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自転車

急いでいた。朝寝坊をしてしまったのだ。

ぐずる息子をなだめつつ、朝食を用意し、スーツに着替える。化粧に使ってる時間はない。日焼け止めだけを塗ってマスクをつける。いつものことながら目まぐるしい忙しさだった。

自転車の後ろに息子を乗せた時にはもう8時だった。焦った母が面白いのか、けらけらと笑っている息子。唇の端についた牛乳を親指で拭ってやる。その親指はスーツのパンツで拭いた。黄色い帽子が飛ばないように、顎紐を顎下に通す。

これで、よし。忘れ物はないはずだ。

「じゃあ、いってきまーす」

息子もおぼつかない口調でいってきまーすと真似をする。年々重くなっていくペダルを漕いで、幼稚園までの道を走った。信号に引っ掛からなければあと5分で着くので、ギリギリ間に合うはずだ。

交番前の交差点を右に曲がる。制服姿の警察官に息子がきゃははと手を振る。警察官もにこやかに手を振りかえした。

不意に「ママー」と呼ぶ声が聞こえた。何かと思って後ろを振り向いた時、車体が傾いた。慌ててハンドルを持ち直す。前方を見ると狭い歩道の真ん中をよぼよぼと歩くおじいちゃんが見えた。ぶつかる、と瞬時に思い、車道側にハンドルを切った。

気持ちの分だけ体をぎゅっと縮めて、おじいちゃんの側を通り抜ける。ガタッという衝撃があった。腕かなにかに当たったか。横目で大きな影が倒れたように見えた。ひゅっ、と空気が喉を抜けた。その瞬間も自転車は進む。ブレーキは握らなかった。

「ちょっと!」

後ろから野太い声がした。老人のものとは思えない声だった。

「ちょっと待って!」

焦った声が背中から追いかけてくる。冷や汗がドッと出た。ママ友の1人が自転車事故で、怪我をさせた相手に多額の治療費を払ったという話を思い出していた。そのせいで親戚中にお金を借りて回ったと。おじいちゃんは怪我をしたか。

振り返ろうとするが、できない。振り返って目が合えば、顔を覚えられるかもしれない。このまま逃げ切ることができれば。

・・・轢き逃げ。

そこまで考えて息子のことを思い出した。息子の前で犯罪は犯せない。

「待ってってば、落としてるよ」

男の声がすぐ耳元で聞こえたような気がした。背筋がぞくりとする。落とした?何を?頭の中が真っ白になって反射的に後ろを振り返った。

「命」

数メートル後ろに、倒れた自転車と頭から血を流して倒れた私と息子が見えた。

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