん。結翔との結婚生活のために、すーちゃんが我慢すること多すぎない? 友達に会うのまで制限されてるんだよ」

「でも、夫は、裕美さんは友達と言い張る……。裕美さんと切れてもらうなら、攻撃材料を与えないように私も異性の友人と会うのを控えたほうがいいでしょう」

 瑠璃子は私に、同情と哀れみの混じった視線を向ける。私はそれを避けるように話題を変える。

「瑠璃子、東京の就活はうまくいってる?」

 瑠璃子の目元に明るい光が差す。
「英国帰りのドクターが立ち上げた医療通訳のスタートアップに決まったよ。通訳ができる人材を医療通訳向けに訓練して、会社に登録してもらうの。個人や医療機関から要請があったら、基本はオンラインで、希望があればオンサイトで通訳してもらう。円安でインバウンドが増えてるから利益は右肩上がりで、来年の二部上場狙ってる。いまは、英語、スペイン語、ポルトガル語、中国語に対応してるけど、これから韓国語とドイツ語、フランス語にも広げる予定」

「すごいね。瑠璃子はどんな仕事をするの?」

「とりあえずは、英語通訳スタッフの採用と訓練、テキスト編集に携わる予定。学生時代の留学と商社で英語をマスターしてて、看護師資格もあるのが採用の決め手だった」

「やりがいありそうだね」

「楽しみで仕方ないよ。すーちゃんも、あの化け物屋敷を出て、前みたいに東京で働けばいいのに」

「化け物屋敷、言えてる~! 看護師資格取ったら、それもいいかもね」

 そう言いながらも、市川家を出ることまでは考えていなかった。

※ 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本節の一部は、桂さんから以前いただいたコメントとさくらゆきさんのイラストからアイディアをいただきました。心より御礼申し上げます。