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『センス・オブ・ワンダー』 新訳とその続き(森田真生)に寄せて

松葉舎ゼミ「科学のセンス・オブ・ワンダー」の開催に寄せた文章を、森田真生さんによる『センス・オブ・ワンダー』の新訳とその続きに寄せた文章として独立させました。


2024年3月23日、独立研究者の森田真生さんによる『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)の新訳と、そのつづき「僕たちのセンス・オブ・ワンダー」を合わせた一冊が刊行されました。

『センス・オブ・ワンダー』は、自然の驚異と不思議へと私たちの感覚を開かせてくれる不朽の名作として知られていますが、それが未完の書として遺されたことが世に惜しまれてもきました。

しかし、森田さんによる「そのつづき」は、『センス・オブ・ワンダー』を完結させるべく書かれた「つづき」というわけではありません。カーソンとは異なる土地、異なる時代に生きている「僕たち」のひとりとして、彼は自身の足下を見つめ、自らの生きる現実に照らし合わせながら、これを書き「継ぎ」ました。そのことによって彼は、これからの世界を生きる未来の「僕たち」に向けて、本書を開きなおそうとしたのです。

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実をいうと森田くんは僕の親友であり、本来であればすぐにでも感想を寄せたいと思っていたのですが、実際にこの本を読み始めるとカーソンの言葉が僕の前に立ちはだかって、すぐには言葉がでなくなってしまいました。上遠恵子さんによる翻訳で『センス・オブ・ワンダー』は以前に読んでいたのですが、カーソンの「知ることは感じることの半分も重要ではない」(上遠恵子訳)という言葉に当時感じていた引っかかりが思い起こされてきたのです。

この言葉を自らの文章にも反映させるように、『センス・オブ・ワンダー』では、細かな知識を持たずとも現地におもむき感覚をひらけばその場で感じとれる自然に、その記述の大部分が捧げられています。また、そこでは自然の織りなす光景が精緻に描写されているのに対して、人間の作った人工物が積極的な意味を担って登場することはありません。

知ることと感じること、あるいは人間と自然の間に与えられたこの距離と序列こそが、カーソンが本書に込めようとしていたメッセージの一つであり、それはセンス・オブ・ワンダーのあり方にまで関わってくる本質的な問題だと思うのですが、以前の僕はそのことの意味を吟味し尽くせずにいました。

「知ることは感じることの半分も重要ではない」とカーソンが語るその文脈において、僕はこの言葉に納得も共感もしています。しかし、生物学者としての来歴をもち、人一倍「知」に精通していた彼女がこの言葉に込めた意味の真髄を掴むまでは、それを僕自身の知り方、感じ方、分かり方として鵜呑みにしてはならないと感じていたのです。

翻って森田くんの書いた「そのつづき」を読むと、そこには、知ることを通じてはじめて感じられる心の風景が描写されています。一方では、自然を損なうだけでなく、自然に恵みをもたらすものとしての人工物の姿が記述されてもいます。

森田くんは独立研究者として、世界の知り方、感じ方、分り方を、一つひとつ手作りするように、これまで探求を続けてきました。そこには、知ること、感じること、分かること——さらには、在ること、動くこと、生きること——の関係を問いなおし、組み換えていく作業も含まれています。

そうして独自のブレンドで自分流の「分かり方」を配合してきた森田くんが、知ること、感じることの間に与えた関係は、やはりレイチェル・カーソンのそれとは異なっているように思えます。彼が独立研究者を名乗っているのは、ただ既存の制度から独立しているというだけの意味ではありません。自分が世界を分かろうとするその方法を、自らの手で作りなおしていく。その意味で彼は「独立」しているのです。

カーソンとは時空を隔てた現代の日本に生きる私たちが、『センス・オブ・ワンダー』を読む。それは必ずしも、カーソンが感じたように感じ、カーソンが知ったように知る、ということではないはずです。私たち一人ひとりが、知ることと感じることの関係を紡ぎなおし、そうして『僕たちのセンス・オブ・ワンダー』を新たに立ちあげていく。それこそが、カーソンを読み継ぐということなのだと思います。

付記
カーソンの「知ることは感じることに比べて半分も重要ではない」(森田真生訳)という言葉にあらためて向きあうために、『センス・オブ・ワンダー』の原文と二つの訳を部分的に比較対照していきました

関連講座
科学のセンス・オブ・ワンダー
 〜物理学者とともに見る世界〜
松葉舎ゼミ講義回(講師・江本伸悟)

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