「放蕩息子のたとえ話」へのモヤモヤがすっきり晴れた日
放蕩息子のたとえ話といえば、聖書に出てくるいろいろなエピソードの中でも割と有名なものだと思います。神さまの愛の寛大さや、悔い改めた者への救いについて、たとえ話を用いてイエスさまが語ったとされる箇所ですが、実は私は以前から、このストーリーに少しモヤモヤしたものを感じていました。
ルカによる福音書の15章11~32節に出ているお話です。
ざっくり言うと、ある父親にふたりの息子がいた。弟のほうが、いわゆる生前贈与の形で財産がほしいと頼み、そのお金を持って家を出て、遠い国で放蕩の限りを尽くす。ただ、お金を使い果たしたところで飢饉が起こり、食べ物にも困って苦労をし、ぼろぼろになって郷里の父のもとへ帰ってくる。ずっと父の元にいた兄は怒ったが、父は喜んで弟を迎え入れ、抱き締めてキスをしてとっておきのごちそうで祝宴を開いた、という流れです。
念のため、新訳聖書のその箇所を、ちょっと長いけど引用しますね。
悔い改めて戻ってきた弟を喜んで迎える父親の姿が、神さまの愛とあわれみ深さを表している、という解釈になるのですが、「兄の気持ちもわかるなあ」と私は思っていました。このお父さん、甘すぎるよね?(笑)とモヤモヤしていたのです。
でも、この弟をわが家の猫に置き換えて考えてみたら、自分の中のモヤモヤがすっきり晴れたというか、引っかかっていたものが氷塊し、むしろストライク!という感じで納得できました。
↓こちらの写真の茶白の子のほうを仮に弟としましょう。
もし茶白の子が、「俺、いま財産を分けてほしいニャ。遠くで冒険したいしいろんなことをしてみたいニャ。広い世界で自分の力を試したいニャ」などと言って頼んできたら、心配だし、できれば引き留めたいし、遠くの国になんて行っちゃったら寂しくて泣いてしまうけれど、やりたいことをやらせてあげたいという気持ちから、できるだけのお金や物を持たせて「気をつけて行っておいで」と送り出すでしょう。とはいえ、胸が張り裂けそうになるとは思います。
心配で心配で夜も眠れないかもしれません。毎日どうしているかなと考えて、つらいめに遭わないよう、元気でいてくれるようにとひたすら祈って帰りを待っているでしょう。
遠くの国で飢饉が起こったという噂を伝え聞いたりしたら、心配はMAXに…。想像しただけで、耐えられないくらい苦しいです。
そこへ、痩せてぼろぼろになった茶白の子が「もう息子と呼ばれる資格はないけど帰ってきちゃったニャ…雇ってほしいニャ」なんて言って姿を現したら、抱き締めてキスして大好物のごはんを出してあげて、やわらかくてあったかい毛布で包んであげて、涙でぐしゃぐしゃになるくらい頬擦りして抱き締めてキスします。脳内にその場面を思い描くだけで、涙が出てくるほど。
遠くでひとりぼっちで厳しい状況になって困り果てたとき、帰ろうかなと思ってくれたことがまずうれしいし、生きていてくれて再び会えたことが大きな喜びだからです。
もしもそこでサビの子が「私はずっとここにいて、いい子にしていたのに、外で遊び放題やってきた茶白の子をひいきしてずるい」と文句を言ったとしたら、サビの子を抱き締めてキスをして、「あなたのことも愛してるよ。いつもここにいてくれてありがとう。いまは一緒に茶白の子が帰ってきたことを喜ぼうよ」と言うでしょう。
そんなふうに考えてみたら、この父親の気持ちにめちゃくちゃ共感できました。自分からの猫たちへの愛と、神さまからの私たちへの愛を並べて語るつもりはないのですが、自分と猫に置き換えてイメージしてみたことで、そういう話だったのか!と視野が開けたのです。
「神さまは本当に、天にいらっしゃる真(まこと)の親なんだ。我が子である私たちひとりひとりを途方もない愛で包んでくださっているんだ」と、ある意味、生々しい感覚で理解できました。
それだもの、放蕩息子が自分の行いを悔いて戻ってきてくれたら、赦す以前にとんでもなく喜んで甘くもなるでしょう…。この話へのモヤモヤがすっきりなくなり、自分の中にすとんと落ちたのです。
そして、神さまがそういう「親」だからこそ、私は信じて甘えられるし、頼って、祈って、ゆだねることができるのだなと思いました。
◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから
sinoayakouriさんの作品を使わせていただきました。
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