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清潔と不安

定期処方の薬をカルテに入力し終え、ではお大事にしてください、と言いかけたところで中年女性のもの言いたげな表情に気がついた。幸い、外勤先の外来は混み合っておらず、少しなら話を聞く時間がありそうだった。

「どうかされましたか」

女性はこちらに向き直った後で、一度視線を外した。

「先生にこんなこと聞いていいかわからないんですが」

と前置きをし、二人で暮らしている社会人息子への愚痴を語り出した。

「最近マスクは悪だーって私に説教するようになったんです。私は、ほら、接客業だからどうしてもマスクをしないといけないんですけど。息子の会社はリモート出社になったみたいで、ずっと家にいて、備蓄しているマスクをゴミに出したり、免疫が高まるっていうサプリを飲ませようとしたりするんです」

そうなんですね、と当たり障りのない相槌を打ってみたが、そのまま黙りこくってしまった。改めて女性の話を理解しようと、こちらから質問してみる。

「息子さんにどう対応していいかわからなくて、悩んでいるってことですか」

はい、と頷いた後で、女性はしばし押し黙った。そして心配げに新たな質問をした。

「それで、先生。マスクって結局着けない方が良いんですかね」

さっきまでとの話の落差に思わず声を漏らしてしまうところだった。一瞬の混乱をどうにか抑え、平静の顔で脳を働かせた。

その当時、女性の質問に対して、マスクは着けなくてもいい、と言える状況ではなかった。だが一方的にマスクを着けなさいと言っても反感を買う可能性がある。

どのような順番で説明するべきか。マスクの有効性、マスクが起こす可能性のある皮膚トラブル、マスク以外にも可能な感染対策について・・・。

様々なことを思案した後で、口から飛び出たのは自分でも意外な一言だった。

「毎日、不安ですよね」

会話としては成り立っていなかったが、女性はハッとした顔で目を見開いた。

そうなんです、と女性は堰を切ったように抱えていた不安を話した。こちらから何かを言うことはなく、ただ相槌を打つばかりで女性の顔は晴れていった。

その頃、ニュースでは毎日感染者数や死亡者数を報じ、その危険性や今後の見通しの悪さを専門家たちが語っていた。身近なところではお互いの清潔のルールの違いを非難し合う争いが多発していた。多くの人が自分の置かれた状況や今後のことで不安を抱えていた。

「息子から毎日マスクやワクチンの毒性について激しい口調で言われて。最初は相手にしていなかったんですけど、徐々にもしかして息子の言う通りなのかも、って思ってきて」

落ち着いたところを見計らって、感染対策について既に分かっていることを情報提供した。おそらくテレビなどで紹介されている内容とほとんど変わらないが、女性はうんうんと話を聞いてくれた。

「ありがとうございます。たくさん話を聞いてもらって。なかなか人と話す機会もなくて」

「そうですよね」

厳密に行動制限を守る人ほど、人と会う機会が減ってストレスが溜まっていた。

「じゃあ、マスクは大丈夫なんですね。息子にもそのように言い聞かせてみます」

女性が軽く頭を下げ、診察室を後にしようとするので思わず引き止めた。

「息子さんも、同じように不安なんだと思います。なので、言い聞かせるより、不安に思う気持ちをまず聞いてあげると良いかもしれません」

多くの人はまず最初に感情があって、その後で感情を補うような行動がある。

不安だから、不安を埋めるために必要以上に清潔にしようとする人、他者の清潔のルールの甘さに苛立つ人。マスクや行動制限を強制させられる不快さに反発して、その欠点について理論武装を試みる人。彼らに何かを説いても、その言動は変わらない。言動を正しく理解するには、その手前にある感情を紐解くしかない。

「分かりました。今日はじっくり話を聞いてみたいと思います」

去っていく女性の背中に会釈をし、カルテに向き直る。背中を伸ばしながら天井を仰ぎ、早くこの状況が落ち着きますようにと願った。

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