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「Netflix」本編

「ねぇ、最近このドラマ見た?」

夕食後にリモコンをいじっていた妻が尋ねた。iPhoneを置いてテレビに目を向ける。「携帯はオフのまま」という最近話題の邦画ドラマだ。

「いや、いつか見ようとは思ってたけど」

妻が首をひねる。リモコンを操作し、Netflixの視聴履歴を展開した。

「今日の視聴履歴が変でさ」

画面には最近見た映画やバラエティ番組に混ざって、見覚えのないタイトルがいくつか表示された。

「ほら、こんなの見ないでしょ」

妻が指差したのは、日本で最初の韓流ブームを起こした医療系のドラマ「秋のカルテ」だ。話題作で気になってはいたけど、25話もあるドラマで見る予定はなかった。そのうちの第6話が表示されており、タイトルの下に赤色の体力ゲージのようなものがくっついている。ここまで見ましたよ、という視聴分数を示しているのだ。ゲージによると、第6話はわずかにしか視聴されていない。

「見てないよ」

「やっぱり。なんでだろう」

他にも見られているドラマがあり、全部で4つだった。どれも見た覚えはないドラマだ。

・携帯はオフのまま/第3話
・アジアの香水/第7話
・8のつく日は気をつけよう/第11話
・秋のカルテ/第6話

「だれかアカウント共有してる人いたっけ?」

眉をひそめてリモコンを置いた妻の言葉でピンときたものがあった。Netflixは家族でアカウントを共有できる。仕事がひと段落ついて、のんびり過ごす時間が増えた母さんのために、実家とアカウント共有をしていた。

「そうだ、母さんが見てんだな」

気が付いてみれば、どれも母さんが好きそうなドラマだった。妻も膝を打って「あぁ、義母さんか」と頷いた。

「ドラマ見られるようになってよかったねえ」

妻がしみじみと言う。母は元売れっ子の推理小説家で、今は引退したが、最近まで落ち着いた時間はほとんどなかった。60歳まで精力的に働いていた母のことを妻も気にしてくれていたのだ。

「久々に電話でもしてみるか」

そう提案すると「いいね」と妻が親指を立てて見せた。

食器を片付けてからiPhoneを手に取り、早速母さんに電話をかけた。コール音が何度か鳴るが、すぐには電話に出ない。しばらく待ち、かけ直すかと思った頃にようやく繋がった。

「もしもし?なんかやってた?」

妻が食後の紅茶を淹れてくれて、ありがとう、と小さく声をかけた。ソーサーを自分の方へ近づける。

「いや、大丈夫。なんでもないよ」

母さんの声が遠く、くぐもって聞こえた。ダイニングテーブルの対面に座った妻にも聞こえるようにスマホをスピーカーフォンに切り替えた。

「今日『秋のカルテ』とかドラマ見た?」

「見たよ、気づいた?」

「やっぱり母さんだったんだね」

妻がビンゴ、と嬉しそうに指を鳴らした。

「見覚えのないドラマが視聴履歴にあるから驚いたよ」

紅茶をズズ、と飲んだ。フルーツの甘い香りが口の中に広がる。妻は蒸らしの時間をきっちり測るので、紅茶はいつも美味しい。

「変わりない?」

母さんに電話するといつも聞かれることだ。

「変わりないよ、そっちは?」

とこちらもいつも通りの返事をする。すると不自然に母さんの会話が途切れた。無音の奥に誰かの荒い息遣いが聞こえた。

「大丈夫?」

電波が悪いのかと思ってもう一度尋ねた。

「うんうん、大丈夫。また電話して」

母さんはそう言って慌ただしく電話を切った。

「なんだか忙しそうだったね」
妻はマグカップを両手で包み、ふうふうと息を吹きかけている。何かがおかしいような気がした。母さんは電話をかけると長話をする方だし、なにか用事があって切るなら切る理由を話すはずだ。

「変じゃなかった?」

妻に尋ねると、視線が左上に動いた。その視線がやがて降りてきて、まっすぐ私の方に向く。

「義母さん、ドラマ見たか聞いたら『気づいた?』って言ってたのが変だったかな。ほら、なにかに気が付いてほしかったみたいなニュアンスだったような気がして」

「確かに」

記憶を巻き戻すと、母さんの声の様子もいつもと違ったような気がした。

「それに変と言えば…」

妻がリモコンを操作して、またNetflixの視聴履歴を表示した。「秋のカルテ」を開く。

「これ、変なんだよね。第6話を見てたみたいだけど、その前の1から5話が視聴された形跡がないの」

妻の言う通り、「秋のカルテ」は第6話以外に赤色のゲージが表示されていない。つまり、見ていないということだ。

「変だね」

嫌な胸騒ぎがした。他のドラマも確かめてみると、「秋のカルテ」と同様に中途半端な話が少しだけ視聴されていた。母さんはドラマを見ていた訳ではない。それなら何をしたかったのか。

「…暗号か?」

元推理小説家の母さんならやりかねないと思った。きっと何か伝えたいことを暗号にして送ってきたのだ。この4つのドラマの視聴履歴が何かのメッセージを示しているはずだ。妻も紅茶を片手に一緒に考えてくれた。このドラマに何の意味が含まれているのか。

しばらく考えて、妻がひとつひとつ確認するように、ゆっくりとひらがなを並べた。

「た…、す…、け、て」

妻が口を開けたまま両目を見開いた。

「それってどういう意味?」

たすけて、助けて?妻が何に気づいたかを早く知りたかった。

「ほら、ドラマのタイトルと、第何話かってとこ」

妻の声は震えていた。

・携帯はオフのまま/第3話
・アジアの香水/第7話
・8のつく日は気をつけよう/第11話
・秋のカルテ/第6話

妻が画面上の文字を示しながら、暗号の解説をした。「携帯はオフのまま」で見られていたのは第3話、「携帯はオフのまま」の3文字目を拾うと"た"、同じように「アジアの香水」の7文字目は"す"。喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

ようやく妻の言いたことを理解した。全部の文字を拾うと「たすけて」の4文字になる。これは母さんが送った内容で間違いない。冗談やいたずらでこういうことをする人ではない。

「母さんに何があったんだろう」

再び電話をかけなおした。コール音が何度か鳴る。それが10回目を数えたあたりでぷつりと切れた。ツー、ツーと嫌な音が耳に残る。

妻と目を見合わせた。実家で何かが起こっているのは間違いなさそうだ。

「母さんは事件か何かに巻き込まれていて、暗号は送れるけど、電話で助けを求めることはできない」

額に手を当てて、今の状況を整理しようと考えを巡らせた。

「それは犯人が近くにいるってこと?」

おそらく妻の言う通りで間違いないだろう。犯人が近くにいるから助けてと直接言えず、そのメッセージをNetflixの視聴履歴に込めたのだ。テレビのリモコンを操作すれば、ドラマを少しだけ再生できる。

実家までは新幹線を乗り継ぐ必要があり、この時間からは間に合わない。車を持っていないので、すぐに駆けつけることができない。

「警察に相談しようか」

妻がこくり、と頷いた。何かあってからでは遅い。

110番をプッシュしてから「助けて」という暗号が届いたから様子を見に行ってほしいと言えば、いたずら電話だと勘違いされるかもしれないと気が付いた。

咄嗟に「遠く暮らしている実家の母と電話をしている最中に、向こうで窓ガラスの割れる音がして、母が叫んだっきり電話に出ない。強盗に襲われたのではないか」と嘘をついた。警察は冷静に実家の住所を聞き出し、近くの警官を派遣すると約束してくれた。こちらの電話番号も伝え、何かあれば連絡をお願いします、と電話を切った。

「大丈夫かな、義母さん」

心配そうな表情で妻は腕を組み、体を震わせた。安心させようと、ダイニングテーブルから右手を伸ばして妻の腕に触れた。妻の体温に触れて初めて、自分の手先が汗でびっしょり冷えていることに気がついた。

「電話にも出れたし、きっと大丈夫だよ」

私の声も震えていた。喉を湿らそうと手にした紅茶は緩く、口の中で渋みが残った。椅子に座ったまましばらく動けず、なにも喋れなかった。母さんは無事だろうか。実家の広いリビングで犯人と相対する様子を想像して、背中に冷たい汗が流れた。妻も部屋の隅を一点に見つめ、言葉を失っていた。

静かになった部屋の中で、プルル、と呼び出し音が鳴った。その甲高い音が心臓に響く。見慣れない番号だった。妻にiPhoneの画面を見せ、一拍おいてから電話に出た。平坦で早口な男の声が、私の名前を確認した後でこう告げた。

「たった今、様子を見に行った警官からの報告で、お母様が無事に保護されました」

全身の力が抜け、私は椅子にへたり込んだ。よかった。思わず声が漏れる。ホッとして緩んだ私の表情を見て、妻も息を深くはいた。そして目の端に涙を浮かべながら、よかったね、と口の形で伝えてきた。

その後母さんとも電話がつながり、興奮した様子でその日に起こったことを話してくれた。

母さんの推理小説のファンを名乗る男が、ナイフを持って突然自宅に来たのだそうだ。宅配便であれこれ頼んでいた母さんは、来訪者を確認せずに鍵を開けたらそのまま押入られてしまった。

男に「推理小説家を引退しないでほしい。引退を撤回するまでこの家を出ない」と迫られたそうだ。アイデアが出なくなったからもう書かないと話したが、犯人は言うことを聞かなかった。携帯電話を取り上げられ、周囲に連絡が取れない状況で、隙を見てテレビのリモコンであの暗号を送ったのだと言う。

「作家業を続ける、って嘘でもつけばよかったのに」

全ての話を聞いた後で母さんにそう愚痴ると、「仕事で嘘はつけないよ」と答えた。そのあっけらかんとした物言いに、一緒に話を聞いていた妻と顔を合わせて笑った。

「でも、今回の事件をテーマに、もう一作だけ書けないかって思うんだけど」

エネルギーに満ちた声で母さんがそう言った。もう書かないんじゃなかったっけ、と言う言葉をどうにか飲み込んで、「いいんじゃない」と答えた。妻は「新作、楽しみにしています」とはしゃいだ。


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