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人間関係販売

佐伯が浮気をしている。一枚の写真がその事実を突きつけていた。携帯電話にその写真を表示させて、私はそれを眺めた。
都内にあるテーマパーク内のゴンドラに乗った佐伯と知らない女の写真だった。ゴンドラは急降下する瞬間で、佐伯と女は目を見開いてその行く末を見ている。掲げた両手は固く繋がれていた。その姿に怒りと悲しみが同時にわいてくる。
昨日、この写真が大学のサークル仲間の清子から送られてきた。友達と乗ったアトラクションがコース内で写真を撮られるシステムで、自分の写真を買おうと思った時に見つけたそうだ。
「ウチも黙ってた方が良いかと思ったけど、やっぱりなんか許せんくて」怒りの表情の顔文字の後には、テーマパーク内で仲睦まじげにデートをする佐伯と女の様子が詳細に書かれていた。私は佐伯とそのテーマパークに一度も行ったことがないというのに。
さて、この不貞をどう裁こうかと私は佐伯の部屋のリビングで考えた。もう九月で涼しくなってきてはいたが、室内には弱のエアコンが効いていた。佐伯は早朝に出社していて、私は大学の講義を休んだ。夕方からのバイトまではしばらく時間がある。
世界には不貞を厳しく罰する国があるそうだ。磔にした男を村の人間らがこぞってムチで打つ映像を見たことがある。村の人間達は半裸で狂ったように鞭を振るっていた。
磔の男を佐伯に入れ換えて想像してみる。顔や体を殴打され、吐血する佐伯。それほどの罰を受ける罪を彼は犯しただろうか。
私は裏切られて悲しいし腹立たしいけれど、佐伯が苦しめば報われるわけでもなかった。それなら私はどうしたいのだろう。首をひねった。いまの問題点は二つだ。佐伯との関係を解消したいということと、私の悲しみの落とし所だ。
考えが行き詰まり、携帯電話でネットサーフィンを始めた。その中で、人間関係を販売するアプリの広告が目に入った。友人関係、恋人関係、先輩後輩関係など様々な人間関係を販売できる。アプリ一つで人間関係を清算できる時代なのだ。
私は早速アプリを開いた。


アプリに佐伯とのツーショット写真を数枚アップロードし、お互いのプロフィールを埋めていく。名前、出身地、家族構成、職業、学歴、趣味嗜好。スラスラと佐伯のプロフィールを書けるのは一緒にいた時間が長いからだ。
私が大学一年で佐伯が三年の時からの付き合いだからもう三年になる。その間に佐伯は社会人になり、私は四年生になった。いつしか佐伯の一人暮らしの家に入り浸りとなり、ほとんど毎日一緒に過ごしていた。一日中一緒にいるのが嫌で浮気をしたのだろうか。
入力を終えた画面に小さな砂時計が点滅した。時間がかかるという合図だ。携帯電話を机に置いて部屋の中をぐるりと見渡した。私が誕生日にあげた、写真をたくさん貼ったコルクボードが目に入った。伊豆へ旅行に行った際のツーショット写真は二人とも笑顔だった。
再び携帯電話を手にすると、画面はすでに切り替わっていた。関係性スコア:92と出ていた。その下にポップな字体ですご〜い!と書かれてある。
私と佐伯の関係性を数値化したもので、90点以上はかなりの相思相愛らしい。それなら浮気もしないだろうとツッコむが、アプリに人間の機微はわかるはずもない。
関係性スコアは高ければ高いほど高額で販売ができるようだ。
次へ、と言うボタンを押すと「この関係性は45〜50万円程度で売れやすくなっております」とポップアップが出た。意外と高額だった。恋人関係が特に高値で売れやすいと書かれていた。ここで売値を決めて購入者がいれば、佐伯との関係は終わり、私にまとまったお金が入る。
少し逡巡した後、私は販売のボタンを押した。
一時間も経たずに購入者が現れた。アプリの仕様で購入者の情報は手に入らないが、佐伯との関係性を買いたがる女は一人だけだろう。
販売ページの佐伯の顔の上には売り切れの文字が光っていた。これでもう佐伯との関係性は終わりだ。
銀行のアプリを開くと、約半年分のバイト代が入金されていた。振込元は人間関係販売アプリだ。全てがスムーズだった。店長に今日のバイトを休むことと辞めることをメールし、机に携帯電話を放り投げた。何度か電話がかかってきたが、全て無視して佐伯のベッドで横になった。
香水をつけない佐伯は獣のような匂いがする。私が好きだった匂いだ。胸いっぱいにその空気を吸い込むと、遠くから睡魔がやってきて、私はすとんと眠りに落ちた。
三時間ほど寝ていたのだろうか。体を揺すられて目を開けるとスーツ姿の佐伯がいた。まだネクタイも外していない。
「俺、別の人と付き合うことになったから、出て行ってほしい」
ただいまより先にそう言われたことが悲しかった。文句を言おうとして口ごもる。この関係性を売ったのは私だ。佐伯とはうまく目が合わなくて、もう人が変わってしまったようだった。
「分かった」
さっぱりとした返事で立ち上がり、少しばかりの私物をまとめた。別れ際が変にドラマチックにならないことはありがたかった。
「じゃね」と大学にでも行くような軽さで玄関を出た。外は真っ暗で、九月の夜は半袖では少し寒かった。 「肌寒いけど大丈夫?」と薄手のカーディガンを持って追いかけてくれる人はもういない。


どこにも行きたい場所がなく、私は久々に実家へ向かった。特に連絡もせず帰ったのに、母は急遽二人分の鍋料理を振舞ってくれた。
「佐伯くん、いい男だったのにねぇ」
もったいないねえと繰り返しながら母は別れ話を聞いてくれた。こういう日の母親は心強い。表も裏もなく味方でいてくれる存在は少ない。鍋を一緒につつきながらビールグラスを傾けた。佐伯といる時はいつも私が小皿に取り分けていたから、母が私の小皿を取った時は新鮮な気持ちになった。野菜が多めに盛られていて、母親はいつまでも母親だ。
「まあ、あんたも大学四年生になるんだから、そろそろ就活も本腰入れてやってみたら」
母は五年前に父と死別した後、若い頃に勤めていた文芸雑誌の編集者に復帰してバリバリと働いている。もともと母親は仕事が好きで、私が生まれた時に育休を父と母のどちらが取るかで揉めたこともあったそうだ。結局、稼ぎの多かった父親が働いて、母は子育てに専念することになった。
「就活か、面倒だなあ」
よく煮えたネギを口に放り込む。どこかで佐伯と結婚して子育てをすると信じていたから、就活する自分を想像したこともなかった。大学を卒業したら結婚するまではフラフラ生きようと思っていたのだ。鍋に直接箸を突っ込んで、肉を小皿に移した。
「失恋で空いた穴は、新しい恋愛では埋まらないものよ。こういう時は働きなさい」
母が私の目を見て言った。目力が強く、私は反射的に頷いていた。当面の目標もなかったし、働いてみるのも良いかもしれない。
その日ビール二杯で酔っ払って寝てしまったことをきっかけに、私は寝床を実家に戻した。

 

母の言葉に従って、私は就活を始めてみることにした。
大学のゼミへ行き、教授に就活の開始を宣言した。教授は「君は八日目の蝉のようだね」と笑った。他の学生が各社で内定をもぎ取り、すでに羽ばたき始めた段階で地上へ出てきた行動の遅い蝉だと笑ったのだ。
「でも、だからこそ他の蝉より長生きできますね」と言うと、教授がまた笑った。
「子孫を残すことを考えた時に、周りに同種がいないと言うのは圧倒的に不利だよ」
胸がちくりと痛んだ。それから教授と仕事や将来について話した。特に就きたい仕事もなかったので、母と同じ出版業界を希望してみた。
教授がまだ新卒の大学生を募集している企業を探してくれた。それから一緒に履歴書を書き、面接の指導を受けた。
初めての面接は、一週間後に決まった。
大学の入学式以来のスーツに身を包み、朝早くに駅から近くの出版社まで歩くのは清々しかった。周りのスーツ姿の波と同じ一企業戦士のようで格好良かった。やっぱり私には母と同じで仕事に対する熱意があるのかもしれないとも思った。初めての就活に舞い上がっていた。
面接はまずまずの手応えだった。面接官の男性は若くて格好良く、こんなに遅く就活を始める人もいるんだね、と面白がってくれた。大学四年間の生活について話すと、佐伯ってやつは許せないね、とも言ってくれた。それから浮気話で盛り上がって、結局練習してきた御社の理念とかやりたい仕事の話とかは聞かれなかった。御社の理念に共感しているわけでも、やりたい仕事があるわけでもなかったのでありがたかった。

 

良い気分の帰り道、スーツを着た佐伯が歩いているのを見かけた。胸の内に肌触りの悪い風が吹いた。佐伯の肩に頭を寄せて歩く女性がいたからだ。後ろ姿でよくわからないが、スーツでロングヘアの女性だった。二人の距離は近く、親密な関係性であることは明らかだった。あれが写真に写っていた女だろうか。確かめるために追いかけた。スピードを上げたヒールの音が響く。
追いついて横目で女の顔を確認する。硬いもので頭を殴られたような衝撃があった。楽しげに佐伯の右肩に頭を乗せた女は、清子だった。
佐伯の不貞を告発した清子。
足が止まる。後ろを歩いていた中年のサラリーマンが舌打ちして私を追い抜いていった。佐伯との関係性を買ったのは清子だったのか。頭の中をぐるぐると情報が駆け巡った。だとすると、清子が送ってきたあの浮気現場を捉えた写真は本物だったのだろうか。今は写真の合成もアプリで簡単にできる。浮気現場の写真がショックで、それが本物かどうか疑う余裕がなかった。
佐伯と付き合うために、清子は嘘をついたのだ。
あの写真さえなければ、佐伯を疑うことも、関係性を売ることもなかった。激しい後悔にで、胃から不快感が込み上げてきた。
あまりにひどいやり方であった。佐伯と清子はとうに駅前の雑踏に紛れて見えない。追いかけて、泣いて非難するほどの気力は残っていなかった。人ごみをかき分けて道端のベンチに腰掛けた。
ベンチは冷えており、怒りと悲しみで熱くなった体を冷ました。
清子を信じた私にも責任があるのかもしれない。佐伯と対面して直接浮気を問いただすのを面倒臭がった私もいた。お互いを愛し合っているという確信さえあれば、直接写真について話すという工程は踏むべきだった。あっさりと関係性を売れてしまえたのは、佐伯との関係に見切りをつけていた自分がいたからではないか。
考え直してみるが、あの時の自分がどうしたかったのかよくわからなかった。

 

一週間後、最初に面接へ行った企業から採用内定通知書が届いた。
あんな面接でも受かるのか。志望動機も御社の理念も聞かなかったあの面接官はふざけていたのかと思っていた。
「母さん、内定だって」
無造作に開けた封筒の中の書類を母に見せると、母は自分のことのように喜んでくれた。
「すごいじゃん、一発目から内定なんて」
私から書類を奪って、母は内定の文字を優しくなぞった。大学四年間で就活するそぶりのない私を見て、ずっと心配をかけていたのかもしれない。
「初任給がでたら、何か美味しいもの食べに行こうね」
初めてできる親孝行だから、何か母の好きな食べ物がいい。
「ありがとう、これから楽しみにしてるね」
母は手の甲で目元を押さえた。

 

仕事に没頭すれば、いつか新しい恋愛もできるだろうか。
そういえばあの面接官は格好良かった。入社後は新入社員の指導係となるそうだ。物腰が柔らかく、紳士的な人柄だった。
私は人間関係アプリを起動して、面接官の名前を入力した。友人関係、先輩後輩関係、恋人関係などが売られていた。
前はお金がなかったので、清子から佐伯との親密な先輩後輩関係を買って恋人にまで進展させたが、今回はまとまったお金がある。関係性スコア:95の優良商品だ。55万円と高額だが、佐伯より格好良くて年収も高い。将来性に投資するならこの人だろう。
私は迷わずに購入のボタンを押した。

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