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ともに泣き、ともに悲しむ、心の同伴者

 飯田史彦さんの著書『ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡』の中に、とりわけ印象深い箇所があった。
 そもそもこの本は、著者自身が脳出血で生死の間をさまよっていたときのいわゆる臨死体験を書いたもの。魂の世界へ行って、光の存在と対話した内容が綴られている。
 私自身は信憑性のあるノンフィクションとして信じて読んだ。一方で、こうした非科学的なことは信じない人もいるだろう。ただ、魂の世界が事実かどうかはこの際あまり重要ではなく、光の存在が話したとされる内容について、「なるほどそういうふうに考えて自分は生きていこう」と思うかどうかが大事だと私は考えている。

 それで、とりわけ印象深い箇所というのは、著書の痛切な問いに対して光の存在が答えるシーン。
 前提として、著者は人の魂を癒やす活動を自身の使命と考えている。いろいろな人の悩みや相談を聞き、使命を果たそうとする中で、どうしても困ってしまうことが。
 それは、愛する人を悲惨な死によって失って深い絶望感や虚無感、喪失感に沈んでいる遺族の方々に対し、どうやって使命(魂を癒やす)を果たせばいいのでしょうか、ということだ。
 それに対する、光の存在の答えが下記。

光「簡単なことです……ただ、ともに泣き、ともに悲しんで差し上げるのです。それほど深い悲しみに沈む方々には、あなたの論理的な説明や人生論など、何の効果もありません。そのような方々を救う方法は、ただひとつ……ともに泣き、ともに悲しむことにより、その御方の、『心の同伴者』になって差し上げることしかないのです」
(略)
光「説明しようとするのではなく、共有しなさい……導こうとするのではなく、寄り添いなさい……ただ、その御方とともに泣き、ともに悲しんで、心の同伴者であろうとすればよいのです」

飯田史彦『ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡』

 この答えを聞いて著者は納得し、すっきりした気持ちになれたという。

 ともに泣き、ともに悲しみ、心の同伴者になるというのは、簡単そうに見えていざやろうとすると難しいことだ。人はつい「こう考えたらどうか」「泣いていても始まらない」「どうか元気になって」などと言いたくなってしまうから。
 けれど、もし自分が深い悲しみの淵に沈んでいたら…と考えると、その悲しみを分かち合い、一緒に泣いてくれる人がいたらどんなに救われるだろうかと思う。
 悲しむ心を否定せず、共有してくれたらうれしい。そして、その「うれしい」と思えた心の一部分から、救いが始まっていくんじゃないかという気がする。
 悲しいときは悲しんでいい、泣いていいんだと思えれば少しは気が楽になるし、そう思わせてくれるのが、心の同伴者なのだろう。

 私はクリスチャンだから、光の存在の答えを読んで聖書の一文を思い出した。

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

ローマの信徒への手紙12:15 新約聖書 聖書協会共同訳


 悲しんで泣くときだけでなく、喜ぶときや笑うときも心の同伴者と分かち合えたら素敵だ。


 私が読んだ『ツインソウル~』は図書館にあった単行本の第1版ですが、今は完全版として文庫が出ているのでそちらのリンクを貼っておきます。


◇見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから
_kei_さんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございます。

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