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手帳

大学の頃、手帳の予定が全て埋まっている友人がいた。三つのサークルを掛け持ちし、バイトをし、長期の休みには海外へ飛び回る充実ぶりだった。その忙しさに目が眩みそうになるが、本人はどこ吹く風で、そのハードスケジュールを楽しんでいるようだった。
幼い頃から塾やピアノ、水泳、英会話などに毎日通っていたと飲み会で聞いた時、彼のルーツを垣間見たような気がした。子供の頃から体に忙しさが染み込んでいるから、手帳に予定を埋めることが苦にならないのだ。

私は彼とは逆で予定がある状態が苦手だ。
特に嫌なのが一ヶ月後に誰々と遊ぶ、みたいな予定だ。約束した頃は楽しみでも、次第に自分の予定が縛られていることを窮屈に感じるようになる。せっかくの休みなのに、自宅でのんびり過ごすこともできないなんて。一週間前にはもうその約束を断る言い訳を考え始めている。結局、前日か当日の朝に適当なことを言って約束を反故にする。
そして予定のなくなったカレンダーを見て一安心したりする。私は自由だ、なんて思う。それなら約束なんかしなければ良いのに。

ある日、その友人に「たまには休みたいなとか思わないの?」と尋ねると、「休み方が分かんないよ。何も予定がない方が逆に気が休まらない」と答えた。
漁師が地上で陸酔いをするようなものなのかもしれない。波の上での生活が長いから、地上が揺れてしまって酔う。忙しさに慣れているから、暇が耐えられない。
ずっと地上にいれば陸酔いすることはない。けれど、海に出なければ、知らない世界を見ることもない。
友人はバイトで貯めたお金や奨学金を使って世界中を旅していた。働き始めたら長い休みはもらえないから、とよく言っていた。
見せてもらった写真には、世界の絶景や異国の料理、様々な肌の色の人と肩を組んだ彼、野生の動物などが映っていた。どれもテレビや写真集で見るような、手の届かない風景だった。

写真について話しながら「今度ベトナムに一緒に行こうよ」とコンビニにでも誘うような感じで聞かれた時はドキッとした。彼にはベトナムへ行くのもコンビニへ行くのも同じようなものなのだ。けれど、ベトナムへ行くには、旅券をとり、パスポートを取得し、英会話を習得し、できれば現地の簡単な言語も覚え、いくつかの旅行誌を読み、旅行プランを考え、四泊程度の荷物をまとめ、金策に走り、親に了承をもらわなければならない。そのハードルは高い。
言葉に詰まっていると、「アーユルヴェーダを経験したいんだよね」とさらに畳み掛けてくる。これから西洋医療を深く勉強していく中で、東洋医療の経験もしておきたいのだそうだ。そういえば、彼は漢方を学ぶ研究会にも所属していた。まさに医学生のお手本のような存在だった。
ぎっしりと詰まったスケジュールで、彼はきっと私よりも多くのことを学び、様々な場所へ赴き、より充実した人生を送るのだろう。飛び級で大学生になった10歳の子供のように、早い段階から広い世界に触れる。
「楽しそうだね。でも、ちょっと遠いかなあ」そう言って私はベトナム旅行を断った。自分は家でゴロゴロしている方が性に合っている。


最近、久しぶりにその友人に連絡を取った。来年から英国で小児科医として働く予定で、その準備に勤しんでいるところだという。同年代の医師として、すでに頭一つ二つ抜けた存在になる。
彼の人生は、手帳に予定を満杯にした頃から、あるいはたくさんの習い事を楽しんでやっていた幼少期から決まっていたのかもしれない、と思った。
これからまた海へ出る彼から送られてくる写真が楽しみだ。私は私らしく、陸でのんびりと働き続けたい。

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