三島由紀夫という迷宮 柴崎信三
三島由紀夫という迷宮 ―〈英雄〉になりたかった人
◆目次
はじめに
プロローグ 海と〈乃木神話〉
第一章 ダンヌンツィオに恋をして
第二章 「太宰さんの文学は嫌いです」
第三章 アルカディアは何処に
第四章 金閣炎上と〈肉体改造〉
第五章 〈白亜の邸宅〉の迷宮へ
第六章 雪の朝、銃声響く
第七章 「この庭には何もない」
第八章 〈英雄〉と蹶起
第九章 無機的で、からっぽな大国
エピローグ 〈物語〉へ
跋
主な引用・参考文献
はじめに
一九七〇年の日本が夥しい〈躁〉の気分に覆われた時代であったことは、それから半世紀という時間の経過やそのころの自分の年齢の与件を考慮に入れてみても、おそらくあらためる理由はないだろう。二〇年ほどあとにやってくるバブル期に経験する、底が抜けたような不気味な狂騒とも異なる、まことに直線的な未来へのオプティミズムが、〈戦後〉へのひそかな懐疑という薄い皮膜を伴いながら、成長と欲望の頂へ向かう社会をすっぽりと覆っていた。
三島由紀夫が革命前のフランスの画家、ヴァトーの『シテール島への船出』で見出したロココ時代の「雅宴図」の華やぎの陰には、未来への不安と瓦解の予兆が漂っていた。その通奏低音は、もちろんこの時代の戦後日本にも響いてはいたはずなのだが。
この年の経済成長率は実質一〇・三%、名目一七・八%、五年連続で二桁の成長が続いていた。日米間で通商摩擦が広がり、日米繊維交渉が始まったが、戦後世論を二分してきた日米安全保障条約は六月に大きな混乱もなく自動延長された。米国が介入したベトナム戦争は泥沼が続いていたが、日本の一国平和主義は米国の傘によって維持された。
三月に大阪の千里丘陵で「人類の進歩と平和」を標語にして始まった日本万国博は、米国のNASAの宇宙船アポロが持ち帰った月の石や最新技術の粋を集めた交通・通信システムなどを求めて、九月の終了時までに六千四百二十二万人の人々を集めた。同じ三月、「赤軍派」の新左翼学生が日航機を乗っ取り、乗客らを人質にして北朝鮮へ亡命するという事件が起きたが、これも一時燃え盛った若者の反体制運動の徒花のような出来事である。
国民所得の上昇で自家用車が四世帯に一台に普及し、一方で光化学スモッグやヘドロなどの公害が相次いで表面化した。この年、二本の映画が話題を集めていた。アナーキスト大杉栄と「青鞜」の女性たちの自由恋愛を現代の若者風俗に重ねた吉田喜重の『エロス+虐殺』、そして米国に広がる若者の対抗文化を描いた『イージー・ライダー』である。自由恋愛とアナーキストの虐殺、反抗する若者たちの死という主題は「豊かな時代」の陰画として、いかにも熱を帯びたようなこの時代の気分の表徴であった。
四十五歳の三島由紀夫はその年の晩秋、「楯の会」の若者たちと東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入してクーデターを企て、憲法改正などへ向けて隊員の蹶起を呼びかけたが果たせず、割腹自決を遂げた。いま、この年のユーフォリアのつらなりのなかにこの事件を置いてみれば、戦後社会の寵児が絢爛たる才能の開花の先に募らせたその〈危機感〉と、それとはかけ離れたこの時節の軽躁な気分との乖離に驚かざるを得ない。
その日の午後、二十三歳の私は総監室で死んだ三島の肉体のぬくもりがまだ漂う市ヶ谷の総監部の前庭に佇んだあと、すぐ近くの評論家の江藤淳を訪ねて談話を求めた。「三島自決」に沸騰する世論をよそに、江藤は三島の死を文学的な衰弱の結果と断じて譲らなかった。戦力としての自衛隊の「認知」や、象徴天皇制を否定して伝統の回復を求めるその政治的な大義や危機意識は、いわば「終わりつつある作家」の精神的な避難場所に過ぎなかったのではないか、と。
三島由紀夫は自裁の三カ月ほど前に、今日よく知られている予言的な言葉を残した。
それから三十年ほどを経て、三島が予言した通りに「からっぽな大国」が凋落へ漂いはじめた〈平成〉のある夏の日、江藤も過ぎ去った〈昭和〉に殉じるように自死した。妻の死と自身の病が引き金だったにせよ、あたかも夏目漱石の『こころ』で明治帝の崩御に殉じた〈先生〉のごとく、このひとも一つの時代の終焉に同伴したのである。
その荒唐無稽な死にもかかわらず、三島の〈予言〉はほぼ正確に半世紀のちの〈この国のかたち〉を言い当てている。むしろ「富裕な経済的大国」は、その足場を大きく失いつつあるというのが正確な現状への認識であろう。そうであれば、三島由紀夫の自裁の内的動機と「日本の衰弱」はどのようにとり結んでいったのだろうか。
川端康成、司馬遼太郎、江藤淳という、三島の自決を冷静に受け止めた同時代の巨匠作家たちは、のちにそろって自裁や急逝というかたちで三島の後を追うことになった。その謎を手がかりに戦後の三島由紀夫の主要な作品に隠された〈意匠〉に改めて光をあて、高度成長期のユーフォリアのなかで〈英雄〉を夢みて、孤独な「最後の跳躍」にいたった〈寵児〉が後世へ遺した伝言を読み解きたい。
プロローグ 海と〈乃木神話〉
そのころ作家の司馬遼太郎は幕末の攘夷派の志士、吉田松陰と高杉晋作を主人公にした小説『世に棲む日々』を連載しているさなかだった。したがって、一九七〇年十一月二十五日の翌日の『毎日新聞』に「異常な三島事件に接して」と題して寄せた論評は、そこから三島由紀夫の死を論じている。
戦後日本を代表する華やかな人気作家が白昼、〈私兵〉の若者を伴って東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室を占拠、総監を人質にして憲法改正などへ〈蹶起〉を自衛官らに呼びかけながら果たさず、その場で割腹自決する―。
しつらえた「楯の会」の制服制帽を身にまとった著名作家が、日本刀を帯びて総監室で繰り広げた事件の衝撃と異常性をめぐって、直後から各界で激しい論議が沸き立ったのは当然である。そのなかで、時を置かずに司馬遼太郎は、三島の自決への思想的な否認をあきらかにした。
一見して事件は荒唐無稽な自然犯であることは明白であるにしても、それが〈狂〉が招いた文学者としての衰弱の結果である、と司馬はそこで論じた。
司馬はそう事件の背景を見立てた。自裁の当日の論考でありながら、事件の熱気と世論の沸騰から離れて、これを〈狂気〉と突き放したのである。『坂の上の雲』をはじめ日本の近代の「国民の物語」を描き継いだこの歴史作家が、ともに〈戦後〉を歩んできたほぼ同世代の人気作家による、異形の死へ向けた餞である。事件直後に筆を執った司馬のきわめて冷静な文章から、そこに司馬が受け止めた事件の衝撃の大きさを割り引いて考える必要も、もちろんある。
それを病理学的な意味での〈狂気〉と呼ぶかどうかも、留保されるべきかもしれない。しかし、戦後の高度経済成長期にあの『豊饒の海』を書き進めるなかで、三島を侵食していった重苦しい「不快の感覚」が〈虚構〉と〈現実〉との境界をあいまいにし、〈蹶起〉につながっていったことは、そのころ三島が書いた多くの文章や言動からみて疑うべくもない。それは戦後の三島のなかに降り積もった、窺い知れぬ〈文学的狂気〉が導いた結果なのであろうか。
事件から半世紀にわたって、三島由紀夫の自裁をめぐる物語はさまざまな変奏のもとで語り継がれ、新たな意味づけが繰り返されてきた。司馬遼太郎が「狂気」と呼んだ三島由紀夫の行動原理は、どこに起点があったのか。
事件直後に三島の〈蹶起〉と自裁を論じて、司馬がこれほど明確にその政治的な意味を否定したのは、吉田松陰や乃木希典といった幕末維新の志士から明治国家の軍人につらなる、陽明思想の顕著な影響をそこに認めたからである。三島が「蹶起」の拠り所とした〈天皇〉や〈伝統〉も、ゆきつくところはこの「知行合一」の思想と連動してその究極の行動につながっていった。
事件直後の司馬の論評は次のように続いている。
これは三島が最後の大作『豊饒の海』のなかで展開した、王陽明の「知行合一説」による陽明学を説いた幕末の国学思想への批判であり、そこに由来する三島の〈蹶起〉の行動哲学に対するはっきりとした否定である。
司馬はさらにこう続けている。
幕末の革命思想家であった吉田松陰が、〈国体〉という観念を通して徳川の幕藩体制そのものを打ち破ろうとする精神を、司馬は〈狂〉と呼んだ。。
小説『峠』のなかでは、長岡藩で戊辰戦争を戦って死んだ河井継之助を描いて「陽明の徒は万策尽きたときにすべての方略をすて、その精神を詩化しようとするところがある。継之助は詩へ飛躍した」とも述べている。いずれもその革命哲学が〈思想〉と〈行動〉を一挙に接続させる情念で動かされるという点で、それは〈狂〉であり、〈詩〉である、と司馬はいうのである。
*
もう一人、司馬遼太郎が三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁に重ねたのが、明治天皇に殉死した陸軍大将の乃木希典である。西南戦争で連隊旗を奪われ、日露戦争の旅順攻略戦でも、指揮官として作戦に失敗して指揮権を剥奪された。自身の二人の息子もこの旅順の攻略戦で戦死している。「いくさ下手」の軍人として語り伝えられる不運の指揮官は、日露戦勝後の東京の凱旋行進で馬車を辞退し、ひとり騎馬に白髭瘦身を乗せて、伏し目勝ちに粛々と行進の末尾についた。
乃木を描いた作品『殉死』のなかで、司馬はその乃木の行進の光景に、自分を舞台の悲壮美のなかにおいて酔う「劇中の人」を見出している。
「自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前まで受け継がれてきたごく特殊な思想のひとつであった」と司馬は述べて、「希典はその系譜の末端にいた」と続けている。
〈いくさ〉というリアリズムのなかに自身を置きながら、そこに〈詩〉を探り、美的な生き方を貫いた乃木希典は、明治天皇の崩御に際して妻とともに殉死した。指揮官として戦場での過ちを演じながらも、乃木は明治帝からの手厚い寵愛を受けた。ここには「劇中の人」となって自刃した悲傷の将軍がいる。
司馬は三島事件の二年前、日露戦争を中心に据えて近代日本の黎明を彩る群像を生き生きとえがいた長編小説『坂の上の雲』の連載を始めている。のちに二〇世紀の日本を代表する国民文学と呼ばれるようになるこの作品のなかで、日露戦争の旅順攻略戦に失敗した第三軍司令官、乃木希典の指揮官としての非才と、その殉死にいたる謎めいた精神主義を、浮き彫りにしている。
連隊長を務めた西南戦争では、田原坂のいくさの作戦を誤って西郷軍に連隊旗を奪われるという失態を演じた。日露戦争では旅順攻略戦の司令官として要塞の正面攻撃に固執し、海軍が求める二〇三高地という戦略拠点への攻撃を無視し続けた。その結果、三回の攻撃で自軍から一万人もの死者を出した。剰え、従軍していた自身の二人の息子もこの戦闘で失い、指揮権を剥奪された。指揮官としての凡庸さ、というよりも、情報を集めて兵站と作戦を機敏に動かしてゆくべき戦争のメカニズムを無視した、ある種の浪漫主義がそのような悲劇的な場面に自らを追い込み、また乃木自身もそのような場面の「劇中の人」となって、演劇的な悲劇性を高めていったというのである。
悪戦する乃木に代わって旅順攻略を指揮するために、南満州鉄道で南下していた満州軍参謀長の児玉源太郎は、車中で乃木軍が二〇三高地を奪取したという情報を受けて大連駅で途中下車し、部下の田中国重少佐とホテルでシャンパンとカツレツで乾杯した。すると、そこへ第二報が届いた。
『坂の上の雲』にはこうある。
乃木は休職中でも陸軍大演習には必ず参加して、明治帝のまなざしに触れた。帝は作戦の失敗などで乃木の更迭論がでると、「乃木を代えるな」と擁護した。
乃木の詩人的資質は、生涯のいくつかの場面で鮮やかな記憶を人々にもたらしている。『坂の上の雲』で、物語の重要な役割を占める乃木は軍人としての蹉跌を繰り返して日露戦争から帰還したが、東京での凱旋行進では馬車を辞退して瘦身を単騎に乗せ、黙々とひとり行進の末尾についた。
その姿は「悲運の武将」の印象を国民にひときわ、深く刻み込んだ。
幕僚たちとともに戦勝の報告で宮中へ参内し、帝の御前で復命書をそれぞれ読み上げる場面では、乃木ひとりが自筆の名文を切々と読んだ。
司馬は『殉死』のなかで、その情景をこのように描写している。
明治帝の崩御に際して、妻を伴い割腹して自裁する乃木希典を主人公に、司馬遼太郎が『殉死』を書いたのは、三島由紀夫が〈蹶起〉と自裁を遂げる三年前の一九六七(昭和四二)年である。
日露戦後、現役の陸軍大将にして伯爵の爵位をうけ、また学習院院長と宮内省御用掛という栄爵に迎えられながら、明治帝の崩御に殉じて妻を伴い自裁を遂げる、その幾重にも屈折した歩みは、どこからもたらされたのか。
知識と行動を直接連動させる、江戸幕末の陽明思想が掲げる「知行合一」の行動哲学と、明治帝という〈主君〉に寄せる中世の武士の〈郎党的親愛〉の残照が乃木を動かしていたと、司馬は見る。その〈いくさ〉に対する無器量も、その折々の悲劇的な振る舞いも、ことごとくそこに由来する、と―。
大坂の町奉行の与力であり、「陽明の徒」の先駆けであった大塩平八郎は、凶作が関西地方を襲って窮民化した人々の救済を幕府に求めたが動かず、家財を売るなど私財を投じてもなお苦境が続いたことから天保八年、四十三歳で武装蜂起した。「大塩は奇矯な性格のもちぬしではなく、その現職当時は能吏といわれたほどの男であり、さらに若気ともいえぬ年齢でもあった。齢は四十三になっていた。それほどに常識世界の男が、まるで衝動のような突然さで、反乱をおもい立った」と司馬は書いている。
乃木は自裁の二日前、すなわち一九一二(大正元)年九月十一日の朝、赤坂の自宅を出て皇居に参内した。皇孫だった十二歳の裕仁親王に拝謁するためである。幼い三人の親王たちが居並ぶ前に、乃木は手にしてきた儒学者、山鹿素行の『中朝事実』を示して、そのあらましを説いた。
もちろん、幼い親王たちにこの難解な書誌への理解が及ぶはずはない。それでも「それ、天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」という山鹿素行の思想の片鱗を伝えておきたかったのである。
講義が終わると、親王裕仁は学習院院長の乃木に向って問いかけた。
「院長閣下は、どこかへ行ってしまうのか」
乃木は答えた。
「いいえ、乃木は何処へも参りませぬ」
司馬はこの場面を描きながら、乃木の心のうちをこう説いている。
『殉死』を書いてから三年ののち、一九七〇(昭和四五)年十一月二十五日の三島由紀夫の〈蹶起〉と割腹自裁のすぐあとに新聞社から論考を求められたとき、司馬遼太郎がこの作品で描いた乃木希典の自裁をすぐ想起したであろうことは、想像するまでもない。
作家である三島由紀夫の自裁は「楯の会」という私兵集団を従えた一種の心中死である。市ヶ谷の総監部のバルコニーでかれは「天皇陛下万歳」を唱えたが、現実の昭和天皇に対しては戦後の〈人間宣言〉にはじまる〈象徴天皇〉への忌避の感情を強く抱いており、殉死した乃木が明治帝との間に結んだ、中世の「主君と郎党」に似た情愛は、そこには微塵もなかった。
〈天皇〉という表徴を掲げた「警世の手段」としての〈死〉の相似形だけが、時を隔てた二人の自裁者を貫いているのである。しかし、司馬が二人の死への衝動の底に合わせ見ているのは、「動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない」という、〈陽明の徒〉の悲劇的な行動倫理にほかならない。
旅順要塞攻略戦でひたすら旧弊な正攻法にこだわって累々の死者を出し、作戦指導に批判が高まると、乃木は敵弾が飛び交う中を「前線視察をしてくる」と単騎で自殺的な行動をとろうと試みた。「動機が美しければ結果は問わない」という陽明学的な処世観は、あらゆる場面で彼の行動にあらわれた。
それは三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁においても、同じような行動倫理としてはっきりと浮かび上がる。日本の伝統の回復と憲法改正による自衛隊の国軍化などを求めて、私兵集団の「楯の会」の若者を引き連れて陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、総監を人質にして自衛隊員にクーデターへの〈蹶起〉を呼びかける。すべてが非合法で客観的にも社会的な成功への可能性をほとんど望めないにもかかわらず、かれらの信じる「動機の至純さ」がすべてを容認するのである。そして、計画がいかに荒唐無稽で失敗が自明であっても、〈割腹〉による自裁は十分な警世的効果をもたらすであろう―。
〈蹶起〉がバルコニー前に集まった自衛隊員から罵声をもって迎えられ、空想的なクーデター計画が失敗して単なる刑事事件として処理されることを、三島は予め十分に想定したうえで、その日の行動に踏み切ったのであろう。いわば失敗を前提として象徴的な行動に命を賭けるというということを、三島ははっきりと直前の著作などで述べている。
これはまさに「動機の至純さを尊び、結果の成否を考えない」という、「陽明の徒」の行動原理そのものにほかならない。
*
司馬は事件の翌日の論考を「三島氏のさんたんたる死に接して」と書き出し、その自裁が彼の文学的な敗北にもつながっていることを表白した。
しかし、その後段でかれは思いがけない三島への賛辞を掲げたうえで、その死を惜しんで手厳しい三島の自死への批判の文章を回収している。
ここで司馬が三島の文学的な大きさをあかす〈名作〉として挙げているのが、一九六三(昭和三八)年に書き下ろした小説『午後の曳航』である。
文芸作品が読者にもたらす陶酔感という物差しで見れば、たしかにこの作品はあまたの三島の小説のなかでも有数の蠱惑的な魅力をたたえた作品の一つ、ということができるかもしれない。しかし、生涯の夥しい三島の作品のなかで見れば、話題性や知名度の高い作品では必ずしもない。
舞台は一九六〇年代の横浜・山手にある西洋館である。
元町で輸入洋品店を営む未亡人の黒田房子がある日、十四歳の一人息子の登と住む家に外航船の船員の塚崎龍二を伴って帰宅する。登は二人の情事を押し入れから覗き見することで、世界の虚無を確かめる。
登と友人の少年たちの仲間が構想する〈世界〉に突然闖入してきた塚崎は、かれらにとって航海を通して世界中の光栄や悲哀に身を浸してきた〈英雄〉であった。その英雄がある日、海から上がって母と結ばれ、彼の新たな〈父〉となって暮らし始めるのである。少年たちがつくる小さな〈王国〉に招かれた〈英雄〉は、その栄光に満ちた海の上の輝きと港々をめぐるの日々を振り返り、語り聞かせた。
その〈英雄〉が輝かしい海を見捨てて、〈父〉という俗物になる。
空虚な世界を統べる〈王国〉の規範に基づいて、六人の少年たちはこの単純で美しい世界の秩序を裏切って陸にあがった〈英雄〉に最も重い処罰をくわえること決めて、実行に移してゆくー。すなわち、毒殺である。
これは十四歳の少年の目を通して〈海〉や〈船〉や〈夕焼け〉といった抽象的な「美」の王国から追放されてゆく〈英雄〉の反語的な物語である。
司馬が三島のこの小説に見出したのは、〈美〉という観念を通して六人の少年たちがたくらむ〈犯罪〉を象徴的に描いた復讐の物語の巧みさと、その豊かなイメージの広がりである。それは〈美〉という観念が文学作品のなかでは自律して運動し、作者の現実や社会的な規範など〈外部〉の構築物をとははなれて仮想的な〈世界〉を創り出す、芸術作品の本質にかかわっている。
司馬はここで「三島氏の狂気は天上の美の完成のために必要だったものである」と述べて、「そのことは文学論的に言えば昭和三十八年刊行されたかの名作(まことに名作)『午後の曳航』に濃厚に出ている」と論じた。
〈この小説は他者を殺す。少年たちが精密な観念論理を組み上げ、その観念を「共同」のものにしたあげく、その論理の命ずるところによって、現実的になんおかかわりもない一人のマドロスを殺す、そういう主題である〉
『午後の曳航』に対して繰り返し「まことに名作」と称賛を重ねたところに、司馬がひそかに三島のこの作品に込めた、格別に深い感情移入が浮き彫りにされている。
芸術作品の自律性から生まれた美のなかにこそ、文芸の王道があるという司馬遼太郎の思想は、この作品のあとから三島が次第に〈行動〉を主題にした〈現実〉に絡む作品に向かい、やがて虚構と現実の行動との境界を見失って〈蹶起〉に至ったという経緯を考えると、重い意味を伴ってくる。
少年たちが牢固に組み上げた〈海〉をめぐる観念によって、〈英雄〉であることを放棄した一人のマドロスを殺すという、この神話的な物語に、司馬はなぜそれほど大きなまなざしを注いだのだろうか。
物語の舞台として選ばれた〈横浜〉という都市が持っている、自由で開放的な風土と空気をそこに重ねると、一つの背景が浮かび上がる。
べつのところで司馬は、この作品を生み出した横浜についてこう記している。海に抱かれた〈港〉という装置を背景にして広がるこの街の歴史こそ、三島が『午後の曳航』に造形した象徴的な物語の揺籃とみるのである。
司馬遼太郎にとって、人間の〈思想〉がもともと持つ自律的な運動によって仮想的な〈世界〉を構築することこそ、文芸の本来の役割があるのであって、文学における〈美〉もそれを現実の目的に直に応用することは否定されなければならない。それを〈行動〉と直接結びつけることで現実に働きかける陽明学的な世界像は、明らかに自身の文学観とは異質なものであった。
乃木希典の悲劇的な行動哲学はその延長線の上にあり、三島由紀夫の演劇的な自裁も、そのあいだにわたる〈詩的〉な跳躍の失敗だというのである。
三島は自裁の五カ月ほど前に書いた『果たし得ていない約束』という文章のなかで、この自律的な芸術至上主義の空間から離れていった動機を、自身の冷笑主義からの決別、と述べている。
この「昭和三十二年」という時点は、ちょうど『金閣寺』という芸術至上主義の傑作を書き上げた直後である。それから『午後の曳航』を書いた昭和三十八年にいたる時間は、三島が戦後社会を素材にして才気にあふれた小説や戯曲を次々に発表し、映画や演劇にめざましく活躍し、メディアの寵児となってゆく、いわば〈戦後〉という迷宮の中心を謳歌した時代である。
果たしてなにが、彼を「シニシズムとの闘い」に赴かせたのか。
「大人しい芸術至上主義者」を目覚めさせたきっかけは何だったのか。 そして彼がなりたかった〈英雄〉とは何だったのか。
三島が好んだ〈海〉という観念と、〈英雄〉の失墜という主題を交錯させて鮮やかに描いた『午後の曳航』のたくらみは、みずからが行動者となって〈英雄〉への道へ走り出す、その後の作家の大きな分岐点であったのかもしれない。
第一章 ダンヌンツィオに恋をして
毎年師走が近づくと、半世紀前の〈あの日〉の市ヶ谷台を包んでいた異様な熱気と興奮を思い起こす。
現場に到着した時、上空ではまだ取材ヘリの爆音が響いていたが、すでにことは終わっていた。バルコニーに立った三島由紀夫の最期の演説を聞いた自衛官たちは三々五々前庭から立ち去り、東部方面総監室の前の壁面に〈楯の会〉の檄文の幟が垂れ下がって、晩秋の午後の光を浴びている。屋内の禍亊が嘘のような、秋晴れの爽やかな日であった。
三島が戻った総監室で何が起き、どんな結末を迎えたかは、集まった自衛官やメディア関係者にすぐに伝わってきた。正午、憲法改正などへ〈蹶起〉を自衛隊員らに呼びかけてバルコニーでの演説を十分ほど行い、総監室へ戻った三島は「仕方がなかった」と独白したのち、〈楯の会〉の若者を従えて割腹自決を遂げた。隊員の森田必勝が介錯した。
駆け出しの記者で現場にいた私がその午後に指示されたのは、翌日朝刊向けにそこからほど近くに住む評論家、江藤淳を訪ねて談話をとり、ノーベル文学賞賞候補にもあがった戦後文壇の寵児の奇怪な自裁劇の意味を問うことであった。江藤は当時三十七歳である。米国留学から戻って『成熟と喪失』など、戦後文学への鋭利な批評が瞠目されていた頃である。
江藤の住むマンションは、三島が自裁した陸上自衛隊市ケ谷駐屯地から直線で数百メートルほどしか離れていない。事件から数時間しか経過していないのだから、〈乱〉の空気はまだ生々しくその場まで漂っているのだが、翳り始めた冬日が射し込む居室で、江藤はほとんど動じる気配もなく語り始めた。
〈三島さんが『仮面の告白』で華やかに登場した戦後の焼け跡の時代は、彼にとって居心地の悪い時代だったはずですが、それが『金閣寺』をはじめとする名作を生んだ。しかし、日本の復興と成長が進んだ一九六〇年ごろを境に彼は「美の極致」としての日本の復活へ向かって、にわかに行動家の道を走り出した。その究極が今日の事件です。なにがそうさせたのか。私は戦後の精神の空洞に耐えられなかった彼に同情することはできません‥‥〉
夕刻、メディア報道はますます高じて事件の火照りは続いた。江藤は淀みのない冷静な語りのなかで、三島由紀夫という四十五歳の作家が鍛え上げた肉体に隠していた、甘美な〈死〉への衝動を見通していたのか。
いまとなってみれば、何よりも奇態なのは「憲法改正による自衛隊の国軍化」や「天皇を中心にした日本の伝統文化を守る」という政治目標を掲げてクーデターを目指しながら、蹶起に失敗した三島と同志の切腹による自裁があらかじめ究極の目標のように分刻みで周到に計画されていたことである。
戦後二十五年を経た冷戦体制の下、高度成長の坂道を上る日本にあって、二・二六事件を小さくなぞったようなこのクーデター計画はそもそも荒唐無稽であり、現実の政治論としてはほとんどナンセンスにひとしい。これは自ら設えた「劇場」の舞台で割腹し、同志の青年の介錯で自決を完結させるという、作家が渇望した悲壮な〈自己犠牲〉の儀式こそが目的であったのなら、改憲や天皇の栄誉大権云々の政治的主張は、そのための舞台の書割に過ぎなかったのだろうか。
*
〈蹶起〉にいたるまでの五年間の三島の「助走」をたどってみる。
▼一九六五(昭和四〇)年 二・二六事件に取材した映画『憂国』を制作・主演。
▼一九六六(同四一)年 ガブリエレ・ダンヌンツィオ著『聖セバスチァンの殉教』を一年がかりで池田弘太郎と共訳、出版。『英霊の声』発表。
▼一九六七(昭和四二)年 「『道義的革命』の論理-磯部一等主計の遺稿について」。陸上自衛隊に体験入隊。民兵組織の試案作成。航空自衛隊百里基地でF一〇四戦闘機に試乗。
▼一九六八(昭和四三)年 大島渚と『ファシストか革命家か』で対談。「楯の会」正式結成を発表。「文化防衛論」。川端康成がノーベル文学賞を受賞。
▼一九六九(昭和四四)年 「北一輝諭 『日本改造法案大綱』を中心として」。五月十三日、東大教養学部で全共闘学生約千人と公開討論。
▼一九七〇(昭和四五)年 「果し得ていない約束-」で日本の将来について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と記す。その四か月後に自決。
二・二六事件にからんだ著述、自衛隊への体験入隊や私兵組織「楯の会」をめぐる動きが日増しに錯綜する。そのなかで際立っているのは、イタリアの詩人で劇作家のガブリエレ・ダンヌンツィオによる聖史劇『聖ゼバスチァンの殉教』の翻訳に傾けた、この時期の三島の激しい情熱である。
その高揚はどこからやってきたのか。
ローマ時代末期の殉教者、セバスチァンを描いたグイド・レーニの殉教図に、若い日から三島は強い憧れを寄せていた。20世紀にそれを舞台化して圧倒的な評判を得たダンヌンツィオの戯曲は、当時仏語版しか入手できず、三島は仏文学者の池田弘太郎の協力を仰いで、翻訳の共同作業に入る。
フランス語の基礎から始めて一九六六(昭和四一)年夏の翻訳の完成までの一年余りに及ぶ歳月は、何かが憑依したような興奮に包まれた時間であったという。池田の回想によれば、当初「三島は、まだ、十分にアポロン(理性的)であった」が、翻訳の完成後は日ならずしてそれがディオニューソス(激情)的な情念で満たされていった、と述べている。
三島はこの翻訳を通じて歴史のなかで聖化された殉教者の偶像を探っただけでなく、わが身を〈セバスチァン〉という歴史上のモデルと同一化させる自己愛の〈鏡〉をそこに見出し、あの演劇的な自裁の舞台装置を得たのであろう。
同じ年、この殉教伝説を描いたグイド・レーニの名画の中のセバスチァンに扮して、裸体に矢を受けて苦悶するおのが姿を細江英公の写真集『薔薇刑』や篠山紀信の写真で撮影させていることとも、それは符合する。
四年後の政治的な〈蹶起〉へ坂道を駆け上る作家に渦巻く、この鬱蒼としたエロスの衝動は、やがて深い歴史の痕跡となってあらわになる。
三島が訳した『聖セバスチァンの殉教』の作者、ダンヌンツィオは早熟な才能にめぐまれ、二〇世紀の初頭にかけて『快楽の子』や『死の勝利』など、華麗なレトリックの小説や詩で国民から高い人気を集めた。そのかたわら、第一次大戦期のファシズム運動の指導者として現実の戦争にもかかわり、イタリアの領土回復にヒロイックな役割を演じた。
自ら制服を身に着けて「司令官」を名乗り、組織した軍団を指揮してイタリアの未回収の領土であるフィウーメ、現クロアチア領のリエガを連合国から奪回、イタリア国民は英雄としてこの作家に喝采を送った。演説や政治手法などでのちの独裁者ムッソリーニにも大きな影響をあたえた、詩人にして軍人、また冒険的な飛行家としても知られた。
煌びやかな文体は華麗でデカダンスの香りが漂い、国粋的な政治家としての行動は奇抜で情動的であり、くわえて女性遍歴などスキャンダラスな私生活の褒貶に包まれたその経歴は、生きた時代と場所の違いを超えて、三島由紀夫との〈二卵性双生児〉を思わせる著しい親近性を、今日に伝えている。
自決へ向かう三島が憑かれたように翻訳に没頭したダンヌンツィオの『聖セバスチァンの殉教』の主人公、聖セバスチァンはローマ末期のキリスト教の殉教者で、三島の文学的な出発点と深くかかわっている。
セバスティアン、またセバスティアヌスは三世紀ごろのローマで、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害に抵抗して殉教し、のちに聖人に列せられた人物として、歴史に刻まれてきた。キリスト教の信奉を棄てないセバスティアヌスに帝は弓矢による死刑を命じ、射手たちは柱に縛られた彼に弓を放つが、それでも死には至らない。
そう歌ったセバスティアヌスは、皇帝に殴打されたあげくに殉死する。
三島は『聖セバスチァンの殉教』のあとがきにこう記した。
縛られた体に矢を受けたセバスティアヌスの裸像は、殉教した聖人の悲劇的伝説としてボッティチェッリやマンテーニャ、グイド・レーニ、エル・グレコ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、ギュスターブ・モローなど、古来多くの画家たちが図像化した。殉教者としてばかりでなく、矢を体に受けても死ぬことがないという寓意から、戦場へ向かう兵士やペストの流行、そして同性愛者の守護神としても欧州社会に受容されてきた。それはこの聖人が、歴史のなかで、今日まで演じてきた文化表徴と神話作用の広がりの大きさを示している。
*
ダンヌンツィオが聖史劇とうたう『聖セバスチァンの殉教』を書いたのは一九一一年である。それまでの放縦な生活で負った巨額の債務をかかえてフランスへ逃れ、そこで出会った作曲家のクロード・ドビュッシーと意気投合してできたのがこの音楽劇である。初演でユダヤ系の女優のイダ・ルビンシュタインが演じたセバスティアヌスは、その両性具有的な演技が喝采を浴びたが、涜神的と批判するカトリック勢力は激しく反発し、パリ大司教はこの作品の観劇を禁止する。二〇世紀の歴史の文脈に置いてみても、この作品は異教的なスキャンダルの渦中に置かれて、〈セバスチァン〉像は賛美と偏見のなかを生き延びてきた。
〈セバスティアン・シンドローム〉の波は二〇世紀の極東日本にも押し寄せる。三島が〈セバスティアン〉と出会うのも、少年のころ自宅にあった西洋画集でグイド・レーニの『聖セバスティアンの殉教』を見たときだった。
初期の小説の『仮面の告白』は三島が少年期に同性愛への傾斜を強く意識して、その〈ヰタ・セクスアリス〉(性的来歴)を告白した出世作として知られる。とりわけよく知られているのは、十三歳の主人公の少年が自宅で画集を眺めているうちに、矢の刺さった殉教者セバスティアンの裸像を描いたレーニの作品を見る場面である。
十三歳の主人公が父親の外国土産で持ち帰った画集を繰っているうちに、グイド・レーニの絵画『聖セバスチィアンの殉教』に遭遇し、逞しい裸体に矢を放たれた青年が苦痛と歓喜に任せる画面の姿に激しい性的興奮を覚えて、初めて自涜を経験する。それは三島自身の経験でもある。
レーニの〈セバスティアン〉像は、いわば若い三島由紀夫の性的アイデンティティーについての戸籍謄本にほかならない。のちに四十五歳でいかにも演劇的な自裁を遂げるこの作家は、今度は自らの死の儀式の「台本」として、ガブリエレ・ダンヌンツィオが同じ題材で書き上げ、三島自身が憑かれたように翻訳した聖史劇『聖セバスチァンの殉教』を選んだのである。
〈セバスティアン〉像を通してこれほど深く作家に刻印されていたダンヌンツィオの名前は、それまでの三島の夥しい戦後の著作や論述のなかで、なぜか慎重に避けられてきた。「ファシスト詩人」という禁忌がダンヌンツィオの名を戦後の三島から遠ざけたとしても、これは謎というほかはない。けれども、自ら「悲劇」を演出することで四十五歳の生涯を閉じた鬼才の文学的な起点と終点に〈セバスティアン〉という殉教者の苦痛と歓喜に彩られた肖像があったことの意味は、決して小さくはない。
ダンヌンツィオは、日本の近代文学の歴史のなかでも多くの作家たちによって早くから紹介され、参照されてきた。森鴎外が翻訳した戯曲『春曙夢』と『秋夕夢』は、この作家の名前を日本に伝える先駆けであった。
上田敏は西欧の近代詩を選りすぐって翻訳、集成した詩集『海潮音』の冒頭に、ダンヌンツィオの『燕の歌』などの二編を掲げた。
燕が運んでくる早春の喜びが、文語体のゆかしい香りをとどめた日本語の定型の韻律を通して伝わる名訳で、これをきっかけにイタリアの愛国詩人の名はこの国でも広く知られるようになった。
夏目漱石は『それから』のなかでダンヌンツィオに触れている。
主人公の代助と友人の平岡、そしてその妻で資産家の娘の三千代が織りなす、二〇世紀初めの日本の「高等遊民」の三角関係を主題にしたこの小説のなかで、漱石はダンヌンツィオの「青い部屋」と「赤い部屋」という精神の棲み分けについて、主人公に語らせている。不安な近代人のこころの揺らぎを探った比喩として、この詩人の思想に言及している。
漱石の弟子の森田草平もダンヌンツィオの『死の勝利』に影響されて懐疑思想の虜になった。「新しい女」と呼ばれた女性解放運動家の平塚らいてう(明子)と情死行を企てて失敗、その顛末を小説『煤煙』に描いたが、そこでもダンヌンツィオの作品からの顕著な影響が指摘されてきた。
華麗な文藻の詩人にして演出家、そしてファシストの軍人という多彩な顔を持ったダンヌンツィオの名前と作品は、世紀末のデカダンスと浪漫的なあこがれを伴って、日本でも多くの作家や読者に迎えられていたのである。
〈英雄的詩人〉としてのダンヌンツィオの名前を求めて、イタリアへ渡ってその下で従軍したという日本人がいる。
ダンテの研究者の上田敏の影響を受けてイタリアへ留学した作家で詩人の下位春吉は、ナポリ東洋大学に学ぶかたわら日伊文化交流にもかかわった。イタリア人に柔道を通して〈サムライ精神〉を広め、のちにイタリア軍に外国人義勇兵として入隊した。
ダンヌンツィオが〈司令官〉を名乗って、アドリア海に面した海港都市フィウーメの奪回に〈蹶起〉すると、下井は義勇軍の一員として現地に入り、この耽美詩人にしてファシストの司令官のもとで蹶起部隊に加わったといわれる。そのころの日本の新聞には「続いて私もフューメ決死隊に入って一番乱暴な中隊で知られた第一小隊第一分隊ダヌンツィオ軍曹の率いる一番初めの隊となった」などという下位の手記が散見される。
帰国後のこのような武勇伝がどこまで真実かはわからないが、ムッソリーニとも親密な関係を持ち、ファシズムの礼賛者となって枢軸同盟国となるイタリアとの往来を重ねてた人物として、その名前が残されている。
第一次大戦中に志願して航空兵となり、事故で片目の視力を失っているダンヌンツィオは飛行マニアでもあった。
一九一八年八月には戦闘機中隊を率いてローマとウィーンの間七百マイルの往復飛行を行い、プロパガンダ用のビラをまいた。それは「詩の爆弾」と呼ばれた。イタリアのニッティ政権はダンヌンツィオを使ってローマ―東京間の飛行計画を企画し、下位はその協力者となった。フィウーメの占領と重なり、当初飛行に参加を予定していたダンヌンツィオ自身はこの飛行から外れたが、それは一九二〇(大正九)年五月、イタリア陸軍航空隊のアルトゥーロ・フェラリンら四人によって実現した。
約三か月半をかけて欧州、中東、アジア各地を飛行しながら転々と着発を繰り返して、五月三十一日にようやく二機の複葉機アルサンドが東京・代々木練兵場に着陸した。待ち受けた首相の原敬はじめとする政府要人や、集まった群衆から歓声が一斉にわきおこった。
*
ダンヌンツィオは第一次世界大戦が終結した一九一九年九月、イタリア軍から離脱した百八十六人の反乱兵を率いてクロアチアの海港都市、フィウーメへ進軍した。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の一部でイタリア領であったこの都市の帰趨について、パリに戦勝国の首脳が集まり、第一次大戦後の処理を協議するさなかであった。
現在クロアチア領のリエカと呼ばれるこの町は、アドリア海に臨んだ風光明媚な港町で、もともとイタリア系の住民が多いことから、第一次大戦への参戦に際してイタリアはフィウーメの割譲を条件に求めた。
しかし、大戦終結のあとで米国の大統領ウィルソンが民族自決を楯にこれに反対、クロアチアはセルビア人を中心とした「ユーゴスラヴィア王国」への帰属を選び、フィウーメは連合国軍の管理下におかれた。抗争はそこから生まれた。
九月十一日朝、ダンヌンツィオは軍服姿でヴェネツィアの住まいを出発し、フィウーメ奪回へ〈蹶起〉に旅立った。若い恋人のピアニスト、ルイーザ・バッカラにあてて「昨日は熱が三十九度もあった。今朝は下がった。だが出発する。さようなら」と手紙を書いた。ファシスト党のベニート・ムッソリーニにあてては「我々の大義を精力的に支援せよ」と書き置いた。
著名な詩人とはいえ、すでに軍務を離れたいわば退役の民兵が司令官を名乗って、部隊を率いて進軍する。古い軍装の胸には勲章をつけた司令官は、途中のメストレで真赤なフィアットのオープンカーに乗りかえた。
連合国の正規軍が道を開け、反乱兵が道々この進軍に加わっていった。フィウーメの町が近づくと、ダンヌンツィオは装甲車の上に立った。
「フィウーメか死か!」という連呼が、行進する部隊とそれを取り囲んだ群衆の双方から沸き上がった。装甲車やトラックの隊列が町の中に入り、家々から出迎えた女性と子供たちが月桂樹の枝を振り回して、熱狂は極まっていった。
イタリア軍で構成された連合国軍は「ダンヌンツィオを阻止し、必要なら殺害せよ」と指令していたが、正規軍から兵士が次々と加わり、フィウーメに到着するころには反乱軍は二千人ほどに膨れ上がっていたといわれる。
「フィウーメか死か!」
こういう紋切り型の殺し文句はファシストの常套手段ではあったが、民衆は熱狂した。フィウーメに入城したダンヌンツィオは〈英雄〉であった。
司令官邸にあてられたハンガリア知事公邸のバルコニーに立った軍服姿のダンヌンツィオは、集まった群衆を前に連日のように演説した。それは軍装姿の三島由紀夫が民兵組織の「楯の会」のメンバーを率いて東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーに立ち、集まった自衛官を前に演説した一九七〇年十一月二十五日の光景に一見、おそろしく似かよっていたはずである。ただし、三島の前に集まった自衛官らは、熱狂の代わりに不満と非難で対峙したのが大きな違いではあったが―。
「今こそは美の始まるときである」
「戦争によって疲弊し、くすんだ世界全体が幻惑されるような国家を創造しつつある」
「フィウーメは惨めさの海の真ん中に輝く燈台である」
ダンヌンツィオの演説が伝える言葉は、ひとつひとつが〈詩的 〉であって、それが人々を熱狂へ誘った。
バルコニーに立ったダンヌンツィオの言葉のように、反乱軍の占領下に置かれたフィウーメはそれからほぼ十五か月の間、社会主義者やファシストはもちろん、インドやエジプトの民族主義者たち、さらには内外の麻薬密売人や売春婦がゆきかう、無政府状態の逸楽の都市となった。
ダンヌンツィオは小柄で風采の上がらぬ外見であったが、群衆を前にしたバルコニーからの演説は人々を陶然とさせた。つながりの深かった独裁者ムッソリーニが、ローマのヴェネツィア宮殿のバルコニーから群衆に向けて演説するのを好むようになったのは、この「フィウーメ進軍」を指揮した奇矯な詩人、ガブリエレ・ダンヌンツィオの演説の摸倣ともいわれている。
十三歳の時、グイド・レーニの『聖セバスティアンの殉教』の殉教図を見て自らを穢した少年、平岡公威が四十一歳になって突然、憑かれたようにダンヌンツィオが書いたその戯曲の翻訳に没頭した。その四年後、華麗な「楯の会」の制服制帽をまとった彼は東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーに立ち、自衛官たちを前に〈蹶起〉を呼びかけた。
卓越した愛国詩人であり、救国の軍人ファシスト、名パイロットであり、頽廃的なスキャンダルが絶えない作家―。そんな伝説につつまれたこの人物が描く霊験劇『聖セバスティアンの殉教』は、三島が生涯にわたって抱き続けた〈殉教〉のテクストであり、その作者のダンヌンツィオは愛国的な〈英雄〉の範型だったのではないか。
その肖似性を指摘したのは作家の筒井康隆である。
『ダンヌンツィオに夢中』のなかで、三島由紀夫が戦後長らく〈ダンヌンツィオ〉の名を封印してきた理由を、筒井はそう推測する。
自裁の四年前に驚くべき情熱を傾けて翻訳したダンヌンツィオの『聖セバスティアンの殉教』のあとがきでも、三島は著者のダンヌンツィオの名前には意識的と思える慎重さで、ほとんど触れていない。
しかし、そこでは実在したかどうかもわからないこの殉教者の物語が〈神話〉として現代にまで生き続けた理由について、彼は宗教史家のM・エリアーデの『永遠回帰の神話』を引用して読み解いている。
異教的な古代世界を代表する皇帝と、キリスト教的新世界を代表するセバスティアンが対決するなかで、彼の異教的な美しさに次々と矢が撃ち込まれてその肉体はは滅びてゆく。
一九七〇年十一月二十五日正午すぎ、私兵部隊の「楯の会」の若者とともに闖入した東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部でバルコニーに立ち、自衛隊員へクーデターへの蹶起を呼びかけた挙句に果たさず自裁する三島の姿は、一九一九年九月十二日未明にかのダンヌンツィオが反乱部隊とともにフィウーメへ入城し、司令部のハンガリア知事公舎のバルコニーから熱狂する群衆に向って「フィウーメか死か!」と演説した情景とほとんど二重写しになる。
歴史が映し出す場面には、現実が知らぬうちに過去を模倣することがないわけではない。それとも彼らが〈蹶起〉した市ヶ谷のバルコニーは、エリアーデのいう〈神話〉に導かれた三島由紀夫が、半世紀前のフィウーメのダンヌンツィオをそのままに摸倣して演出した、周到な演劇的空間であったのであろうか―。
第二章 「太宰さんの文学は嫌いです」
終戦の年の夏、二十歳の三島が書いた短編小説『岬にての物語』では、十一歳の彼が家族とともに避暑に出かけた外房の鵜原の海岸を舞台に選んで、白日夢のような奇譚が語られる。
母と妹と書生とともに避暑で訪れた房総の海辺で、十一歳の主人公の少年は散策の途中、別荘の廃屋から美しいオルガンの旋律が流れてくるのを聞く。誘われるように中へ入ると、ひとりの青年と美しい少女に出会い、かくれんぼをして遊ぶうちに、突然鳥の鳴き声のような悲鳴を聞いた。若い男女はそのまま姿を消してしまい、少年は夏花が咲き乱れる岬に一人残される。人が決して伝えることのできない一つの決定的な秘密をかかえて、夢想から目覚めたように彼は日常に戻ってゆく‥‥。
兄妹を思わせる若い男女が緩やかに情死へ導かれる気配と、そこに偶々立ち会った十一歳の少年の物語は幻想とデカダンスに彩られている。そのモチーフから人物の設定や展開、そしてアラベスクに織り込まれた華麗な文体まで、多くをダンヌンツィオの『死の勝利』に導かれて書かれた作品といわれている。
二十歳だった作家は、日本が戦争に敗れて天皇の玉音放送が流れた一九四五年八月十五日を挟んで、この全く時局とかけ離れた浪漫的な短編小説を書いた。そして、原稿の途中の欄外には「昭和二十年八月十五日戦ひ終わる」との注記をしたためた。「八紘一宇」も「玉砕」も、すべては遠い海のかなたの蜃気楼のように映るだけの反時代的な空間を設えて、二十歳の三島由紀夫はこれを造形したのである。
前年の徴兵検査で第二乙種合格となった平岡公威こと三島由紀夫は、この年の二月に恐れていた赤紙、つまり軍隊への召集通知を受け取った。遺髪と遺爪、そして遺言状では父母、恩師と友人、弟妹に別れを告げ、末尾に「天皇陛下万歳」と認めた。しかし、本籍地の兵庫県富合村で入隊検査を受けたところ、担当軍医から右肺浸潤の診断があって即日帰郷となり、兵役を免れた。
この即日帰郷の経緯については、後年農務官僚だった父、梓が旧知の軍医に頼んで図った差配をほのめかしている。仮病によって徴兵忌避が認められたというのだ。
『私の遍歴時代』で三島はこう振り返っている。
のちに三島は「一億玉砕は必至のような気がして、一作一作を遺作のつもりで書いていた」と記している。けれども、同世代の多くが徴兵や動員で大陸や南方の戦線に送られて死線をさまよい、国家の命運とともに歩んで八月十五日を迎えたのと比べれば、勤労動員先である神奈川県高座の海軍工廠に寄宿しながら、幻想にあふれた耽美小説を書き続けることのできた二十歳にとって〈終戦〉は、ほとんどかなたの蜃気楼を見るような経験であったに違いない。
後年『八月二十一日のアリバイ』という文章の中で、三島は自らの〈敗戦〉の体験を振り返って、多くの同世代が祖国に抱いた巨大な価値の喪失や裏切りの感情とは無縁であったことを率直に吐露している。
同世代の政治学者で、三島が深く信頼した橋川文三の言及がある。
徴兵されて実際の戦闘にかかわり、死地をさまよった同世代とは異なり、〈戦争〉を観念として体験しながらかかわることなく敗戦を迎えた三島や橋川にとって、それがある種の「秘宴」であったとしても不思議はない。神奈川県高座の学徒動員先で迎えた敗戦は、三島を日常へ呼び戻し、「躍り上がって詞藻の再興に邁進する知的エリートへの軽蔑と嫌悪」を呼び起こす。つまり三島は「恩寵としての戦争」にあこがれ、遅れた世代だったのである。
*
日米開戦の前年、学習院中等科に通う十五歳の三島が書いた「凶ごと」と題する詩である。「夕な夕な、窓に立って椿事を待った」という詞藻の通り、彼はかかえた戦時下の終末感という音楽に身を浸して、観念的な戦争の彼方の「死」に寄り添いながら、〈八月十五日〉を迎えたのである。
一九七〇年十一月二十五日、四十五歳の三島が陸上自衛隊市谷駐屯地で自決した日の午後、現場近くの市ケ谷の自宅で江藤淳が冷静に分析したように、三島にとって〈戦後〉は当然、甚だ居心地の悪いものであった。
しかし、『仮面の告白』(一九四九年)で自らの性的来歴の秘密を告白したのと平仄を合わせて、彼は〈戦後〉という新しい現実に身の丈を合わせるようにして自らの文学を着々と構築してゆくことになる。
それはどんな時代であったのか。累々たる死者が眠る焦土と化したこの国には、占領軍とその頭目のダグラス・マッカーサーという新しい支配者が君臨し、かつての社会の仕組みはことごとく崩れてゆく。家産や係累を失った人々が、焼け跡に立った闇市にあふれる日本の戦後社会が、ニヒリズムとリアリズムに覆われていくのは必然であった。その空気をいち早く作品化して喝采を浴びたのが、〈無頼派〉と呼ばれた太宰治と坂口安吾であった。
安吾がこう記したのは一九四六年、終戦の翌年である。
一方、太宰は『トカトントン』で八月十五日の玉音放送を聞いたあとの虚脱と放心を描いている。その日、小学校の校庭で天皇の終戦の詔勅を聞いて「徹底抗戦のあと自決する」という配属将校の言葉に落涙し、ともに死のうと思った地方の郵便局員の一青年が、突然校庭の背後から〈トカトントン〉というのどかな普請の音が響いてくるのを聞いて、すべてから解き放たれるという話である。
ラジオから玉音が流れる厳粛なその時であっても、兵舎の普請は予定通り行われて、日常という時間は何事もないようにすすんでゆくのである。
世代的にこの「無頼派」の作家たちよりも一回り以上年下の三島が経験した「敗戦」が、虚脱や幻滅とも異なるある種の非現実感に包まれていたとしても、それは不思議ではない。彼にとって戦争は彼方で燃え盛る「椿事」であったからだ。
敗戦から二年後の一九四七(昭和二二)年に東大法学部を卒業、高等文官試験に合格して大蔵省銀行局に勤務する三島は前年の冬、太宰治と対面して言葉を交わしている。
一九四六年十二月十四日、場所は東京・練馬豊玉の学生下宿の二階である。よく知られる挿話だが、若い三島と太宰とのただ一度の対面である。その場面がどんなものだったか。同席した野原一夫の『回想 太宰治』と三島の『私の遍歴時代』『会計日記』から再現する。
府立五中時代の文学仲間が当時の人気作家の太宰に会いたいというので、旧知の野原が友人の出英利の下宿に場所を設けて三鷹の家から太宰を案内した。中野駅からバスで十数分、畑と雑木林に囲まれた家の二階のさほど広くない部屋に酒肴が準備され、七、八人の若い文学青年が集まっていた。矢代静一、中村稔、出英利らがいた。
その一人であった三島が抱いた太宰の印象を、まず記しておこう。
上座には太宰と亀井勝一郎、青年たちはそのまわりを取り囲んでいる。
太宰は機嫌よく軽口をたたきながら酒を飲み、紹介された三島はその前に招じ入れられて盃をもらった。「場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合い、またすぐ次の啓示を待つという雰囲気のように感じられた」と三島は記している。
その「甘ったれた空気」を裂くように、太宰の面前で三島は言った。
「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」
一瞬座が白けて、少しの間沈黙があった。
「きらいなら、来なければいいじゃねえか」
太宰は顔を隣の亀井のほうへ向けて、吐き捨てるようにいった。三島によれば、そのあと太宰はすこし体を崩して誰に言うともなく付け加えた。
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
この挿話は戦後文壇史のひとこまとして、すでに伝説となっている。しかし、ここでは「椿事」を待ち望みながら徴兵忌避者のように現実の戦争を潜り抜け、居心地の悪い〈戦後〉の混沌に置かれた三島由紀夫が年長の〈無頼派〉の作家にあてつけた、婉曲な同時代批判を読み取るべきではなかろうか。三島は戦後の青年たちを熱狂させたこの作家についてこう記している。
「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を底に温めながら、戦後という虚無の時代の空気に抗いつ戯れるごとく生きて、あげくに愛人の女性と心中する。そんな人気作家の甘えた自意識は、どこかで三島自身が隠し持つそれと底を通じているゆえに、許せないのである。
『斜陽』で戦後没落した旧華族の未亡人の言葉遣いが、およそかけはなれていると批判し、「女と心中するような男はもっと厳粛な顔をしていなくてはならない」と、その風貌にも三島は嫌悪を隠さなかった。
*
一九四八年の九月、九か月ほど勤務した大蔵省を退職して、作家として独立する。古典主義に寄り添い、太宰のように小説の中で直截に自己を語らうことを頑なに避けてきたこの作家は、皮肉であるがその翌年七月に刊行される『仮面の告白』で自らの〈ヰタ・セクスアリス〉を虚構に仕上げて、ベストセラーになった。河出書房の編集者の坂本一亀からの依頼で書き下した長編小説であり、その自伝的な自己暴露が話題性を高めたことは疑えない。
そこでは「汚穢屋」と呼ばれる清掃労働者の青年の屈強な躰に強いあこがれを抱き、画集の『聖セバスチァンの殉教』の矢の刺さった裸体画に性的興奮を覚えて初めて自涜する少年期の経験を描いて、自らの同性愛への傾斜があからさまに語られる。初めての異性の恋人との交渉を成し遂げることができない主人公の不如意な青春が、戦争末期の忍び寄る「椿事」の幻影を背景に浮き彫りにされてゆくのである。
LBGT(性的少数者)の権利擁護などで同性愛への偏見が和らいだ今日と較べてみれば、当時のこの青年作家の〈告白〉はそれだけで十分にスキャンダラスであったに違いない。
といっても、これは作者の生い立ちと性的履歴をただなぞった自伝的告白というのではない。それは芸術家がまとった〈仮面〉と〈素顔〉との間に横たわる逆説それ自体が主題として描かれるのであって、同じ戦時下から戦後への転換期を背景にして、太宰治が描いた私小説的なデカダンスや自己韜晦の世界とは彼我の落差がある。作中の主人公の「成長」を通して時代精神への飛躍を予感させる作品ということもできる。
『仮面の告白』は三島にとっては居心地の悪い、仮住まいのような〈戦後〉という時代にあって、作家としての〈離陸〉をもたらした作品である。そして、その後の『青の時代』(一九五〇年)『金閣寺』(一九五六年)『絹と明察』(一九六四年)などの主だった小説が、いずれも戦後の日本に起きた現実の社会的事件に取材した作品であったことは、三島と「戦後」という自らの居場所のない時代との〈和解〉を意味した。
近代日本文学の精粋と呼ぶべき『金閣寺』は一九五〇(昭和二五)年七月に起きた青年僧による金閣寺の放火炎上に主題にした。
また『青の時代』は一九四九(昭和二四)年に闇金融会社「光クラブ」が破綻して経営する東大生が自殺した事件を題材にしている。
近江絹糸の労働争議をめぐって父性と日本型経営のかかわりを問いかけた『絹と明察』、さらに東京都知事選に立候補した政治家と著名な料亭の女主人の入り組んだ愛を描いて、日本初のプライバシー裁判に発展した『宴のあと』など、戦後の三島は現実に起きた同時代の社会的な事件に取材した作品で、次々に成功をおさめた。
それはあの「居心地の悪い戦後」を反転させて、自らの文学的主題にした、裏返しの成功を意味する。
戦前から戦中にかけて、浪漫的な幻想譚を書き続けてきた三島が、戦後一転してこうした現実の出来事に依った作品を次々に発表していったのは、〈椿事〉を待ち続ける現実から抜け出して、戦後の混沌のなかに生身を浸してみる覚悟と自信が生まれたからであろう。それは三島の社会的な〈成長〉であるとともに、『仮面の告白』のナイーブな世界から脱皮して、肉体的にも社会的にも自らを新しい存在へ〈武装〉することを意味した。
この間の三島の「自己改造」について、江藤淳は後年こう述べている。
日本人は敗戦の焼け跡の痛みと虚脱からようやく立ち上がり、崩壊と混沌のなかから新しい秩序を探りはじめていた。
朝鮮戦争特需によって奇跡的な経済復興の軌道にのった日本は、GHQの占領体制から解かれて独立を回復すると自立の手がかりをつかみ、〈戦後〉の経済成長への坂道を上りはじめる。一九五六(昭和三一)年の経済白書が「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズを掲げて復興経済からの離陸を宣言したのを、三島はどのように受けとめたのだろうか。
彼にとって、それまで親しんできた祖国とは全く異なった未知の〈日本〉が、目の前に広がり始めていた。美の基準の喪失、倫理のない欲望の追求と破綻、伝統的な権威の崩壊など、それぞれの作品に描かれた風景は、三島自身の肉体と精神に、大きな「自己改造」を促してゆくことになる。
*
居心地の悪い〈戦後〉の泥濘のなかから三島が抜け出て、新しい精神と肉体へ「自己改造」を遂げてゆくきっかけの一つが、一九五一(昭和二六)年暮れから約半年近くにわたって米国やブラジルなど南米、そしてフランスからギリシャ、イタリアなど、世界各地を巡る初めての海外への旅であった。
それは彼が温めてきた西洋文明へのあこがれを実地に確かめる初めての美的体験であるとともに、外から〈日本〉という「祖国(パトリ)」を見つめ直す初めての経験であり、自意識で武装してきた三島自身を社会的に解き放つことにもつながっていったに違いない。
十二月二十五日に横浜を出港したプレジデント・ウィルソン号は、ハワイへ向かっている。船客となった二十六歳の三島は、時化が明けてようやく青空が広がった太平洋上で甲板のデッキに身を横たえ、裸の上半身に陽光を浴びた。
ホノルルからサンフランシスコへ向かう船上で彼がまず出会うのは、米国という巨大な影の下でいくさに窶れた「祖国」の遣る瀬無い面影である。
四十年前に仙台からカリフォルニアに移民したという、六十歳近い日本人女性は、ロサンゼルスでホテルを経営する成功者である。「これが最後になる」と思しい四度目の祖国への旅で四国や九州、故郷の東北を巡って米国への帰途にある。
日米開戦時に即日抑留された折、監房の誰もが米本土まで攻め上ってこない日本軍に無念を抱き。「その時は喜んで日本軍の砲弾の犠牲になったのに」と、彼女は若い三島に吐露した。
サンフランシスコでは、日系人の経営する粗末な日本旅館に泊まった。
あらゆる民族がその土地に彼らの民族的風習を持ち込むのだが、戦にやぶれた日本人は戦勝国の都市の片隅で「陋習」という存在に復讐され、刑罰をかされている、と三島はいうのである。
ニューヨークでは「サロメ」や「ジャンニ・スキッキ」などのオペラを見物し、「欲望という名の電車」や「羅生門」などの映画と「南太平洋」などのミュージカルを次々に見た。エンパイアステートビルを観光し、米国人の編集者や演出家と会って意見を交わし、ハーレムの黒人酒場にも足を運んだ。その印象を「五百年後の東京のようなもの」と記している。
美術作品ではスペイン内戦時代に描かれて、二〇世紀最大の「政治的絵画」となったピカソの『ゲルニカ』についての言及がある。戦時下に反戦と平和の祈り図像として、フランコ独裁体制のスペインから鳴り物入りでMoMA(ニューヨーク近代美術館)に移管されて展示されていた作品である。
ファシズムや独裁に対する抵抗と平和と人道の象徴として、二〇世紀の国際政治の争点になっていたこの作品に対して、三島の視線がもっぱらゲルニカ空爆に逃げ惑う母子の生理的な〈苦痛〉に向かっているのが、特異な印象をもたらす。戦争や人道といった絵画の抽象的主題を超えて、人間の生死が伴う〈苦痛〉をもっぱら画面から読み解く三島の心理はどこから来るのか。ついでに触れるなら、祖国広島・長崎の原爆投下の惨禍について、彼が生涯にわたってほとんど論じていないのも腑に落ちない。〈戦争〉が彼方にあって、現実感を伴わない戦争体験が、そこにのぞいている。
とはいえ、敗戦の傷跡があちこちに広がる祖国を後にして初めて訪れた戦勝国の米国は、冷戦期の世界を主導する大国へ歩んでいる。その光彩陸離とした活気を二十七歳の三島はのびのびと楽しんだ。
米国のあとに訪れたブラジルのリオジャネイロでは、荘子の〈胡蝶の夢〉のような不思議な変身譚を経験した。日曜の朝、ホテルから一人散歩に出たリオの街を歩くうちに、人通りの少ない住宅街で突然「一度たしかに自分はここにいて、ここを見たことがある」という、夢の中の記憶のようなものに襲われるのである。そこで語られる荘子の胡蝶への変身、邯鄲の夢と輪廻の感覚は、三島がのちに最後の長編小説『豊饒の海』の骨格を形作る〈転生〉の主題とも重なってゆく。そのことを考えるとまことに興味深い経験だが、いまここでそれには触れまい。
この旅で三島が得たもっとも大きな経験は、やはりそのあとの欧州、とりわけローマとギリシャで巡りあてた美術作品との出会いであろう。
ローマのホテルに近くボルゲーゼ美術館ではティツィアーノの名作『聖愛と俗愛』についての言及がある。「肉体と精神、誘惑と拒否、このワグネル的な永遠の主題が、いかに明朗に、いかに翳りなく描かれていることか」という解説は、華やかな画面をとらえて知的で的確である。しかし、背景の入り江や城館、足元の花々についての細やかな指摘に比べて、幼子を挟んだモデルの着衣と裸体の女性については全く触れていない。
これに対し、パルテノン神殿などのギリシャの古代建築やアンティノウスなどの青年像については、ほとんど熱を帯びた記述が躍っている。
三島がもっとも深く美的関心を注いだのはパルテノンやアポロ神殿などギリシャの古代建築の廃墟と、ローマのヴァチカン美術館にあるアンティノウスの胸像などの古代美術であった。システィーナ礼拝堂のレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』などルネサンス美術は一通り見ただけで、これらの古代建築と美術をもっぱら目的に選んで通い詰めている。
ゼウスの宮居の十五本の石柱が十三基と二基という不均衡の配置で碧空の下に屹立している眺めを、三島は「非左右相称の美の限りを尽くしいる」と手放しで賛美し「龍安寺の石庭の配置」を重ねてみる。キリスト教の秩序が形成される以前にあった汎神論的世界に三島が寄せる、精神と肉体の未分化な古代的人間へのあこがれが、そこに投影されているのである。
近代人がまとった過剰な精神性を遠ざけて、健康な肉体を持った古代的人間が営む劇的な空間こそ、三島が思い描くユートピアだった。それを目の当たりにした感動が、『アポロの杯』にはほとんど手放しで綴られていく。それは場所をローマに移したのちも変わらない。そして、ローマのパラッツォ・コンセルヴァトーリでは彼が少年時に出会ったあの運命的な一点、グイド・レーニの『聖セバスチァンの殉教』に対面するのである。
ローマの三島がこのレーニの『聖セバスチァンの殉教』に加えて熱いまなざしを寄せたのは、ヴァチカン美術館で見たアンティノウスの彫像である。ローマ皇帝ハドリアヌスに仕えてエジプトを旅行中に謎の死を遂げたという、皇帝寵愛の美少年の立像と胸像に惹かれて、三島は滞在中に繰り返しその作品を見に訪れたばかりか、未完に終わったが、帰国早々にアンティノウスを主人公にした小戯曲「鷲ノ座」を書いた。
「今日も恍惚としながら私の思うことは、希臘と羅馬とのこの二週間、これほど絶え間のない恍惚の連続感が、一生のうちに二度と訪れるであろうかということである」。そう記したこの日々が、二十七歳の三島由紀夫のその後の世界に決定的な影響をもたらしたであろうことは疑えない。
グイド・レーニの『聖セバスチァンの殉教』と『アンティノウス』の彫像との対面は、この旅で三島が自身のアイデンティティーを確かめたうえで作家としての歩みを進めるための根源的な経験であったようである。
それは作品の造形に由来する芸術的な経験という以上に、その主題の来歴にさかのぼって自身の精神と肉体を対峙させた生命的な〈対話〉であった。
ローマのディオクレティアヌス帝の下で密かにキリスト教を信仰していたがゆえに弓矢による死刑に処せられ、からくも永らえてのちにさらにむち打ちで殉教した「聖セバスチァン」。
ローマ皇帝ハドリアヌスの寵愛を受けながら、随行先のエジプトのナイル川で謎の溺死を遂げたアンティノウス。
いずれも情けを受けた主君に背くことによって、自らの命を犠牲にしてゆく若者の物語である。「エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である」というフランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユの言葉をここに重ねてみれば、自ら「犠牲」の道を選んだ古代ローマの若者の運命の先には、割腹自殺という「自己犠牲」によって滾らせたエロティシズムの極みを達成したいと願い、そして果てた三島自身の最期が、ゆくりなく投影されているようでもある。
一九五二年五月七日、旅の終わりに再びヴァチカンのアンティノウスの胸像の前に立った彼は、こう記した。
かくして三島は、居心地の悪い〈戦後〉の泥濘から抜け出した。
第三章 アルカディアは何処に
初めての「洋行」で巡った欧州の経験の最初の具体的な結晶が、二年後の一九五四(昭和二九)年に発表した小説『潮騒』である。
作家が遺したおびただしい作品群のなかでも、『潮騒』の特異性は際立っている。もちろんこの純愛小説は、流行作家になって活動の幅を広げてゆく三島がエンターテインメントとしての作品の画期をなし、それがベストセラーとなって繰り返し映画化されるなど、同時代の若者の恋愛劇の定番となった作品であることは改めるまでもない。しかし、戦後日本の社会的な事件や風俗を素材にして人間の暗部やアイロニーを描いてきた作家は、一転して鄙びた漁村に生きる若い男女の明澄な恋物語を造形した。この作品の抽象性、言い換えれば無国籍性は作家の「洋行」の成果であり、それが〈戦後〉という新たな秩序の彼方にある〈楽園〉の夢想へとたくらみを広げたのである。
「歌島は人口千四百、周囲一里に満たない小島である」という書き出しで始まるこの小説の舞台は、三重県の伊勢湾に浮かぶ神島で、漁村に暮らす十八歳の漁師の新治と海女の初枝が出会い、大人たちや周囲のまなざしに向き合いながら純愛を育てて結ばれてゆく。途中で二人の愛が遭遇する小さな妨げは、むしろ物語の純度を高める美しい音楽のような効果をもたらしている。
伊良子水道に臨んだ、「綿津見命」の祭神を抱く鄙びた小島である。漁労で暮らしをひさぐ人々は素朴で、厳しい自然に寄り添った日々は荒々しくはあっても、結ばれた絆と地縁を通して穏やかに移ろってゆく。
三島がこの島を小説の舞台に選んだのは、二年前のギリシャを旅した経験から、帰国したのちにその神話的な背景と海に臨んだ立地を国内各地に探し求めた結果であった。紀元前に書かれたギリシャの小説『ダフニスとクロエ』にその原型を求めた物語はあらかじめ構想した通りで、帰国後から入念に取材を重ねた形跡がある。
「レスボスの島にある都の、ミュティレーネーというのは、栄えて美しい町である」(『ダフニスとクロエ』呉茂一訳)という冒頭の書き出しを比べて見ても、『潮騒』がその文体まで含めて古代ギリシャの古典小説の「本歌取り」であることは三島自身が解説していて明白である。
『ダフニスとクロエ』の若い恋人は羊飼いの若者と山羊番の少女である。その恋は小さな障害や不運に見舞われるが、これらを乗り越えて二人は純愛を貫き、祝福を受けて結ばれる。戦後日本の紀伊半島に接した小島を舞台にした『潮騒』という、明らかにこの古典の「本歌取り」の小説をこの時点で三島が書いた背景にはもちろん、直接には二年前のギリシャ・ローマへの旅の体験がかかわっている。
旅先で三島が確かな人間の姿として認めた〈古代的人間〉、あの「精神」などを必要としない、希臘人の誇らしい生命の躍動を、この戦後日本という風土に置き換えてみようという大胆な意図があったのだろう。それは作家が生きる〈戦後〉の欲望と混濁が渦巻く現実に対する、一種の裏返しのユートピアを描く目論見にほかならない。
神島は映画館の一軒さえない素朴な小島である。岬のはずれにある灯台の灯台長一家を除けば、ほとんどが土着の漁業に携わる人々の集落であり、訛りの強い方言が行き交う日常は、荒々しくも濃密である。主人公の二人を取り巻く人間関係に背徳や暴力や退廃が入り込む隙間は、ほとんどない。
一九五四(昭和二九)年という時点の戦後日本の片隅のこの小島を舞台に、三島が古代ギリシャの純愛劇を移しかえるという試みには、普遍的な純愛劇の再現を通して日本の戦後社会を相対化して描いてみるという、この作家の入り組んだ意図が働いていたとしても不思議はない。
ベストセラーになった『潮騒』はすぐに東映で映画化された。監督は谷口千吉、脚本に作家の中村真一郎が加わり、主演に久保明と青山京子という作品の現地ロケに、三島は音楽を担当した作曲家の黛敏郎とともに泊りがけで同行して撮影に立ち会い、メディアの取材にも応じた。その報告のなかで、作家はこの島で耳にした小さな挿話に触れている。
米国が南太平洋上で行った核実験による放射能汚染の影響が、日本でも大きな社会不安を引き起こしていた時代である。黛敏郎とともに島の灯台長宅へ出向いた三島は、夫人に小説の取材への謝礼とともに放射能騒動の見舞いを述べながら、水質汚染の不安がぬぐえず、出された冷たいお茶を恐々飲んで島を後にしたことを記している。見出された〈楽園〉は核実験による放射能汚染という、冷戦世界がもたらす核戦争の陰画に脅かされていたのである。
*
三島は『潮騒』の舞台に選んだ伊勢湾に浮かぶ神島に、繰り返し〈アルカディア〉という比喩を重ねている。古代ギリシャのペロポネソス半島の中央にあった地域を指し、牧人たちの楽園として伝承されてきた理想郷の代名詞である。ルーヴル美術館にあるプッサンの名画『アルカディアの牧人たち』には、「われもまたアルカディアにあり!」という言葉を刻んだ墓碑を見つめる牧童と少女が描かれている。
「われもまたアルカディアに!」は、かのゲーテの名著『イタリア紀行』の巻頭に題辞として掲げられた言葉でもある。ギリシャ・ローマの旅を通して三島が自らの〈アルカディア〉の地をこの島に準えた深い意図の由来するところが、そこにくっきりと浮かび上がる。
『若きウェルテルの悩み』で作家としての名声を確立したゲーテは廷臣としての仕事の重荷に加えて、人妻シャルロッテ・フォン・シュタインとの恋に行き詰まり、一七八六年六月に予てからのあこがれの地、イタリアへ旅立つ。秘書一人だけを伴い、身分も隠した逃避行であったが、ドイツ北方の重苦しいゴシック的風土から逃れてイタリアの陽光溢れる世界に身を投じることは作家の長年の夢であった。
ゲーテの『イタリア紀行』は戦後の鬱屈から逃れた三島がギリシャ・ローマへの旅を通して描いたあの『アポロの杯』とも重なる、芸術家にとっての根源的な文化体験の記録である。
ゲーテはイタリア人に扮して、ローマでは美術館でルネサンス美術の巡歴に長い滞在をあてた。ヴェネツィアでは街角や劇場で演じられる仮面劇に通って没頭した。南下してナポリやシチリアでは、当時欧州の社交界に出没して話題をさらっていた稀代の山師、カリオストロの故郷まで訪ね歩いて母親と面会するという奇行を演じたりしている。
三十九歳ですでに高い文名を誇っていたゲーテにとって、足掛け三年にわたる二度の長いイタリアの滞在は、ワイマール公国での公務や込み入った私生活の軛から自分を解き放ったばかりでなく、眷恋の南国の地をようやく訪れ、その美と歴史の根幹に触れて、精神と感覚を揺さぶられる経験をもたらした。それは作家の魂を揺さぶる深い文化体験という点で後年、二十七歳の三島のギリシャ・ローマへの旅にも重なっていく。
一七八六年十一月、フェラーラからローマに足を進めたゲーテは「この地には全世界史が結びついている。そして私はこのローマに足を踏み入れたときから、第二の誕生が、真の再生が始まるのだ」と感動と興奮を隠していない。
『イタリア紀行』の巻頭に掲げられた「われもまたアルカディアに!」の題辞(エピグラフ)はゲーテが二回目のイタリア紀行の折、ローマで入会した詩歌や学芸の振興を目的とする文化人のクラブの名前から引用された。一六九〇年に発足したというこの団体の来歴を、ゲーテはこう紹介している。
欲望と不信や退廃が行き交う戦後の日本社会に対置するかたちで、三島は神島という〈アルカディア〉を『潮騒』の舞台に設えて、漁師と海女の若い純愛の物語を構想した。ゲーテの『イタリア紀行』は、その〈楽園〉のあらまほしいモデルを三島に提供したはずである。
それにしても『仮面の告白』に始まり、敗戦で没落してゆく地主一族の愛憎を主題にした『愛の渇き』(一九五〇年)や、経営する闇金融会社が破綻して自殺した東大生を主人公にした『青の時代』(同)など、戦後という混沌の時代を主題にした作品で〈戦後派〉の流行語の渦中にあった三島がなぜ、欲望が渦巻く現実を遠く隔てた『潮騒』というメルヘンをここで書いたのだろうか。
GHQによる占領体制が解かれて一九五二年に日本は独立を回復する。
朝鮮戦争の特需という〈僥倖〉によって、日本経済は戦後の荒廃から脱出し、復興をから成長への軌道に乗った。
冷戦体制が強まるなかで日米安保体制が強まり、国論は二分されたが、保守合同によって国内政治は〈豊かな時代〉へ成長の坂を上りだす。
国民の多くは〈高度経済成長〉の足音に耳をそばだてながら、〈明日〉への予兆に彩られた日々に身を任せたのである。
『潮騒』を書いてから十六年後の一九七〇年の晩秋、自衛隊市谷駐屯地で割腹自決する三島はその四か月前に新聞に書いた「私の中の二十五年」と題するエッセイで、戦後の四半世紀を振り返ってこのように認めている。自身が歩んできた〈戦後〉という時代への決算である。
「鼻をつまみながら通り過ぎた」という作家の〈戦後〉に対する回想は、おそらくその現実が物質的な繁栄のもたらす精神の空洞と人間の衰弱が放つ腐臭にあふれていた、という認識によるものであろう。
つまり、彼はかりそめの平和と豊かな社会へ向かう〈戦後〉には顔を背けて生きた、というのだ。そしてその彼岸に楽園を構想した『潮騒』という寓話は、もっとも純化された〈戦後〉に対する三島の反語であった。
それは果たして彼の本当の心の裡から発した声であったのだろうか。それ以降の〈作家・三島由紀夫〉が文壇はもちろん、演劇や映画の制作と出演、ボディービルによる〈肉体改造〉などでマスメディアの寵児となり、東京・馬込に新築した白亜の豪邸に各界の貴顕淑女を招いた華やかな社交の中心にあって、自信に満ちた哄笑を振りまく時代の偶像であったことは誰もが知るところである。
翻訳された作品は欧米など海外でも評価が高まり、一九六五(昭和四〇)年にははじめてノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がるのだから、戦後の腐臭から「鼻をつまみながら通り過ぎた」という自己認識と、現実の三島の水を得たような振る舞いとの乖離はいかにも過大である。輝きに満ちた時代の〈寵児〉として生きた自身の記憶にも、彼は鼻をつまんで通り過ぎたのだろうか。
繁栄がもたらした腐臭が広がる〈戦後〉の現実と〈楽園〉の寓話的世界を均衡させることで調和を保ってきた作家の内部世界が、おそらく『潮騒』の成功を境目にしてどこかで破綻したのである。それはどの時点であり、何がその均衡を打ち破ったのか。
*
『潮騒』が刊行された一九五四(昭和二九)年に、三島は「ワットオの〝シテエルへの船出〟」と題した美術評論を雑誌『芸術新潮』に執筆している。
実質二十年余りのあいだに小説、戯曲、評論、エッセイなどあまたの著述を残した三島にとって、稀有といえる本格的な美術評論である。
ワットオとは一八世紀のフランスの画家、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーのことで、その優雅でどこかに倦怠が漂う貴族たちの社交空間を描いた作品はロココ時代が放つ最後の輝きを伝えて華やかであり、同時にそこはかとない憂愁をたたえている。
三島が取り上げているのは、そうした雅宴図の代表作といわれる『シテール島への船出』と題された作品である。
小高い丘の上の木陰から半裸のヴィーナスが見守る中で、典雅な装いをこらした八組の男女が寄り添い、語らい、或いは手を取り合いながら歩いてゆく。周囲には春先の霞のような大気が漂っていて、その空にはキューピッドが舞っている。彼らは画面の前方の船着き場へ向かっているのだが、うっすらと広がる靄のような空気が見晴らしを遮っていて、定かには見えない。
それは気まぐれな春の陽気がもたらした眺めという以上に、もっと深いこの時代の表徴のようにも見る者には映る。すなわち、明日の日にどのような瓦解や崩落があろうとも、なんの疑念も幻滅もなく人々が優雅な恋の戯れにいそしみ、官能の花が揺蕩う、一八世紀のロココの時代精神である。
フランスのロココ時代はルイ十四世の治世の晩期から一八世紀後葉の〈革命前夜〉にわたる時期に相当する。華麗で優美な曲線に彩られた建築や装飾に象徴されるロココの時代の社交空間は、同時に怪しい投機システムを財政改革に持ち込んで失敗したバブル経済の元祖のジョン・ローや、稀代の色事師として今日伝わるカザノヴァのような人物が、その歴史上の役回りとして記憶されている。
砲声や流血に洗われる革命の気配はまだ遠い。ブルボン王朝にあらわれた貴族たちが、気品と優雅を競って最後の花を咲かせた旧体制の〈楽園〉の時代は、かたわらでこうした暗躍する山師や成金たちの野心と陰謀が渦巻く、むき出しの欲望の社会と背中合わせでもあった。
一触即発の冷戦世界という現実を背負いながら、のどかな一国的平和とその果実を手にした日本の〈戦後〉の彼方に、三島はロココ的な世界を夢見ていたのだろうか。彼が『潮騒』と前後しながら書き継いだ『青の時代』や『金閣寺』、『絹と明察』や『宴のあと』などの小説は、戦後の日本で実際に起きた事件をモデルにして描かれた。東大生による金融犯罪や国宝への放火事件、労働争議のなかに父性原理を持ち込む日本型経営者、理想を掲げた政治家の選挙を支える料亭の女主人の恋の顛末など、どれもが〈戦後〉という混沌をとらえた作家のまなざしを通して時代精神を造形した作品である。
こうした現実の向こう側に三島が見立てた〈ロココ的世界〉は、浪漫主義的な気質が加わって彼を「彼岸」へ駆り立てた挙句の夢想だったのだろう。
やがて三島は戦後の〈楽園〉の夢想から覚醒してもう一つの「シテール」へ漕ぎ出す。行き着くところが若い同志たちとともに乗りこんで自衛隊員に〈蹶起〉を呼びかけ、失敗して割腹自決を遂げた東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーである。もう一つの「シテール」への歩みは、彼の〈蹶起〉へ転じる分岐点の謎を通して、のちに改めてたどろう。
*
三島由紀夫が〈戦後〉から離脱して、新たな「シテール」へ漕ぎ出す転換点を考える時代の暗喩として、ここでとりあげるのは『潮騒』を書いた二年後に発表された『鹿鳴館』という戯曲である。
一九五八(昭和三一)年、雑誌『文学界』に発表されたこの作品はタイトルが示す通り、条約改正や欧化政策とそれに対する国粋主義の台頭で揺れる鹿鳴館時代を舞台にした、外見はメロドラマのようなお芝居である。劇団文学座が創立20周年を記念して三島に委嘱した作品で、同じ年に東京の第一生命ホールで初演された。主人公のヒロイン、朝子を杉村春子、その夫の影山伯爵を中村伸郎が演じ、松浦竹夫が演出している。
研ぎ澄まされた台詞の衝突による緊張と、華やいだ夜会の弛緩が心地よいリズムを作り、あでやかな衣装の演者が行き交う舞台は視覚的な構築性にも優れて大きな評価を得た。三島の戯曲のなかでも完成度の高い作品で、近年では浅利慶太の演出で劇団四季が公演を重ねたことから、日本の近代史を彩ったあでやかな物語の輪郭は、よく知られているところである。
主人公の朝子は新橋の名妓であったが、明治政府の閣僚の伯爵、影山悠敏に嫁いだ。明治一九年十一月三日、日比谷の鹿鳴館で天長節夜会が予定されており、夫の影山は各国の外交官をはじめ貴顕淑女を招いた宴の主人を務めるが、朝子はデコルテの洋装で着飾った貴婦人たちが居並ぶ夜会に決して出ようとしない。それが江戸文化の粋を纏った朝子の誇りだからである。ところが芸妓時代に反政府派の自由党を率いる清原との間に生した息子の久雄が壮士を率いて夜会を襲撃し、影山の暗殺をたくらんでいることを知って、彼女はその信念を変える。夫を守るためではなく、ほほえましい恋を育む息子を一党から引き離すために、初めて洋装で夜会に臨むという‥‥。
清原は久々に再会した朝子に向かって、そう言う。
優雅なワルツの旋律に合わせて着飾った男女がステップを踏む夜会の内実は、欧米への阿諛迎合とそれに反発するナショナリズムがせめぎあい、陰謀とマキャベリズムが火花を散らす修羅の世界である。
したたかな影山は久雄を挑発して実の父親の清原を暗殺するように仕向けて、夜会が最高潮に達したころ鹿鳴館に一発の銃声が響きわたる‥‥。
影山は陰謀をめぐらすにあたって、腹心の飛田天骨にこう諭した。
ここまでの流れで『鹿鳴館』を読めば、これは理念と現実にわたる〈政治〉の原理を、欧化と国粋の間に揺れた明治日本の一場に探った物語ということで理解が可能だろう。
ところがこの政治劇には前提があって、それは夫婦や親子、別れた恋人など、登場者の間に結ばれた「愛」こそがドラマを起動しているということである。清原暗殺を仕掛ける影山を動かしているのは朝子への見返りのない愛であり、それが受け入れられない嫉妬である。
自ら禁じていた鹿鳴館の夜会へ朝子が出かけることを決意するのは、かつて清原との間に生したわが子の久雄をテロリストへの罠から救出するためである。そして、その罠に落ちてゆく久雄と大徳寺侯爵の娘、顕子の幼気な恋。
こうした愛の連鎖が〈政治〉を形作るという主題を、三島はこの芝居で描いた。その主題の〈倒錯〉は、ほとんど寸分の狂いもなく成功している。
すべてが終わって舞踏場に再びワルツの旋律が流れ始めると、影山は朝子に向かって語りかけ、朝子もそれにこたえる。
「隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を」と影山はいい、朝子は「世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい」と応じて、宴は何事もなかったように続いていく。
「だが私は一生こいつを踊り続けるつもりだよ」
「それでこそ殿さまですわ。それでこそあなたですわ」
それならば、作者の三島にとってこれは〈鹿鳴館〉を舞台にして起きる恋と政治がもつれ合った椿事に過ぎず、明治日本の開化の時代を振り返った懐古的な錦絵に過ぎなかったのだろうか。
このような作者の自註がある。
つまるところ、『潮騒』の二年後に書かれたこの戯曲はピエール・ロチの『秋の日本』や芥川龍之介の『鹿鳴館』が大いなる皮肉を込めて描いた、明治一九年十一月三日の天長節夜会に場を借りながら、戦後の米国占領下から脱して日米安保体制下で自立と成長への道を探る日本を十分意識して書かれた作品と見立てることができるのである。
ここでも〈楽園〉は彼方にある。
「こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くしていくんだからな」と自らに言い聞かせて、朝子の手を取ってワルツを踊る燕尾服姿の影山が〈戦後〉という時代だとすれば、江戸の粋と伝統を秘めながらマキャベリストの影山に導かれてステップを踏む朝子こそが、戦後の三島の自画像ということになる。
一八八三(明治一六)年にお雇い外国人、ジョサイア・コンドルによって東京・日比谷に建設された「鹿鳴館」は一九二七(昭和二)年まで使用され、一九四〇(昭和一五)年に解体された。戦後、「鹿鳴館」は形を成していない。
三島はこの作品を書いた二年後に結婚して所帯を持ち、東京・馬込にヴィクトリア朝風のコロニアル様式と呼ばれる白亜の邸宅を構えた。ファザードに円形の破風窓が並び、室内は吹き抜けの天井にロココ風の家具調度を設えた広間、庭には大理石のアポロ像が置かれた。
しばしば彼はここに多数の親しい友人知己を招いた宴席を催し、時には楽団の音曲を伴った舞踏の宴を繰り広げた。山の手の閑静な住宅街の一郭にあらわれたこの異空間は、近隣から「大森鹿鳴館」などと呼ばれた。
探り続けたアルカディア、〈楽園〉がどうやら形をなしたのである。
第四章 金閣炎上と〈肉体改造〉
日本研究者のドナルド・キーンは、〈日本的なもの〉といわれる美意識の源泉を室町幕府の八代将軍、足利義政の事績に求めている。応仁の乱の原因を作り、政治的にはほとんど統治能力を欠いた人物と今日では見られてきたが、銀閣(慈眼寺)を建立し、雪舟をはじめとする当時の画家たちを支援した。連歌や能楽の振興など「東山文化」を生み育てた〈文弱の王〉である。
「暗示」と「不均衡」と「簡素」、そして「果敢なさ」という四つの要素でそれは構成されている、とキーンは指摘する。確かに、義政の祖父の三代将軍、義満が北山の鹿苑寺の舎利殿を金箔で葺いた金閣の絢爛豪華な輝きと較べれば、義政の銀閣は障子や違い棚で自然を暗示させる、控え目で静寂な書院造の佇まいを特徴とする。
応仁の乱を挟んで室町幕府の将軍三代に流れた時間が映しだす光と影が、そこにはある。八代将軍義政は応仁の乱の後の荒れた鹿苑寺(ろくおんじ)にたびたび詣でて、焼け残った金閣の姿を眺めながら自ら造営する東山山荘の観音殿、銀閣を構想したという。
一三九九(応永四)年に創建されたと伝えられる金閣は三層の楼閣から成り立つ。初層の法水院には須弥壇に宝冠釈迦如来像と足利義満像が置かれた。中層は潮音洞と呼ぶ観音殿で仏間に観音菩薩坐像、その周囲に四天王像を配置した。上層は究竟頂という禅室で仏舎利を安置し、屋上には銅鳳を乗せた宝形造の屋根を構える。それぞれの層で寝殿造から和風の仏堂、さらに禅宗の仏堂へと、激動する時代の転変をあらわす建築様式の混淆は、義満が作り上げた「北山文化」の体現であった。
南北朝の内乱をおさめて朝廷を統一した義満が、明との交易をすすめて開花させた多彩な文化のシンボルが「北山山荘」である。山荘の内部は大陸の明から舶来した唐物の絵画や調度が飾り、まばゆい金色の荘厳に輝く舎利殿の金閣は、文字通り足利幕府の黄金期の象徴にほかならない。
応仁の乱は十年にわたり、京都は戦乱によって荒廃をきわめた。戦火を潜り抜けて焼け残った〈黄金の楼閣〉を、政治的には〈無能の人〉と呼ばれた義政は茫々たる気持ちで眺めたのであろう。茶の湯や水墨画や能楽などを通して「東山文化」と呼ばれる日本文化の祖型を育てた義政の胸に去来したのは、祖父義満が歩んだ過酷な歴史が育む〈美〉の果敢(はか)なさだったのかもしれない。
三島は二十歳で迎えた終戦の年に、この「文弱の王」足利義政を主人公にした小説『中世』を書いている。嫡子義尚を若くして失った悲しみのなかで、義政は寵愛した能楽師の菊若を招魂の儀式に呼んで義尚の靈を呼び出す。禅師霊海に命じて亀の脳髄から作った不老不死の妙薬の挿話などを通して、義政を取り巻く孤独が錦のような謡曲の文体で描かれている。小説『金閣寺』にはそのような歴史のつらなりがもたらす〈美〉の音響装置が仕掛けられていることを、見逃してはなるまい。
三島由紀夫が小説『金閣寺』で描いた舎利殿の金閣が炎上したのは一九五〇(昭和二五)年七月二日の午前三時ごろである。京都市北区金閣寺町の臨済宗相国寺派塔頭、鹿苑寺の舎利殿金閣(国宝)は瞬く間に火に包まれ、消防車十台が消火に当たったが、三層建てで金箔が施された楼閣は約一時間でほぼ全焼した。内部に安置されていた国宝の足利義満坐像をはじめとする文化財もことごとく焼失した。
警察で捜査をすすめた結果、出火直後から行方をくらましていた同寺の住み込みの徒弟、林養賢(21)の放火と断定。同日夕、寺の裏の左大文字山中腹で服毒自殺を図って苦しんでいるところを発見し、取り調べたところ犯行を自供した。動機について、林は「金閣の美しさが妬ましかった」「金閣と心中する覚悟だった」などと供述。幼時から吃音に劣等感をかかえ、対人関係などに悩んできたことも背景にあったとみられる‥‥。
これが事件直後に明らかになった「金閣炎上」の背景である。金色に輝く名刹の舎利殿の放火炎上、その犯行が寺に住み込んだ修行僧の青年によるものであり、動機は「金閣の美への嫉妬」だという。「物語」が立ち上がる条件はすでに十分準備されていたといってもいい。
時代は戦後の日本がまだGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれており、平和と民主主義へ向かう国民のまなざしの傍らで、敗戦で否定された自国の歴史や伝統に対する懐疑的な空気は覆うべくもない。国宝金閣の放火炎上とその「美への嫉妬」という犯人の修行僧の動機に対し、世論とメディアが鋭く反応したのは、その落差の大きさゆえであったかもしれない。
三島が『金閣寺』の連載を雑誌『新潮』で始めるのは一九五六(昭和三一)年だが、この事件に取材して日本画家の川端龍子が『金閣炎上』(一九五〇年)を描き、水上勉が小説『五番町夕霧楼』(一九六二年)を発表する。三島の『金閣寺』も、金閣炎上に触発された当時の社会の熱いまなざしのなかから生まれた。
*
〈幼時から父は、私によく、金閣のことを語った〉
三島由紀夫の『金閣寺』の冒頭は、主人公のこのような独白で始まる。
舞鶴の貧しい寺に生まれた主人公は、住持の父親から金閣の美しさを聞かされて育った。幼時から吃音による劣等感を抱えた内向的な性格は、徒弟として金閣寺に住み込み大学へ通うようになっても続くが、身近に接する金閣は大戦の敗色が深まるとともにますます悲劇的な輝きを増していった。
〈私〉は戦乱と不安、夥しい血が流されているこの戦時下に金閣が美しさを深めてゆくのは当然のことだと考える。なぜなら、これはもともと不安が建てた建築、一人の将軍を中心とした多くの暗い心の持ち主が企てた建築であり、金箔に包まれた三層の異なった意匠は、乱世の不安を結晶させる様式として、自然にそのようなかたちを生んだのだ、と。
孤独な〈私〉を金閣の美しさに引き寄せる発条となるのが、彼が他人や社会を遠ざけて生きるように導いた〈吃音〉という身体的な〈負荷〉である。この小説はそれが重要なモチーフとなって、物語の縦糸を構成する。
〈主題
美への嫉妬
絶対的なものへの嫉妬
相対性の波にうずもれた男
「絶対性を滅ぼすこと」
「絶対の探求」のパロディー〉
三島は小説『金閣寺』の起筆にあたって残した創作ノートの冒頭に、こう記した。およそ芸術家にとっての〈美〉が、あらかじめ何かの絶対的な啓示によって降臨するようなものでなければ、それは彼自身の現実の経験のなかから導かれるほかはない。主人公が〈金閣〉の美によせる「絶対的なもの」は、〈戦争〉という恩寵と〈吃音〉という個人的な負荷が構築した。
敗戦の日、動員先の工場で天皇の詔勅を聞くと、〈私〉は駆けだすようにして寺へ戻り、金閣の前へ急いだ。敗戦の衝撃や民族的な悲哀というようなものから金閣は超絶しており、とうとう空襲にも焼かれなかったことを誇るかのように超然として、猛々しい緑の中で夏の陽光を浴びていた。
しかし、その輝きは激しさを増す空襲におびえながら見た戦時下の金閣とは違った、よそよそしさを漂わせている。「金閣は、音楽の怖しい休止のように、鳴り響く沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである」と〈私〉は振り返る。つまり、戦争という恩寵によって彼に微笑んでいた金閣の輝きは、敗戦によってその親し気な関係を失ってしまったのだ。
〈私〉が抱える〈吃音〉という身体的なコンプレックスは内向的な性格を強めて、異性とのかかわりに困難をもたらした。それは金閣寺へ修行僧として住み込んでからも続いた。ある日、寺から通う大学で知り合った友人で、内翻足の障害を持つ柏木が〈私〉に対し、「吃れ、吃れ」と挑発したあげくに一人の娘との交渉を仕掛けてきた。
メフィストフェレスのような偽悪家の意地の悪い〈善意〉にのって、〈私〉はこの女性との性的な交わりを試みるが、やはり不如意に終わる。それは目の前の娘のみずみずしい乳房の向こうにあらわれた〈金閣〉の幻のためである。
主人公がそれほど愛着した金閣に火を放つ決意をするのは、戦争が終わってから彼の世界の秩序を形作ってきた〈金閣〉が沈黙し、行動を起こそうとする彼の意志に対して、このように立ちはだかり始めたからである。戦後の金閣の変容が、彼をある決意へ導いてゆく。「金閣は焼かねばならぬ」と。
小説『金閣寺』は美の象徴としての〈金閣〉をめぐって、それに蠱惑された主人公の〈私〉が日本の敗戦という時代の亀裂と、〈吃音〉という自身の身体的な負荷によって追い込まれ、その放火炎上に至る物語である。
〈美〉という観念を主題にした教養小説としての性格をもちながら、主人公を動かすモチーフが作家の三島自身の身体的な経験と〈敗戦〉という時代空間の経験を介して立ち上がり、物語を大きく飛躍させる。
〈金閣〉という美の密室に抱かれた〈私〉の至福の感情は〈吃音〉という身体的な秘密を隠し持つがために高められ、空襲と夥しい死者が取り巻く〈戦争〉は彼にとって、この美を荘厳するひとつの時代の恩寵にほかならない。それはこの構築物に内在する愛の神エロスと、時間の神クロノスに同時に祝福された青年の悲劇、というべきだろうか。
〈私〉が〈金閣〉と出会ってその美に引き寄せられ、やがて敗戦によってその偶像が沈黙する。そして、女性と交わることのできない彼の不毛な戦後をあざ笑うような〈金閣〉への復讐として、〈私〉は火を放つことを決意する。ここに至る物語の展開には、要所要所に場面のイメージを広げるいくつかの効果的な挿話が使われている。
故郷の舞鶴の中学校を訪れた海軍兵学校の先輩に〈私〉が、吃音であることを告白すると、制帽に蛇腹の制服姿の彼は爽やかに言葉を返した。
「何だ、吃りか。貴様も海機へ入らんか。吃りなんか、一日で叩き直してやるぞ」
「入りません。僕は坊主になるんです」と答えると、周りは一瞬しんとした。若い英雄は傍の草の茎を摘まんで口にくわえてから言った。
「ふうん、そんならあと何年かで、俺も貴様の厄介になるわけだな」
やがて彼がその場を離れた後、〈私〉は密かに彼が脱ぎ置いた美しい短剣の黒い鞘にナイフで醜い傷を彫り込んだ―
金閣寺の修行僧となった〈私〉は戦後、GHQの占領が始まった翌年の雪が降り積もった朝、娼婦を連れで観光に訪れた若い米兵を英語で案内する役割をあてがわれる。参観路を金閣の方へ案内すると、酔っている二人は諍いをはじめた。
「ジャーック、ツー・コールド!」
女が叫び声をあげたあと、米兵を平手打ちすると、米兵が女の外套の胸倉をつかんで雪の上に引き倒し、女は素肌をむき出しにして真新しい雪の上に倒れ込んだ。酔った米兵は妊娠した女の腹を指さして〈私〉に命じた。
「踏め。おまえ、踏んでみろ」
命じられて〈私〉の足は春泥のような女の腹を踏んだ。
「もっと踏むんだ。もっとだ」
女は目をつぶって呻いていた。
やがて女を抱き起してジープに戻った米兵は、〈私〉に米国煙草のチェスターフィールドを二カートン押し付けて礼を言い、去っていった―。
前者は〈吃音〉という身体的な歪みを自覚する起点としての少年期の一場面の記憶であり、後者は敗戦後の米軍占領下に汚される〈金閣〉の美を目の当たりにした自身への哀れみをたたえた心象風景である。
〈吃り〉が自分の美の観念から生まれたのではないかと疑うようになった〈私〉は、美を「怨敵」と受け止めて〈金閣焼尽〉へ歩みだす。ニヒリストの友人、柏木の〈悪魔〉のささやきと、朝鮮動乱の勃発という外界の変事がそれを後押しするきっかけであった。
未明、金閣の漱清のほとりから法水院に入り、用意してあった三束の藁に燐寸の火を放つ。三尊像に囲まれて、足利義満の坐像がゆらめく火に照らされて浮かび上がった。突然、この火に包まれながら三層の九竟頂で死のう、という考えが沸き起こり、〈私〉は火勢を避けながら狭い階段を駆け上がる。
煙に包まれた潮音洞を抜けて三階の究竟頂の扉を開けようとしたが、鍵がかかった扉はあかない。力の限り叩いても、じかに体をぶつけたても扉は開かない。潮音洞はすでに煙に充たされている。
裏山を駆けのぼって左大文字山の頂へ走り抜けて倒れ込むと、はるか谷間から燃え盛る金閣の黒い煙と、爆竹のはぜるような音が伝わって来た。用意していた毒薬を谷底へ投げ捨て、ポケットから煙草を取り出して一服した。
〈生きようと私は思った〉
*
一九五六年八月十四日の擱筆が記された『金閣寺』は完結、出版されると大きく反響を広げた。一人の青年のエロスと時代というクロノスに抱かれた〈金閣〉の伝統的な美しさが、戦争をはさんで〈焼尽〉というアンビヴァレントな行為によって運命を反転させてゆく物語は、作家の一つの達成といってよかろう。
「批評の神様」と言われた小林秀雄も当初からこの炎上事件に注目し、その印象は『金閣焼亡』という随筆に記されている。
『金閣寺』の刊行直後、雑誌『文藝』誌上で行われた著者の三島との対談で小林はいち早くその出来栄えを称えたあと、一点の疑問を挙げた。
〈どうして殺さなかったのかね、あの人を〉
小説の終末で主人公の〈私〉こと溝口が金閣へ火を放った後、裏山へ逃れて「生きようと私は思った」と独白して終わるくだりである。
金閣の美に魂を奪われた主人公が、沈黙し復讐をはじめたその金閣に火を放ち、核心の〈究竟頂〉に入ろうとするが、その扉は開かない。結果は当然、いわば〈美〉との無理心中となるのだから、金閣の焼尽ののちも「生きようと思う」のでは矛盾を生じる。これが小林の指摘であろう。
三島はこれに対し、曖昧にしか答えていないが、実はこの問いにはその後の作家の足取りを考える上で、ある重要な示唆を読み解くことができる。
戦後の出発点となった自伝的作品『仮面の告白』とこの『金閣寺』を貫いている通奏低音は、同性愛や吃音などを通した主人公の身体的な歪みの意識である。それはいずれの作品でも、彼らの外界との交渉に翳りをもたらす一方、その美とエロティックなイマジネーションの翼を広げる源泉にもなった。
そこに作者の三島由紀夫の実像が投影されていることはいうまでもない。子供のころから虚弱で「青ジロ」と綽名された平岡公威が同性愛への傾斜を自覚して、『仮面の告白』が生まれた経緯はすでに見た。『金閣寺』の主人公の〈吃音〉も、その延長で比喩的に作られた身体的な〈負荷〉の設定である。
しかし、三島はこの精神と肉体をめぐるディレンマから離陸するための「自己改造」をこのころから始めている。スポーツなど訓練による「肉体」の改造である。
なるほど「歪み」と意識された身体を改造すれば、そこから彼の精神世界はおのずから、それまでとは異なる眺望を獲得できるのではないか―。
三島由紀夫の「自己改造」のきわめてヴィジュアルで象徴的な一例は、彼が一九五五(昭和三〇)年前後に始めたボディービルによる肉体改造である。それによって作られた筋肉は彼の身体的な劣等感を払拭し、かかえてきた性的な指向性にも変化をもたらした可能性はある。
少年時代に虚弱児で体育の時間に級友の運動を見学することが多かったという平岡公威は、その貧弱な肉体への劣等感を発条にして、早熟で繊細、デカダンスを湛えた浪漫的な小説や詩を生み出してきた。『仮面の告白』でカミングアウトした自己の内なる同性愛への傾斜も、おのが虚弱な肉体へのコンプレックスが少なからずかかわっていたと推し量ることができる。
週刊誌の記事を見てボディービルに目覚め、「肉体改造」を始めたのが一九五五年であり、『金閣寺』の連載が始まるのがその翌年であることは、その履歴に照らして象徴的な意味を暗示している。
専門コーチを自宅に招いて、バーベルやベンチプレスなどまであつらえて始めた訓練は忍耐強く持続し、彼は次第に格闘家並みの筋肉をつけてゆく。教室の優等生の例にもれず、まことに努力精進の人なのである。
「世の中で何が面白いと言って、自分の力が日ましに増すのを知るほど面白いものはない」と三島はその喜びを隠していない。
この肉体的な自信の獲得は、居心地の悪かった〈戦後〉という時代との和解と、奇妙な活気が溢れだした成長の時代の華々しいアクターとしての自覚を、三島に促した。「肉体改造」はボクシングや剣道にまで手を広げる一方、自作の演劇公演や娯楽映画への出演、自ら裸体のモデルとなった写真集へ登場など、メディアへの露出による〈三島由紀夫〉の表出によって、文学の領域を超えた同時代のスターの場がそこに生まれる。
「自己改造」が三島にもたらしたもっとも大きな変化は、彼が生来の性的指向として持ち続けてきた同性愛を一時的にせよ棚上げし、異性愛への自覚を強く促して行動するきっかけとなったことではなかろうか。女性との交渉と結婚から家庭の構築という道筋を自ら示してみせたことは、ゆきつくところ伝統的な家庭人としての三島の自己表明につながった。
『仮面の告白』が明らかにしたように、三島は女性との恋愛関係を結ぶにあたって試行錯誤を繰り返し、多くはうまく運ぶことがなかった。女性との円満に成功した恋愛体験はそれまで、少なくとも表向きは語られていない。ところがこの「肉体改造」と前後するようにして、梨園につながる一人の女性と三島が男女の関係を取り結び、三年ほどにわたって親しい行き来を重ねていたことが近年、岩下尚史の『直面(ヒタメン)―三島由紀夫若き日の恋』などで明らかにされた。
三島が親しくなった女性は豊田貞子といった。赤坂の著名な料亭の娘で、歌舞伎座の楽屋に自由に出入りするような家庭環境であったことから、中村歌右衛門の楽屋で三島と知り合ったという。着物と芝居を道楽のようにして社交の場を行き来する、まだ二十歳前の娘であったが、人あしらいの巧みな薹の闌けた魅力に三島はゆるゆると恋に落ちた。
このころの三島は、古代ギリシャの『ダフニスとクロエ』の本歌取りとして、伊勢湾の小島を舞台に若い男女の純愛を描いた『潮騒』が空前のベストセラーとなり、映画化されるなど、流行作家としての名前はますます大きくなっていた。長編小説『沈める滝』に続いて生涯の代表作となる『金閣寺』の連載が始まり、多忙を極める日々―。それを縫うようにして、三島は都内のホテルや料亭、仕事で滞在した湘南や熱海のホテル、『金閣寺』の取材で訪れた京都など、さまざまな場所で貞子との逢瀬を重ねた。
同じころ三島の作品には、この女性の影を映したものが少なくない。『橋づくし』は花柳界を舞台に、銀座の芸妓と料亭の娘が3人で願をかけ、無言で七つの橋を渡り通すことを競う短編で、モデルの一人の貞子は、三島とともに舞台に設定された築地川周辺を実地検分までしている。
そのころのことを、貞子はこう振り返っている。
「面白いほど、書けて、書けて、仕方がないんだ」。
この言葉はちょうど『金閣寺』の連載が佳境に入っているころ、執筆に同行した熱海のホテルで貞子が直接聞いている。
貞子の証言は、戦時下に恩寵や奇跡を待ちながら〈死〉の想念に包まれていた三島が、居心地の悪い〈戦後〉を払拭してようやくこの戦後という時代と〈同棲〉する足場を得たことを伝えている。それは三島の肉体的な「自己改造」と豊田貞子という女性との出会いによってもたらされたのであり、その陰に『金閣寺』という、〈戦後〉をめぐる鬱蒼とした美の焼尽の物語があったことを、改めて見つめてみるべきだろう。
「私は青年期以後、はじめて確乎とした肉体的健康を得た」と三島はボディービルの経験を語り、そのうえで「活動的にもなり多忙にもなったが、決してそのためだけではなくて、私には、死について考えることに対する、いわれのない軽蔑が生じた」とも述べている。
肉体的な自己の回復は、三島の〈社会的自我〉の成長を促した。
日記体で綴った『小説家の休暇』の一九五五(昭和三〇)年七月五日の項に、三島はこう書いている。
さらに「少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢見たことを除いて」と続けたあと、さりげなく三島は「ほかに人生にやることに何があるのか。やがて私も結婚するだろう」と記した。
「英雄」はなお留保されている。
これは豊田貞子を伴って『金閣寺』の執筆のために滞在した熱海ホテルで書かれたようである。貞子との結婚も脳裏に浮かんだのだろうか。
しかし、その恋は未完に終わった。
第五章 〈白亜の邸宅〉の迷宮へ
三島が日本画家、杉山寧の長女、瑤子と結婚したのは、豊田貞子との三年にわたる関係に終止符を打った翌年の一九五八(昭和三三)年六月である。文学上の師で、のちにノーベル文学賞受賞をめぐって先を越されることになる川端康成夫妻が媒酌人を務めた。知人の紹介による見合い結婚である。
六月一日に行われた挙式と披露宴、その後の箱根、京都、別府、福岡などをめぐる二週間の新婚旅行は、マスコミの取材や各地での招宴、祝賀の訪問客などが相次ぎ、一大メディアイベントとなった。
三島はキェルケゴールの『あれかこれか』のなかの一節、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう」というアフォリズムを引いて、「遊泳者が全身を脱力して、のびやかに浮身をするように」たどりついた自身の結婚の顛末を語っている。
しかし、それは実のところ「作家・三島由紀夫」に戦後の日本社会が求めた〈結婚〉をようやく受け入れてたどりついた、与えられた選択にほかならない。三島はやがて子を生し、壮麗な屋敷を構え、戦後日本の社交空間のスターとなった。この作家にとっては自身の〈結婚〉も〈家庭〉も、実は「肉体改造」によって彼が身につけた逞しい筋肉のように、〈戦後〉という空間に努力して構築した人工的な伽藍であったのかもしれない。
三島が結婚と前後しながら力を入れて取り組んでいた仕事は、長編小説『鏡子の家』の連載である。これは〈戦後〉という時代に仮構された、もうひとつの〈家〉を舞台に繰り広げる、女主人の鏡子と四人の男の野心的な同時代の物語である。
冒頭のこの台詞が、長い小説の展開を暗示する。主人公たちの乗った車が勝鬨橋にさしかかると、船舶の航行のために道路を開閉する時間にぶつかり、渋滞に巻き込まれている。すでに荒涼とした焼け跡の時代が終わって、その先に広がる晴海の埋め立て地は〈戦後〉の先に息をひそめる、騒然としたその先の迷宮を予感させる。
「一九五四年の四月はじめの午後三時ちかくであった」と、場面の時点が示される。総力戦体制へ向かう一九四〇(昭和一五)年に「皇紀二千六百年」を記念して開通したこの跳開橋が、船舶の航行で中央から八の字に跳ね上がる場面が描かれてゆく。主題のイメージを掻き立てる巧みな導入である。
焼け跡からの復興と豊かさへ向かう坂道に挟まれた、凪のような時間である。朝鮮戦争が終わり、冷戦時代の世界秩序のもとで、成長の坂を上り始めた時代の東京を背景にして、〈鏡子〉という女主人が住む信濃町の高台の洋館に四人の若い男たちが集まっている。生い立ちも職業も性格も異なる彼らは、それぞれの美意識と行動原理をたたかわせながらデカダンスと虚無のなかを生きてゆく―。もちろん、その〈鏡子の家〉には彼らを縛る倫理や道徳は微塵もない。
四人は世界の崩壊を信じる商社のエリート社員の清一郎、肉体の不滅を信じるボクサーの峻吉、童貞の日本画家の夏雄、そしてナルシストの演劇青年、収。それぞれが作者の分身であり、彼らは行動して他者や外界と衝突しながら決して交わることがなく、壁に阻まれて破滅へ向かう。
「時代の壁」に向かって4人はそれぞれの思いを募らせる。
『俺はその壁をぶち割ってやる』という峻吉。
『僕はその壁を鏡に変えてしまう』という収。
『僕はその壁に描く。壁が風景や花々に変われば』という夏雄。
そして『俺はその壁になる。俺がその壁自体に化けてしまうんだ』と清一郎は考える。
三島は『鏡子の家』に大きな自信と野心をもって取り組んだ。
『金閣寺』の成功で自身が〈和解〉した戦後と正面から向き合い、いま置かれている豊かさと繁栄へ向かう時代の虚無と退廃を探ろうとした。
ところが、満を持して発表した『鏡子の家』は文壇やメディアなどから冷淡な評価に見舞われ、もちろん売れ行きもベストセラーとは程遠い水準に低迷した。もっとも大きな理由は4人の主人公が交わることなく物語が進行する、メリーゴーラウンドのような構成である。
そこには四人の独白の積み重ねがあっても、主題の衝突や劇的な発展の起こりようがなく、彼らを取り巻くいくつかの挿話を通してそれぞれの文明批評がめぐり続けるような小説だからである。
折々に一九五〇年代の日本の断面がコラージュのように挿入される。
こうした時代背景のもとで、〈鏡子の家〉に集まる四人の男はそれぞれに行動し、男や女と格闘しながら「壁」に突き当たってゆく。
ボクサーの駿吉は獲得したチャンピオンの座を失って右翼団体に入り、自滅する。俳優の収は母親の借金の代償に女高利貸の愛人となった挙句、殺されてしまう。
青木ヶ原の樹海で虚無の底に落ち、神秘思想にとらわれた日本画家の夏雄と、赴任先のニューヨークで同性愛の米国人に妻を寝取られた商社員の清一郎だけが生き延びて、不信と虚無に包まれた「鏡子の家」に残される。
「ヴィクトリア朝コロニアル様式」という意匠で三島が白亜の邸宅を東京・馬込に建てた一九五九(昭和三四)年の秋に合わせて、『鏡子の家』は刊行された。
原稿用紙千二百枚の長編小説で「時代をまるごと描く」という、バルザックやトルストイを思わせる鳴り物入りの作者の意気込みは壮大であり、期するものがあった。ところが、ふたをあけてみて、その反響は期待を裏切るものであった。文壇の批評は小さくシニカルで、作家が期待した「時代を描いた作品」への真正面からの評価はほとんどみあたらない。本の売れ行きもはかばかしくはなく、三島は落胆した。
そのころ、イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニが『甘い生活』という作品で世界的な評判をとっていた。マルチェロ・マストロヤンニが演じるゴシップ記者が、虚栄とデカダンスにまみれたローマの社交界に生きてゆく姿が同時代への批評として反響を呼んだのである。メディア社会に翻弄される主人公の姿に重ねて、三島は自作の『鏡子の家』の不評に抗弁した。
作品の基本設計の失敗と技術的な瑕疵によって自作への世間の不評が生じたことへの言い訳に、話題の映画の『甘い生活』を持ち出したようにも聞こえる。
ところが、大方の批評家やメディアの時評が否定的であったなかで、ここに描かれている「巨大な空白」こそ三島の主題であるとして、この小説を「いかにも燦然たる成功である」と評価したのが江藤淳である。
かつて戦争という〈椿事〉を待ち望んでいた少年が長じて、〈戦後〉の復興と成長の陰の巨大な〈空白〉を証して見せた作品として、江藤は逆説的に『鏡子の家』に一票を投じた。それは十年余りのちに三島が自裁した直後、江藤が示した醒めた反応につながる、ある確信に基づくものだろう。
壁に阻まれて破滅してゆく男たちを見ながら、『鏡子の家』の女主人は心のなかでこう呟く。
男たちが去った高台の〈鏡子の家〉にある日、永く別れていた夫が何事もなかったように戻ってきて、鏡子の家は一見何の不足もない、かつての満ち足りた山の手の家庭に還ってゆく。
「精神が肉体の比喩で語られ、言葉が外在化されたとき、作家の内部にはひとつの明瞭な輪郭を持った「空白」だけが残る」と江藤淳は指摘する。
観客の不満表明で迎えられたこの鳴り物入りの意欲作は、〈戦後〉という同時代に身丈を合わせるように「肉体改造」に取り組んだ三島が試みる〈内面の外在化〉の造形の試みであった。
作品は作者の意図を超えて〈戦後〉という時代の巨大な「空白」の壁を描くことに成功した、と江藤は見る。
それはボディービルやボクシングで鍛えて三島が獲得した筋肉と引き換えに、「この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期は消えてしまった」という認識につながっている。
闖入してくる七匹の猛犬の咆哮とともに〈鏡子の家〉にかつての日常が戻るとき、彼らの〈青春〉が〈戦後〉という家とともにも崩壊する。
*
壮大な企図を持った失敗作『鏡子の家』の女主人とその舞台は、実は三島の青春期に重要なかかわりを持つ一人の女性がモデルとされている。三島の亡くなった妹の友人で平岡家と家族ぐるみに付き合いのあった、湯浅あつ子である。のちに三島が見合い結婚をする日本画家、杉山寧の長女、瑤子と引き合わせたのも、この三島と同年の女友達のあつ子であった。
男勝りの姉御肌で、日系二世の技術者だった夫が不在勝ちだったこともあり、東京・品川の高台の邸宅にはさまざまな友人、知人たちが出入りした。『鏡子の家』はこの屋敷を信濃町に移して舞台を設定したとみられる。岩下尚史の『直面(ヒタメン)』などによれば、あつ子は三島とは姉と弟のようなつきあいだったようで、一九五八(昭和三三)年六月一日に六本木の国際文化会館で行った三島と瑤子の結婚披露宴は、あつ子がのちに再婚した外国人タレントのロイ・ジェームズが務めている。
ともあれ、不評にまみれたこの「問題作」に対して一人、江藤淳が「燦然たる成功」といささかの皮肉を含んだ賛辞を寄せたことは、三島にとってせめてもの救いであった。
一九六二(昭和三七)年二月二十七日付けで三島が江藤に寄せた手紙が残る。
東京・馬込に三島が白亜の邸宅を建てて転居したのは一九五九(昭和三四)年の六月である。ちょうど『鏡子の家』が完結して出版された頃であったから、この「ヴィクトリア王朝時代のコロニアル様式」と呼んだ白亜の家と『鏡子の家』の文脈的なつながりが詮索されることは、必然であったろう。
この白亜の屋敷の設計にあたったのは、清水建設の設計部にいた鉾之原捷夫である。三島の「ヴィクトリア王朝時代の植民地様式」という要求に、彼が「よく西部劇に出てくる成り上がり者のコールマン髭を生やした金持ちが住んでるあれですか」と応じると、「ええ、悪者の家がいいね」と破顔したという。「ロココの家具にアロハシャツ、ジーンパンツで過すのが理想」と三島は鉾之原を煙に巻いた。
三島は新居を建設するにあたって、明確な一つのイメージを持っていた。
『鏡子の家』の取材でニューヨークに滞在した折に親しんだという、アグリー・ヴィクトリアンと呼ばれる室内装飾の様式の建物である。それはニューヨークに転勤した商社員の杉本清一郎が山川財閥の夫人に誘われて出かけるワイルドパーティーの会場として、小説の中に登場する。
新しい邸宅は、これに三島の植民地風のラテン趣味を加えて設計された。夫人の瑤子とともに欧州旅行で買い集めたスペイン・バロック風の家具調度や美術品が飾られた屋内と、大理石のアポロ像のレプリカが建つ前庭などを眺めれば、そこにはさながら異国趣味の展示場といった趣きが漂う。
ともあれ、この邸宅は馬込の閑静な住宅街で異彩を放った。
真っ白な外壁にはバルコニーと円形の破風窓が並び、前庭には黄道十二宮のモザイクの上に大理石のアポロ像が立つ。スペイン風のテラコッタや陶板で装飾された石造りのベンチがそれを囲んでいる。屋内の吹き抜けの高い天井からシャンデリアが下がる応接間には、ロココ風の猫足の調度があちこちに置かれている。三島が拘った「ヴィクトリアン王朝のコロニアル様式」という趣味の内部は、あたかも『アポロの杯』で彼が描いた欧米各地の旅土産を陳列したような、きらびやかな混沌に包まれていた。
この家で三島はまず、家族を育む平凡な一家の主人として、自らを演出している。
いくぶん韜晦のポーズをとりながらも、三島はこの新居で営む家庭の風景を楽し気に記している。伝統主義者にもかかわらずライフスタイルは徹底的に西洋風で、食事はビーフステーキを愛好し、家での普段の服装はラフなアメリカンスタイル、大切な接客にはスーツにネクタイで応じた。
書斎では「勤勉な銀行員のように」と形容したように、毎日定まった時間に精力的に小説の執筆に励み、ボディービルをさらに続けた。『鏡子の家』で描いた、鏡子と四人の男のデカダンスとアンモラルな〈家庭〉とはおのずから異なる、作家の新しい日常がそこに浮かび上がる。
けれども〈三島由紀夫〉が建てたこの白亜の邸宅が、単なる彼と家族の生活の器としてだけあろうはずは、もちろんない。しばしばパーティーが開かれて、屋敷はこの時代の日本を代表する三島の知人の芸術家や知識人たちが集う、華やかな社交の空間となった。
吉田健一、ドナルド・キーン、川端康成、澁澤龍彦、森茉莉、横尾忠則、美輪明宏‥‥‥。記録に残されている来訪者の名前を拾い上げてみれば、おのずからその空気は伝わる。時には鳴り物入りで盛装の舞踏会も開かれたこの館を、近隣では「大森鹿鳴館」などと呼んだというから、それはとりたてて特色のない東京近郊の住宅地に異彩を放ったに違いない。
『鏡子の家』が世間の不評にさらされるなかで、〈白亜の邸宅〉に移り住んだ三島はそのころ、どんな日々を送っていたのか。
一九六〇(昭和三五)年三月、俳優として出演した増村保造監督のアクション映画『からっ風野郎』の撮影現場で、誤ってエスカレーター上に倒れて後頭部を強打、虎の門病院に入院した。
東京都知事選の候補になった元外相、有田八郎と老舗料亭の女将の恋愛を描いた『宴のあと』は、のちに日本初の「プライバシー裁判」に発展する。
週刊誌のグラビアに「ぼくはオブジェになりたい」というタイトルで出演。『お嬢さん』『スタア』などの娯楽小説を女性誌に連載した。
一九六一(昭和三六)年一月に二・二六事件に取材した小説『憂国』を発表。深沢七郎の『風流夢譚』の皇室風刺をめぐって右翼が版元の中央公論社社長宅を襲った嶋中事件で、三島にも警備がついた。
一九六二(昭和三七)年、UFO(未確認飛行物体))の実在を信じる家族を主題にした『美しい星』と〈英雄の失墜〉の時代を少年の目からとらえた『午後の曳航』を書いた。自らが裸体のモデルとなって、ナルシズムを存分に満たした細江英公の写真集『薔薇刑』も出版されている。
確かにフェリーニの『甘い生活』が描いたように、マスメディアの広がりと大量消費が主導する大衆社会は、この国でも熟しつつあった。女性向けのエンターテインメントから映画やグラビア雑誌への自身の〈出演〉、はたまた〈二・二六事件〉にUFOまで、ほとんど脈絡のない三島の作家活動の無秩序な広がりは、「時代をまるごと描く」という『鏡子の家』の目論見が頓挫した必然的な結果であったのかもしれない。精神と肉体の〈等価交換〉によって、彼は〈戦後〉という迷宮に踏み込んでいたのであろう。
*
〈白亜の邸宅〉の外側では、〈戦後〉という時代が大きく転換しようとしていた。占領下から脱した日本は、日米安保条約の改正をめぐって大きな対立をかかえ、条約の自動延長の期限である一九六〇(昭和三五)年六月にはその批准をめぐって国論を二分する政治の争点となっていた。
連日国会前は条約の批准阻止を求める野党や労働組合、全学連の学生らによる反対デモが取り巻き、条約改正の自動成立を前にした六月十五日には警官隊との衝突でデモ隊にいた東大生、樺美智子が死亡した。列島には騒然とした空気が覆ったが、それも法案が国会を通過して新たな条約が自然成立すると、あたかも熱湯に冷水が注がれたように世情は沈静してゆく。
条約の批准とともに退陣した岸信介に代わって首相の座に就いた池田勇人が掲げる「所得倍増政策」は、高度経済成長の坂を上りつつある国民に「豊かな暮らし」と「平和と安定」へ向けた夢を確かなものにした。
『鏡子の家』でニヒリストの商社員、杉本清一郎は鏡子に向っていう。
〈戦後〉という迷宮に踏み込んで、豊かな社会へ向かう時代が繰り広げるカーニバルのような大衆文化の坩堝に身を投じた三島にも、夢想した〈世界崩壊〉は逃げ水のように遠ざかりつつあったのであろう。
一九六〇年の日米安保条約改定をめぐる国論の対立と混乱に対しては、多くの作家や知識人も賛否の論陣を張ったが、保守主義者を自認する三島がこれに積極的に発言した形跡は乏しい。藤原定家の「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」を鏡として、〈迷宮〉の内側で政治への関与を避けるつもりだったのだろうか。のちに改憲などを掲げて〈蹶起〉にいたる歩みを考えれば、戦後のこの時代の三島の〈非政治性〉は何を語っているのだろう。
十年後の自決の直前に残した『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』と題した一文で、三島が「私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しいい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ」と書いたのは、おそらく正直な告白であったに違いない。
彼はこれに続けて「ある種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうち私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった」と振り返っている。
デモ隊にいた東大の女子学生の死者まで出した一九六〇年の日米安保条約の改正をめぐる騒乱は、その直後から言論をめぐる右翼のテロ事件を誘発させて、それが三島のなかに眠っていたものを覚醒させたであろうか。
最初は同じ年の十月十二日に東京・日比谷公会堂の立会演説会の壇上で、弁士を務めていた日本社会党委員長の浅沼稲次郎に大日本愛国党党員で十七歳の山口二矢が刃物で切り付けて刺殺した事件である。
翌年の一九六一年一月、作家の大江健三郎がこの事件の犯人をモデルにした小説『セヴンティーン』を雑誌「文学界」に書き、その描写を「不敬」とする右翼の抗議を受けて掲載元の文藝春秋が謝罪文を掲載した。以降近年までこの作品は単行本などから除外されてきた経緯がある。
同年十二月には作家、深沢七郎が小説『風流夢譚』に天皇皇后など皇族が斬首される夢を見たというパロディーを書いて宮内庁が名誉棄損と抗議し、一方で出版元の中央公論社に右翼が抗議に押し掛ける騒動となった。右翼団体の抗議はその後も続き、翌年二月には東京・市ヶ谷の同社社長、嶋中鵬二宅に右翼団体に所属する十七歳の少年が闖入、応対した夫人と2人の家政婦に刃物で切り付け、家政婦の一人を死亡させた。この事件を機に右翼の言論介入が続き、同社の衰退の一因となったともいわれる。
三島はこの事件の発端となった深沢七郎の『風流夢譚』を事前に出版社から入手して読んでおり、二・二六事件に取材して執筆していた自作の『憂国』とのかかわりを疑われて、三島にも脅迫状が届くという顛末もあった。
新婚ゆえに二・二六事件への蹶起から外された近衛歩兵連隊の中尉夫妻が「皇軍相撃」を避けるべく割腹心中を遂げるまでを描いた『憂国』は、この一連のテロ事件と連動するかのように、一九六一(昭和三六)年一月の「小説中央公論」に発表された。戦後のシニシズムの迷路から脱皮しようという衝動が三島のなかに生じたのである。そこで彼が期待する新たな〈椿事〉とは何だったのか。
三島の〈白亜の邸宅〉の書斎に、一見この屋敷の佇まいとは異質なポップなイラストレーションの作品がかけられていた。横尾忠則の『眼鏡と帽子のある風景』で、紙にカラーインクで描いた、アンディ・ウォーホルのポップアートを思わせる同時代の作品である。
三島は生涯でいくつかの絵画と運命的な出会いを経験している。少年時にグイド・レーニの『聖セバスチァンの殉教』と出会った経験や、ヴァトーの『シテール島への船出』への愛着についてはすでに触れたが、このイラストレーションにはいかにも「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」の屋敷とは不似合いな、軽くて不気味な〈昭和〉の平穏が揺蕩っている。
山高帽にロイド眼鏡の男が横目で視線を投げかける画面の下で、日傘をさして振り返る裸女と猫、そして男たちの群像が沖合に船がゆく海辺にたたずんでいる。ローマの古典美術からルネサンス、せいぜいがロココ時代までを贔屓にした三島が、なぜこの日本のポップアートに心を惹かれたのか。
一九六五(昭和四〇)年五月に横尾が東京・日本橋で開いた個展会場に、ふらりと現れた三島はこの絵の前に立ちつくし、その場を離れないことから会場にいた横尾が進呈を申し出た。作品は三島の書斎の仕事机の横に掛けられた。
どこかで『シテール島への船出』とも重なる、先の見えない〈戦後〉の迷宮に漂うロココ的な不安を、三島はこの絵に見出したのかもしれない。 その奇妙な平穏の先に、彼は何を見ていたのだろうか。
第六章 雪の朝、銃声響く
帝都が純白の雪化粧に覆われたその朝、十一歳の平岡公威は東京四谷の学習院初等科に登校して初めて、事件のことを知った。
「総理が殺されたんだって」
級友の子爵の息子が声を潜めてそう囁くのに対し、彼は「ソーリってなんだ」と無邪気に聞き返し、ようやく総理大臣のことだと知った。
斎藤内府が殺された私邸も学校のすぐ隣にあり、その朝の教室には不気味な不安が広がっていた。授業の一時間目が終わると、担任教師が以後の授業は休校とすることを伝え、「帰り道でどんなことがあっても、学習院生たる誇りを忘れてはならない」と訓示した。しかし、降り積もる雪のなかを帰校する彼の身辺には、何事も起こるわけではなかった。
「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた。少年たちが参加するべきどんな行為もなく、大人たちに護られて、ただ遠い血と硝煙の匂いに、感じ易い鼻をぴくちかせていた」と三島は書いている。
二・二六事件についての少年時の三島の記憶はそのようなものだったから、それは成人して作家としての活動を広げるなかで、格別に大きな記憶として彼のなかに保存されていたようには見えない。戦後の十数年余りは「大人しい芸術至上主義者」とみられるようなシニシズムを身上として、好戦的なものを遠ざけてきたのであれば、なおさらのことであろう。
ところが一九六〇年の日米安保条約の改定をめぐって起きた、相次ぐ言論テロ事件と前後して、三島のなかに眠っていた〈2・26幻想〉がにわかに覚醒し、大きな主題となって立ち上がってきたのである。
最初に作品になったのは、深沢七郎の『風流夢譚』をきっかけに起きた嶋中事件と同時期の一九六一(昭和三六)年に発表された『憂国』であり、さらに同じ年に二・二六事件で襲われて生き延びた重臣の戦後をシニカルに描いた戯曲『十日の菊』、そしてその五年後、重臣を襲撃して処刑された蹶起将校らが戦後、天皇の人間宣言に呪詛の声を上げる『英霊の聲』を書いた。これをあわせて三島は「2・26三部作」と呼んでいる。
『憂国』はこのような書き出しで始まっている。
三十才の中尉と二十三歳の妻は華燭の典を挙げてから半年に満たない。蹶起の計画を知らされなかったのは、その新婚の身の上を案じた反乱軍の同僚たちの配慮によるものだった。
勅命で彼らを討伐する立場に置かれた武山中尉は「皇軍相撃」の運命に深く悩んだあげく、妻の麗子とともに自刃、割腹の死を遂げる。
割腹自決の決意を伝える夫に、妻の麗子は「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」と答えて、最後の褥の支度をする。
この作品は四年後、三島自身の制作、監督、主演の映画『憂国』として公開された。わずか三十分足らずの短編だが、能舞台を使って様式美を強く打ち出したモノクロの画面に台詞はなく、字幕だけで場面が進行する。
中尉夫妻の最後の愛の営みと、神前で軍服に身を包んだ中尉の割腹自決、さらにそれを見届けた死化粧の妻の自刃の場面まで、画面はワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の荘重な旋律が導いてゆく。
二人の道行を前にした神々しくもある性の交わりと、至高の悦楽とともに流される夥しい血と苦痛こそがこの作品の主題であることは、この映像でもはっきり浮かび上がる。つまるところ、この作品のなかの「二・二六事件」という歴史は、作者が「一篇の至福の物語」を立ち上げるための演劇的な書割にすぎない。
三島はこの作品について、次のように自註している。
確かに武山中尉にとって、もう一晩待てば叛徒は鎮定され、「皇軍相撃」の事態は回避されるだろう。しかしこの夜の悲境こそ、彼等二人にとってその愛が苦痛を伴った死に導かれて至福へつながる、楽園なのである。
「しかもそこには敗北の影すらなく、夫婦の愛は浄化と陶酔の極に達し、苦痛に充ちた自刃は、そのまま戦場における名誉の戦死と等しい至誠につながる軍人の行為となる」と三島は書いている。
この倒錯した愛と死がもたらす「快楽の原理」を、彼はどこから掘り起こしてきたのだろうか。それは、あの海の彼方に「椿事」を待ち続けてついに見えなかった、仮想的な戦争体験であり、その予兆として十一歳の雪の朝に教室で友人から伝え聞いた二・二六事件にほかならなるまい。深々と雪が降りしきる事件の朝、蹶起して政府要人や重臣を殺害し、中枢機関を占拠した青年将校らはほどなく無血で平定され、処刑される。それは「椿事」を待ち望む少年にとっての、大いなる「神の死」を伝える前奏曲であった。
『憂国』で滔々と描いた、性愛と自己犠牲による死が一体となった至福の時間という主題について、三島は 戦争中に読んだニーチェとフランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユのエロティシズム論に大きな影響を受けた、と手に内を明かしている。
バタイユはその著作の『エロティシズム』の序文に「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だということができる」と簡潔に定義している。それゆえ、そこに〈犠牲〉 という観念の行為が変数としてかかわることによって、彼らのエロスの愉悦は極大値に飛躍するのである。
『憂国』でこの夫妻の〈犠牲〉の対象となるのは、叛徒となった友人の青年将校たちであり、その陰には見えない観念としての〈天皇〉がある。
『憂国』のなかで、〈二・二六事件〉は三島にとってこうした〈エロティシズムの逆説〉をめぐる物語を構築するための、演劇的な装置という意味合いしか持ち得ていない。叛乱将校らが蹶起に至る社会的背景とされてきた昭和初期の農村の疲弊や、「君側の奸」を排除したという彼らの自負に反して激怒した天皇が討伐を指示するという、事件の根幹にかかわる事実への言及を全く排除しているのは、最初からこれを「エロスとタナトスの物語」として純化するための作者の意図によるものであろう。
*
短編小説の『憂国』が「小説中央公論」に掲載されてからほどない一九六一(昭和三六)年末、三島は戯曲『十日の菊』を発表し、文学座創立二十五周年記念公演として杉村春子、中村伸郎らによって上演された。
戦後の日米講和が発効した一九五二(昭和二七)年秋に時点を移して、一九三六(昭和一一)年の事件(作劇上の都合で一〇・一三事件とされている)でテロを逃れて生き延びた元大蔵大臣、森重臣とその一族の〈戦後〉が描かれる。
タイトルはもちろん、重陽の佳節に遅れて届く菊の花に例えた笑劇のニュアンスが込められている。かつて湘南のその屋敷で叛乱兵の襲撃にあった重臣は、辛うじて難を逃れて戦後はサボテンの栽培に感けて閑雅な老後を生きている。十六年後のその日、かつての女中頭だった菊が訪ねてくる。
なんのための再訪なのか。事件当日のある〈秘密〉を伝えるためである。
事件の折、寝室で菊は乱入した叛乱兵たちに妾を装って裸で対面し、主人の重臣はその隙に秘密の脱出口から逃げ延びた。娘の豊子や同居する重臣の姉妹の女たちの前で、重臣と菊の間の〈秘密〉が明るみに出されてゆく。
〈秘密〉はほかにもある。
同居している長男の重孝は戦地で捕虜虐殺に問われたが、罪を部下に押し付けて無罪となって復員した。それを菊に告白して、自殺をほのめかす。
実は菊にも〈秘密〉がある。小田原の聯隊にいた一人息子の正一がその日、蹶起に加わって重臣邸襲撃の一員となり、寝室で母の菊と鉢合わせをして知った事実を苦にして、翌日自殺しているのだ。菊の無償の献身と犠牲によって、重臣は奇態なサボテンを育てながら〈戦後〉を生き延びている。
「私はこうして生きのびた人間の喜劇的悲惨と、その記憶の中にくりかえしあらわれる至高の栄光の瞬間との対比を描きたかった」と三島は書いている。「至高の栄光の瞬間」とは一九三六年の二・二六事件という〈椿事〉の謂いであり、それは銃弾と刀剣で叛徒に狙われた人間が分かち合う一瞬の〈夢〉である。菊はその日、寝室で裸体を晒して叛徒と対峙し、息子を失った。
その〈秘密〉を告白して欺瞞を暴いた菊に対し、重臣が「ここまで憎みあったら、あとは愛することしか残っていない」と寂しく訴えるのに憐みを寄せて、菊は再びこの家の住人になることを決意する。
「一度お助けしたら、どこまでもお助けするのが、私の気性なんですの」という言葉とともに―。
しかし、この戯曲においても〈天皇〉と〈天皇制〉という二・二六事件の思想的核心に横たわる問題については、依然として登場人物の台詞の背後にほのめかされる程度で、直接言及されてはいない。
それはおそらく、二・二六事件で叛乱将校らが起こした要人暗殺を含むテロ行為を天皇その人が激怒し、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と述べて討伐を指示するという、彼らの意図とは真逆の方向へ事態が展開したことによっている。大御心にかなうと信じて決行した蹶起が天皇自身によって否定され、「叛徒」の汚名によって指導者の大半が処刑されたのだから、それは必然である。
くわえて戦後の「象徴天皇制」と天皇の「人間宣言」が三島の天皇観と全く背馳することが、この問題を回避させた大きな要因であったろう。
『十日の菊』のあと三島は、UFOを目撃して自分たちを宇宙人と確信する家族を主人公にした『美しい星』(一九六二年)、横浜の美しい未亡人と恋に落ちた外航船の船員が、失墜した「英雄」の罪でその息子たちに毒殺される『午後の曳航』(一九六三年)、近江絹糸の労働争議に材をとって日本の父性のかたちを描いた『絹と明察』(一九六四年)などを書いた。
そして一九六六(昭和四一)年、三度目の二・二六事件をめぐる作品として『英霊の聲』を発表する。事件で処刑された青年将校や南の海に特攻で散った勇士らが、死後の世界から「人間宣言」をした昭和天皇に怨嗟の声をあげる、鬼哭の物語である。ここへきて、三島はそれまで迂回して遠ざけてきた「天皇」と「天皇制」の問題とようやく正面から対峙するのである。
『英霊の聲』は主人公が一夕、出向いた「帰神の会」での出来事として、神主である盲目の霊能者の青年が過去から呼び出した帰神の声を歌い、石笛の吹奏とともに参会者がそれに唱和してゆく神事を描いている。
そこで呼び出された神霊の声はまず、〈戦後〉の泰平と私欲に満ちた世相を嘆き、次第に物質的な繁栄の影で失われてゆく美徳と大義を暴いて問いかける。それは最後にその堕落と荒廃の因って来るところとして、昭和天皇の「人間宣言」に呪いの声は向かう。
なぜ天皇は「人間」になられたのか。「などて天皇は人となりたまいし」という激しい怨嗟の声を繰り返すのは、いったいどのような神なのか。
神主の青年がその神になり替わって「われらは裏切られた者たちの靈だ」と答える。「われらは三十年前に義軍を起し、叛乱の汚名を蒙って殺された者である。おんみらはわれらを忘れてはいまい」と。
青年はさらに神の言葉を続ける。
続いて南方の海から来たという「弟神」の声が重なる。彼らは神風特別攻撃隊としてフィリピン沖の敵艦を撃滅して死んだ。
昭和二十一年春、GHQの示唆を受けて、昭和天皇は自らの意志に基づく「人間宣言」の詔勅を出した。現人神にあらず、「実は朕は人間である」というのである。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」
語りがそこに及ぶと、青年はひときわ高くこの畳句をくりかえし、やがて憤怒のなかで手拍子も乱れてゆき、息が途絶えた――。
*
戦後、「大人しい芸術至上主義者」を身上にしてきた三島由紀夫が突然〈二・二六事件〉に覚醒し、一九六〇年頃から事件と天皇や天皇制を主題にした小説や論評を次々に発表する。それは象徴天皇制への批判を通した憲法改正や自衛隊の治安出動などの政治的な主張となって、ついには私兵組織「楯の会」とともに陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、割腹自決を遂げるという凄絶な最期につながっていった。不可解と唐突の感は、半世紀後もぬぐえない。
三島自身が、その不可思議な衝動について記している。
『憂国』を原作、制作、監督、主演で映画化した一九六五(昭和四〇)年には、ライフワークとなる長編小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』の雑誌連載が始まり、後年戯曲の最高傑作となる『サド侯爵夫人』を発表した。ノーベル文学賞の有力候補として初めて名前が挙がった年でもある。公私にわたって〈作家三島由紀夫〉は絶頂期にあり、いささかの逡巡の入り込む余地は窺えない。
そのようなときに身辺に募って来た〈故知れぬ鬱屈〉とは何だったのか。なにがそれをもたらしたのか。〈二・二六事件三部作〉を執筆する過程で、それまで避けて通って来た「天皇制の岩盤」へ糸を手繰ってゆくと、戦後の天皇自身の「人間宣言」に行き着いた、と三島は述べている。
『英霊の聲』が発表されたのとほぼ同じ一九六六(昭和四一)年末、〈二・二六事件〉の中心を担った皇道派の元主計将校として逮捕され、翌年銃殺刑に処せられた磯部浅一が獄中で書き残した手記が発掘され、公表された。その内容が三島のなかで「天皇」像を大きく膨張させ、そして爆発させるもととなった。
「天皇陛下 なんという御失政でありますか」
「皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
激しい呪詛を繰り返すこの獄中手記が、爛熟してゆく〈戦後〉の緩慢な日常のなかで、三島が抱えていた〈故知れぬ鬱屈〉に火をつけた。
事件を主導した磯部浅一は皇道派の主計将校で、陸軍士官学校事件などにかかわって免職となったのち、菅波三郎、村中孝次ら陸士同期の同志や理論的指導者の北一輝、西田鋭らとともに〈二・二六事件〉の蹶起を企てた人物である。
一九三六(昭和一一)年二月二十六日、「国家改造」を唱えたこのクーデター計画は、政府首脳や重臣らを標的にして約千五百人の部隊を動員、首相官邸や警視庁、報道機関など首都の中枢を襲撃して内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎ら政府、軍首脳が暗殺された。
事件のさなかに、皇道派に近い侍従武官長の本庄繁が「ソノ精神ニ至リテハ、君国ヲ思フニ出タルモノニシテ、必ズシモ咎ムルモノニアラズ」と内奏したのに対し、昭和天皇は「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と激怒する。戒厳令が発布され、奉勅命令により叛乱部隊はすべて原隊復帰して、三日後に叛乱は鎮圧された。
主導者の磯部は逮捕後、軍法会議で死刑を宣告され、翌年八月に銃殺刑に処されたが、この間に獄中で書き継いだその日記を東京陸軍衛戍刑務所の看守が持ち出し、戦後の一九六七(昭和四二)年に雑誌『文藝』三月号に掲載された。
天皇自身の勘気と軍部の「奉勅命令」に二重に裏切られた磯部の獄中の怒りは激越であった。にもかかわらず「内なる靈の国家」の神である〈天皇〉の救済を最後まで渇望しながら運命とたたかう記述に、三島は深くうたれた。
三島はこの磯部の獄中手記を読んだ直後に「『道義的革命』の論理--磯部一等主計の遺稿について」と題する論考を雑誌『文藝』に発表する。
磯部浅一の獄中手記から彼の情念がもっとも強く揺さぶられたのは、公判で次々に退路を断たれて、たちまち死刑が求刑されたにもかかわらず、なお「大御心」を恃んで恩赦で生きることを確信する、その楽天性である。
「余は七月下旬には出所できる、出所したら一杯飲もう、等云いて、栗(原)、中島をよろこばしたものだ。軍部や元老重臣が吾々を殺さうとしたところで、日本には天皇陛下がおられる」と磯部は記した。
三島は発掘された獄中手記に見出した磯部の「絶望的な楽天主義」を、このようにとらえて、「人は日常生活では、これほど肺腑をえぐる、しかもこれほど虚心坦懐な告白に接することは、めったにあるものではない。そこにあるのは、人間の真相に他ならない」とまで述べている。
そのわずか二年後、東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の二階バルコニーに立ち、若い同志と共に自衛隊員らに憲法改正へ蹶起を促しながら果たせず、割腹自決を遂げる三島自身の影がすでにそこにある。
叛乱軍の行動を一時は容認しながら手の平を返した陸軍中枢への激しい憤怒はもちろん、彼らの「赤心」が天皇の怒りに触れて鎮圧されたことへの鬼神のような呪いの言葉は、戦後の象徴天皇制のもとで「神」から「人間」に生まれ変わった天皇に対する、いらだちと疑念を三島のなかに呼び起こしていった。それはやがて自身が繰り広げる破天荒な〈蹶起〉への通奏低音となった。
戦後、「人間」となった昭和天皇と三島が直接会う場面はなかったが、もっとも近づいたのは一九六六(昭和四一)年一月八日、最後の長編小説となる連作『豊饒の海』の取材で皇居を訪れ、宮中三殿を見学して祭祀にあたる巫女の内掌典に会ったときであろう。その見聞は『英霊の聲』に描かれた。
象徴天皇として爛熟しつつある平和な戦後日本の偶像にさえなった昭和天皇に対し、三島は「賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かち詩人である天皇のお姿は生きている」(『文化防衛論』)と述べて、文化伝統としての一縷の希望をつないでいる。
しかし三島にとって、「人間」を宣言して泰平の戦後社会の象徴となった現実の天皇はもはや遠い陽炎のような存在であり、彼の肉体は自己目的化した〈蹶起〉へ向かって走り始めようとしている。
「『道義的革命』の論理」を発表してから二か月後、三島は初めて単独で陸上自衛隊に体験入隊した。年末には航空自衛隊百里基地でFIO4戦闘機に試乗した。さらに学生を引率した入隊訓練が五回も繰り返されていく。
彼を取り巻いていた「故知れぬ鬱屈」は〈二・二六事件〉という遠景を引き寄せて、明らかにある方向へ向かって急速に転調していった。
第七章 「この庭には何もない」
最後の長編小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』の雑誌連載は、脚色、演出、主演まで担って自作の『憂国』を映画化した一九六五(昭和四〇)年に始まっている。ノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がり、日本を代表する作家として前途は洋々とみえた。
自身が生きてきた時代を舞台装置に選んで、〈伝統〉と〈行動〉、〈時間〉と〈輪廻〉という主題をつないで描いてゆくたくらみは、戦後の三島のなかで静かに熟しながら、入念に設えられてきたのであろう。けれども、この大河小説は物語が進んでゆくにつれて、建築家が構造設計を誤った建築物のように、どこかで歪んだ眺望を人々にもたらしていった。
それは作家の中に育まれた、〈虚構〉としての作品の世界を圧する激しい〈行動〉への衝動がある時期から噴出して、ついには作品それ自体を浸食していったからである。もちろん、その衝動とは〈天皇〉という内なる観念を膨張させた三島が現実へ向けて働きかけはじめた「蹶起」への強迫である。
『豊饒の海』を雑誌『新潮』に連載していたころ、三島は出版社のPR誌に『小説とは何か』というエッセイを書き継いでいた。
ライフワークの大河小説の連載の合間をぬって、息抜きのように好みの作家の作品を取り上げて縦横に論じる筆は自在であるが、精緻をきわめている。稲垣足穂、國枝史郎、ジョルジュ・バタイユ、芥川龍之介、トルーマン・カポーティ、柳田國男など、扱う作家にもいかにも三島らしい一癖も二癖もある選択が感じられるが、そのなかに自身がいま取り組んでいる『豊饒の海』をとり上げた一篇がある。
ちょうど第三巻の『暁の寺』を脱稿した直後で、これから最終巻の『天人五衰』にとりかかろうという時期だから、一九六九(昭和四四)年の後半である。そこで三島はある切迫した「不快感」にとらわれたことを告白している。この「いい知れぬ不快」の感覚は、作品が完成に近づくことで〈現実〉との緊張と対立が失われてゆくことから生まれた、と三島は言っている。
作品が完結して終われば、〈現実〉のなかに漂っていたものはすべてそのなかに取り込まれて、茫漠とした空虚の中に作家は取り残される。
それはどのような芸術家であっても経験する、創造の快楽が伴う懲罰的な時間であり、畢生の大河小説であればその揺り返しの波の大きさは容易に想像できよう。ところが三島がこの時点で告白している根源的な〈不快〉の感覚は、作品という虚構のなかに構築した〈現実〉と実際に彼が生きている現実世界が作る時間の対立と緊張が融解し、作品が自立してゆくとともに一方の〈現実〉が失われようとしている、という苦い認識に由来する。
第三部の『暁の寺』の擱筆とともに訪れたこの経験を、三島は「この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、一方が作品の中へ閉じ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであろうか」と自問する。
ここで三島が「椿事」を待ち続けた少年時代の記憶の造形として挙げている『海と夕焼』は、一九五五(昭和三〇)年に書いた短編小説である。
――鎌倉時代、建長寺で寺男を務める主人公の安里は流謫の末にこの国にたどり着いた碧眼のフランス人である。村童から仲間外れになった盲目の少年を連れて寺の裏山に上り、稲村ケ崎の海辺に広がる夕焼けを眺めながら、はるか遠い来し方をフランス語で語り掛けるのを常とした。
ある夕暮れ、少年のアンリは白い輝く衣を着たキリストが丘の上から降りてくるのを見た。主は手を差し伸べて、こういった。
丈の高い橄欖の木の梢に天使が群がり、その下に八歳の預言者があらわれて、集まった羊飼いの少年たちを前におごそかな口調で言う。
各地から集まった少年の十字軍はペストがはびこる険しい旅路を越えて、マルセイユに着いた。しかし、海が二つに割れてエルサレムへの道が開くことはなかった。幾日も待っても海は開かれない。そこへ一人の信心深そうな男がアンリたちに近づき、自分の持ち船でエルサレムまでの海路を提供したい、と申し出た。十字軍の少年たちはこの提案を勇んで受け入れて船に乗り込んだが、マルセイユを発った船はエルサレムへの航路を外れて南へ南へと船首を向けて、ついにはエジプトのアレキサンドリアに接岸する。
そして、少年たちはことごとく、奴隷市場に売られてしまったのである。
アンリはペルシャ商人の奴隷となり、さらに売られてインドへ渡った。そこで日本から仏教を学びに来ていた大覚禅師に出会い、自由を得て仕えるようになった。恩情を受けた禅師が日本へ帰るにあたり、望んで見知らぬ極東の地へ伴うことを選んでこの地にたどり着き、長い歳月が流れた。
たしかに、ここには〈椿事〉を待ち続けて〈英雄〉を夢みながら、ついにそれにまみえることができなかった三島その人がいる。安里が言葉の通じない盲目の少年を連れて建長寺の裏山から眺めている赫奕とした稲村ケ崎の夕焼けは、〈信仰〉を失い〈神〉と〈奇跡〉とも遠ざかった三島の〈戦後〉という時代を映す鏡であろう。
*
〈椿事〉への期待はこの対立と緊張の彼方で、あたかも蜃気楼のように戦後の三島のなかに揺らめき続けていたのである。その均衡を崩していったきっかけが、ライフワークの長編小説『豊饒の海』の進行と、作者の三島がそのころ抱えた〈現実〉とのあらわな乖離であった。『小説とは何か』のなかに示された一種異様な「不安」の表明は、そのあらわれなのである。
『豊饒の海』は第一巻の『春の雪』、第二巻の『奔馬』、第三巻の『暁の寺』、第四巻の『天人五衰』をつなぐ長編小説である。それは作者の生きた時間とほぼ重なる大河小説であり、読み方によれば〈時代〉を通観した歴史小説でもある。この作品の成り立ちを改めてたどりながら、三島が「恐ろしい予感」に伴う不安に襲われた『暁の寺』の擱筆と『天人五衰』の間の亀裂に立ち入って、奇怪で不可解な自裁に至る作家の晩景に佇んでみたい。
『豊饒の海』は輪廻と転生という主題のもとで、松枝清顕という大正時代の侯爵家の嫡男が幼馴染の公卿の令嬢、綾倉聡子との悲恋の果てに20歳で病死したあと、次々にその時代の男女に姿を変えて遷移しながら遍歴を重ね、20世紀の後半に至る物語である。その導き役となって歴史の時間に同伴しながら老耄してゆくのが、清顕の刎頚の友であった本多繁邦である。
それぞれの巻は『春の雪』で〈和魂〉つまり雅を、『奔馬』で〈荒魂〉つまり益荒男を、『暁の寺』で〈奇魂〉すなわち異界を描く、と三島は自ら解説している。最終巻の『天人五衰』ではこうした遷移の到達点としての〈虚無〉が、あの奈良・帯解の月修寺で門跡となった聡子によって明かされてゆく。
小説の建付けとしてみれば、あの壮大な失敗作といわれた『鏡子の家』が、戦後という同時代の空間で〈三島由紀夫〉が四人の分身によって演じられてゆく〈共時的〉な作品とすれば、『豊饒の海』はそれを歴史の時間のなかに置き換えて、輪廻と転生という〈遷移〉のかたちが松枝清顕という人物の発展形として示されてゆく〈通時的〉な作品ということができよう。
『春の雪』は巻末に作者自註があり、〈『豊饒の海』は「浜松中納言物語」を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatis の邦訳である〉と記されている。
平安時代に『源氏物語』がもたらした大きな影響のもとで書かれた後期の王朝物語の一つで、作者は『更級日記』の著者の菅原孝標女と伝えられる。菅原道真嫡流の才媛で、『源氏』の全巻を暗誦したという伝説を持つ女性である。
『源氏』の「宇治十帖」に原型を求めたこの物語では、式部卿宮の息子で知性と容色に優れた中納言が継父の娘の大君の愛を受け止めながら、実父が没後に唐土の太子に転生したという夢の告知を受けて、強く望んで遣唐使として唐の国へ渡る。一方、日本に残された大君は帝の皇子と結納した身で中納言の子を懐妊して婚姻は解消となり、剃髪して仏門へ入って中納言の娘を生む。
この流れは、ほぼ『春の雪』に敷衍されてゆく筋書きだが、著しい特色は唐土へ渡った中納言が経験するエキゾチックな風物や人物が〈夢〉に導かれて物語を動かしてゆくことである。
海路唐へ向かった中納言は、まず運嶺から杭州、歴陽、函谷関を経て長安の都へ到着する。当時の知識で想像した経路はもちろん正確ではないが、貴族たちが知識や文化の交流を通して得ていた異国への想像力が描写に散りばめられている。
中納言は父の生まれ変わりの唐の太子と出会うが、唐后の母の美貌に惹かれて契りを結び、若君が生まれる。三年の唐の滞在期間が過ぎると、中納言は託されたこの若君を伴って帰国する。その後、都と吉野や大宰府などへ場面を転じながら、中納言とその娘、式部卿宮と取り巻く人々の転生と転変の物語が繰り広げられる。
『春の雪』の主人公の松枝清顕に向かって、親友の本多繁邦は何かの予感に促されるようにそう語りかける。
「貴様は幸福ということを言っているのか」
と清顕は訊く。
「そんなことを言った覚えはないよ」
「それならいいけれど、僕には、貴様みたいなことはとても怖くて言えない。そんな大胆なことは」
「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」
「何か決定的なもの。それは何だかはわからない」
『春の雪』の導入部、晩秋の晴れた午後に広大な松枝侯爵邸の庭の中の島に寝ころんで、十八歳の主人公が親友の本多とかわす会話である。
「何か決定的なもの」を探りたいという清顕はその二年後、聡子との禁断の恋に敗れた身を病んで身罷ってしまうが、そこから彼の転生がはじまる。
清顕が『浜松』の中納言に見立てられているのはいうまでもない。
幼馴染の綾倉伯爵家の美しい令嬢、聡子から好意を寄せられながら、清顕が理由なくそれを拒んできたのは、自らに課してきた〈みやび〉という伝統の流儀のゆえであった。
「優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を」と彼は考える。
清彰に拒まれた聡子が洞院宮家との婚姻を定めと受け入れて、勅許が下りるとそれを待ち受けたように、清顕は聡子に激しい恋情を募らせて近づいてゆくのである。隠れて禁じられた逢瀬を重ねた挙句に聡子は清顕の子を宿し、堕胎して宮家との婚姻は解消となった。すべてを失った聡子は奈良・帯解にある尼寺の月修寺へ入り、髪を下ろす。
聡子との面会を求めて春浅い大和の尼寺を訪ねた清顕は門前で拒まれ、風花の舞うなかを待ち続けるうちに発熱して病に倒れた。駆け付けた親友の本多に伴われてて帰京してほどなく、二十歳で清顕は死ぬ。
謎めいた言葉を残して―。
死んだ清顕の〈夢と転生〉の物語は、第二話の『奔馬』、第三話の『暁の寺』へと時代を下りながら、主題の転換と生まれ変わった人物を通してすすむ。
『奔馬』は日本がファシズムへ向かう昭和前期を舞台にした〈荒魂〉の物語である。主人公は松枝侯爵家の書生と女中との間に生まれた飯沼勲。過激な天皇主義者であり、腐敗した財界をテロリズムで浄化しようと企てる右翼青年である。
明治初年に起きた熊本の「新風連事件」に心酔して「昭和の神風連を興す」と仲間とともに計画した蹶起に飯沼は失敗し、刑の免除で釈放されたのちに、財界の巨頭で金解禁を唱える蔵原武介を単独テロの対象に選んで、それを成し遂げる。
公判でこのように陳述した飯沼は、伊豆山中の蔵原を別荘に訪ねあて、用意した短刀で刺殺したのち、海を臨む丘の上で自刃するのである。
長じて大阪控訴院の判事となった本多は、たまたま来賓として奈良・三輪山の大神神社で開かれた奉納剣道試合に列席した折、選手として出場していた飯沼と出会った。試合後に近くの三光の滝で水垢離をともにして、飯沼の左の脇腹に三つの小さな黒子を認めて彼は驚愕する。二十年近く前、月修寺の門跡の教えを受けて知った「三つの黒子」の徴が、死んだ清顕の転生の証しとしてあったからである。
それは「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」という清顕が遺した言葉とも符合した。飯沼がそれから〈荒魂〉を滾らせたように過激なテロリズムに向かい、計画に失敗して捕らわれると、運命の導きを深く受け止めた本多は判事の職をなげうって、弁護士として飯沼の歩みを見守ってゆくのである。
飯沼勲の失敗した蹶起は、一九三二(昭和七)年に起きた「血盟団事件」をモデルにして描かれたとみられる。井上日召が唱えた「一人一殺」に呼応して、小沼正や菱沼五郎ら右翼青年が前蔵相の井上準之助や三井合名理事長の團琢磨らを暗殺したこの事件を三島が素材に取ったのは、もちろん自身の時代経験と重なっていることがあろう。
「天皇」という超越的なカリスマを頂いたテロルが、226事件という〈政治行為〉としてそのころの三島自身の現実のなかで大きくクローズアップされていたこととも無縁ではあるまい。しかし、その「天皇」の姿はここではついにリアルな存在としては現れず、飯沼のテロルと自裁の後景にいわば象徴的なアイコンとして浮かび上がるだけである。
それは、この作家が究極の行動の拠と頼んだ〈天皇〉があくまでも観念上の存在であって、ついに天皇その人と相わたることが作品と現実の両面で不可能であったことを、ゆくりなく示している。
『奔馬』はその意味で、三島のなかに立ち上がりつつあった現実、つまり戦後の四半世紀にわたって彼方に追いやっていた〈行動〉へのあこがれの沸騰と、その失墜をたどる物語という性格をあらわにしている。
『奔馬』の末尾で、死の三日前に飯沼勲が酔って発したこの譫言に導かれて、第三話の『暁の寺』では司法官となった本多が八年ののち、シャムのバンコクを訪れる。三島は『暁の寺』をエキゾチックな心理小説として〈奇魂〉と呼んだ。本多はこの大河小説の時系列を貫く視点話者となり、清顕の輪廻と転生を見届ける証人として、かつて清顕とともに学習院で級友だったシャム王室の二人の王子を訪ねて、バンコクの薔薇宮に足を運ぶのである。そこで出会ったのは、級友の一人だったバッタナディット殿下の末娘、七歳の月光姫であった。
ジャン・ジャンは宮殿のその席で突然、本多に縋り付きながら叫んだ。
この出会いをきっかけに、本多はベナレスなどを旅してインド思想への関心を深めていった。南国の激しい陽光に包まれた風土の下で、〈輪廻転生〉が現実のなかに生々しくあることを確信するかたわらで、『暁の寺』では現実が一瞬のうちに虚に化してしまうという、〈阿頼耶識〉が説く唯識論の思想が延々と繰り広げられる。それにはもちろん、三島自身が一九六七(昭和四二)年九月にインド政府の招待でインドを旅行し、聖地ベナレスで得た経験が深くかかわっている。
大乗仏教の根本を生す唯識論の生死観を目の当たりにした三島は、『暁の寺』の主人公の本多にそれを語らせることによって、行動の大きな転換点に立った。すなわち、三島自身がいかに死すべきか、という自問と向き合ったのである。
成長して来日した美しいジン・ジャンに恋着した本多は、転生の徴である脇腹の〈三つの黒子〉をその体に認めて、清顕から勲、そしてジン・ジャンというの輪廻と転生の物語は一応の連環のもとでつながっている。
しかし、ジン・ジャンはやがて記憶を失って帰国したのち、コブラに噛まれて死ぬという唐突な結末によって、物語は第四巻の『天人五衰』にあわただしく引き継がれる。この荒唐無稽でリアリティーを欠いた『暁の寺』の顛末には、すでに三島が『小説とは何か』で激しく吐露した、あの「言い知れぬ不快感」がもたらす作家の精神の亀裂が隠されているといってよかろう。
*
三島が遺した『豊饒の海』の「創作ノート」には、書き出しに「輪廻転生の主題」と見出しを付けた各巻の構成についてのメモがある。
〈輪廻転生の主題
個性の蔑視
一ヒーローの超性的転生
第一巻 夭折した天才の物語
―芥川家モチーフ
(自殺、夭折、過淫、多病)
第二巻 行動家の物語
―北一輝のモチーフ 神兵隊事件のモチーフ
第三巻 女の物語
―恋と官能―好色一代女
第四巻 外国の転生の物語
第五巻 転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語
―人類の普遍的相
―人間性の相対主義
―人間性の仮装舞踏会
(浜松中納言物語のモチーフ 全巻に見えかくれする)〉
全五巻で構成された計画は実際には大きく変わっているが、とりわけ最終巻の『天人五衰』は当初の構想と同じ時代と人物配置によりながら、その展開と結末は真逆といってもいい色調に変じている。
物語がここではじめて戦後の実時間に追いついて動き出し、「書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説」として、作者が『幸魂』へ導くものと考えていた流れは暗転する。何よりも、当初一九七一(昭和四六)年末に想定していた四部作の完結は、作家の自裁と同じ一九七〇年に繰り上げられた。
第三巻『暁の寺』の擱筆とともに取り巻いた重苦しい〈不快感〉は、作家のなかに眠っていた〈英雄的な死〉への衝動を呼び起こして三島を現実の行動へ駆り立てていった。光明へ向かう解脱を思い描いていた最終巻の『天人五衰』は、その歪みを受けて作品としての均衡を失い、虚無の迷路に入り込む。
『天人五衰』で本多繁邦はすでに七十六歳の老境であり、富と孤独と死の影に囲まれながら暮らしている。十六歳の孤児で太平洋を望む清水港近くの船舶信号所の信号員、安永透と三保の松原で出会い、ここでも「脇腹の三つの黒子」をこの少年に認めてこの孤児を養子に迎えた。
松枝清顕の輪廻転生を探って、本多が飯沼勲からジン・ジャンへとその遷移を辿って来たのは、知的な認識者としての自身の生命が育む夢の確認のためであったが、その最後の夢を透という少年に見出したのである。
本多はこの少年に高い教育を施し、教養と作法を施してゆくのだが、強い自負と自己愛に包まれた〈天使〉として振る舞う透は、次第に本多への敵意と軽蔑をむき出しにしてゆく。二人はいわば同じ認識者として鏡を前にして竦みあうような関係に陥り、本多は転生者としての透を〈精巧な偽物〉と疑い始める。
関係の崩壊は必然であった。透は自殺未遂の挙句に失明し、精神を病んだ少女と暮らしながら衰弱する。本多は深夜の神宮外苑での痴漢行為が明るみに出て、法律家としての立場を失ったのち、病に倒れた。すべては嘘と虚構だったのでは、と疑わせるどんでん返しによって、夢と輪廻転生の連環は絶たれようとしている。
三島はこの連載の着手前に書いた『豊饒の海』の「創作ノート」に、『天人五衰』の展開について次のように述べている。
つまり安永透は「阿頼耶識」の体現者として本多の前に現れるのである。
「創作ノート」で老境の本多は、少年の安永透に転生の証しを認めて歓喜に包まれながら解脱への道へ向かう。プルーストの短編『バルダサール・シルヴァントの死』のなかで、インドへ向かう船を部屋の窓越しに眺めている主人公が、美しい過去の記憶を呼び起こす村の鐘の音を聞きながら迎える「幸福な死」のイメージを、三島はそこに重ねている。
これとは対照的に、作品となった『天人五衰』が辿る結末の悲劇的、と呼ぶ以上に解体的な小説の構造は、背景が作家の当初の設計から大きく乖離していった結果である。光明の空へ船出をするはずだった安永透は、転生者の〈精巧な偽物〉であることが暴露された挙句に、滅びてゆくのである。
第四巻の『天人五衰』が当初の構想から全く異なった結末で終わることについて、三島は御殿場の自衛隊演習地から川端康成にあてて送った、一九七〇(昭和四五)年三月五日付の手紙で触れている。
第三巻の『暁の寺』の脱稿を境に作者の三島を覆っていた〈いいしれぬ不快感〉は溢れ出して物語を制御する力を失い、〈作品〉の均衡を突き崩して「英雄的な死」へ向けた現実の〈行動〉へと彼を駆り立てている。
「天人五衰」は「天人終命の時に現れる五種の衰相」を伝える経本の定義に由来する。衣服が垢にまみれ、頭上の華が萎み、腋膏から汗が流れ、身体に不快な臭気が漂い、本座に安住するのを楽しまないという、老いの相を意味する。
本多は病み衰えた体に鞭打ってある日、奈良・帯解の月修寺に門跡となっている聡子を訪ねて面会することを決断する。万緑に覆われた山門をくぐって、案内された客間にあらわれた門跡は、本多が口にした松枝清顕の名前にこう応じた。
門跡はさらに続けて本多に語りかける。
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それに近いように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
清顕がいなかったのなら勲も、ジン・ジャンもいなかったことになる。そして本多自身さえも‥‥。
『天人五衰』のこの結びのあとに〈「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日〉と認めた最後の原稿を自宅に託して、その朝三島は「蹶起」に赴いた。
第八章 〈英雄〉と蹶起
自裁する三年まえの一九六七(昭和四二)年二月、雑誌『芸術新潮』が「三島由紀夫の選んだ青年像」という主題で八点の美術作品をとりあげた。「闘志」「苦悩」「理知」「悲壮」といったテーマに合わせて、ティツィアーノの『手袋を持つ男』やベラスケスの『バッカスの勝利』などとともに、ジャック・ルイ・ダヴィッドの『ナポレオン・ボナパルトの肖像』が「英雄」の表象として紹介された。
像主のナポレオンは二十八歳、未完で余白を残した最初の肖像画である。イタリア遠征から戻ったばかりの青年将軍は、のちに皇帝の首席画家となるダヴィッドから肖像画の制作の申し出を受けて、パリのルーヴル宮でポーズをとった。
三島はこう述べている。
〈英雄〉という三島の想念の水脈をたどれば、「戦争」をはさんで虚無と夢想に包まれたおのれの遣る瀬のない青春にゆきつくはずである。彼方には〈戦争〉が赫々と燃え盛っているが、その〈祝祭〉に出遅れた彼は蜃気楼のような眺めの向こうに息づいている秘めやかな〈椿事〉を期待しながら、むなしく敗戦の日を迎える。やがて荒廃と無頼と奇妙な活気に覆われた〈戦後〉の日々がめぐるなかで、いつかその〈椿事〉が訪れたとき、彼のなかの〈英雄〉は混沌とした〈世界〉の救済者として姿をあらわし、やがて悲劇的な栄光へと導かれてゆくだろう‥‥。
失墜する〈英雄〉のモチーフは、折に触れて彼の戦後の作品に繰り返し登場する。
『海と夕焼』で鎌倉の建長寺の寺男として生きる流謫のフランス人、安里がそうである。「同志を連れて東へ行くのだ」という預言者の言葉に導かれて出航したマルセイユから聖地エルサレムの奪回を目指すが、「地中海の水が二つに分かれる」という奇蹟はついに起こらない。人身売買でエジプトから送り込まれたインドで日本から来た禅師と出会い、伴われて遠路遥々たどりついた極東の島国の寺領に身を沈めている。
〈英雄〉になれずに信仰も捨てて、遥か東の果ての仏教寺院に身を沈める安里に、三島は自らの〈戦後〉を重ねる。
一九六三(昭和三八)年に書き下ろしで刊行された『午後の曳航』は、横浜の山手の洋館を舞台にして、元町の輸入洋装品店を営む美しい未亡人の黒田房子と、外航船の二等航海士の塚原龍二の恋を端正に描いてゆく。表向きは浪漫的な男と女の物語であるが、「英雄の失墜」によって大きな暗転が仕掛けられている。
房子の十四歳の息子の登はある夏の夜、母が連れて帰った二等航海士の塚原との寝室を覗き見ながら、背後の開け広げた窓辺に港から届く船の汽笛を聞く。
月、海の熱風、汗、香水、熟しきった男と女のあらわな肉体、航海の痕跡、世界の港々の記憶の痕跡、その世界へ向けられた小さな息苦しい覗き穴、少年の硬い心‥‥。これらの断片が窓辺から聞こえる汽笛を通して「彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のっぴきならない存在の環」を浮かび上がらせた。
「海から飛び出してきてまだ体が濡れたままの、ふしぎな獣みたいな奴なんだ」と登は仲間の少年たちに報告して、〈英雄〉の姿をその男に認めた。
エディプスの神話をふまえて、息子の登がやがて〈悪魔〉になってその恋を滅ぼしていくのは、いかにも小説的な常道であろう。しかし、登と仲間の少年たちによって塚原が最後に毒殺される理由は、波濤を越えて激しい赤道直下の陽光や積乱雲に抱かれてきた孤独な海の男が、〈英雄〉として生きることを捨てたことにある。
半年の航海を隔てて房子との恋を実らせ、船を降りて登の新しい父親になる塚原は、少年たちを前にして目(め)眩(くる)めくような航海の記憶を巡らせる。〈海〉への回想がめぐる。
船を降りた塚原がちんまりとした陸の日常の暮らしにつき、新たな父親として振る舞い始めたとき、登は強い失望の底に沈んだ。「夏の出帆の時など、あれほどまで遠ざかる船の光輝の一部になっていたこの男が、あんな美しい全体から身を切り離し、好んで自分の幻から船と航海の幻を断ち切ってしまったのだ」と。
海から陸へあがって〈英雄〉の資格を失った塚原は、「航海の話を聞きたい」という少年たちに連れ出された港を臨む丘の上の乾ドックで、差し出された毒入りの紅茶を一気に飲んで死ぬ。
塚原と房子、そして登という三人が入れ替わりながら視点話者となり、「英雄の失墜」を主題にして進行するこの作品は、華麗でエロティックな装いをとりながら、実は〈戦後〉という時間の推移のもとで作者自身が内部に募らせてきた〈英雄〉の観念の成長とその崩壊を造形した物語と読むことができる。
例えてみれば、〈英雄〉たらんという野望を秘めて孤独な船乗りとして生きてきた塚原は三島その人であり、房子はその三島を港に迎え入れた〈戦後〉という時間である。ならば、その〈英雄〉に焦がれた挙句に失墜して新しい〈父〉となる塚原を殺す息子の登とは、どういう存在なのだろうか。
それは〈椿事〉を待ち続けながら遊弋してきた〈戦後〉の時間についに耐えきれず、〈英雄〉へ向けて行動を起こしてゆくもう一人の三島なのである。文壇ばかりでなく映画や演劇の企画と出演、はたまた写真のモデルなどでメディアの寵児となった作家のなかに息をひそめていた〈英雄〉への渇望と幻滅が、十四歳の少年のなかに刻印されているのである。
三島は四十二歳を迎える一九六七(昭和四二)年の劈頭、『年頭の迷ひ』と題した随筆を『読売新聞』に寄稿した。ライフワークの『豊饒の海』の第一巻で優雅の頽落を主題にした『春の雪』が完結し、これに続いて血盟団事件をモデルにした武断の時代を描く第二巻の『奔馬』が始まろうという時期である。
ここで三島は年々、年頭に「ふしぎな哀切な迷い」が募って訪れると述べている。それは五年後にやってくるはずのこのライフワークの完結に伴って、自身のなかに隠し持ってきた「花々しい英雄的末路」を永遠に断念しなければならないという不安に由来する、と告白している。
日本の戦後を代表する作家であり、ノーベル文学賞の候補にまで擬せられている三島は、すでに「文学的英雄」の名に恥じない存在ではないのか。そんな問いを先取りするかのように、彼はこう続ける。
四十二歳という作家の年齢が、彼のなかで疼き続ける〈英雄〉への衝動を目覚めさせ、それが作家にとっての果実に等しい「作品」という構築物の設計をゆがめていく。『豊饒の海』が第二巻の『奔馬』のあとから迷走をはじめ、第三話の『暁の寺』は大乗仏教の阿頼耶識の教義の堂々巡りのような展開に陥った。
そして第四話の『天人五衰』にいたると、松枝清顕の転生者として現れた安永透が、実は「偽物」であることが明かされて自滅へ向かう。老残の本多繁邦は奈良の月修寺でいまは得度した門跡の聡子に会い、「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません」と告げられて、茫々たる虚無の中に立ちつくす。
三島が随筆に書いたように、もともと『豊饒の海』は昭和四十六(一九七一)年末の完結を想定して起筆され、転生する松枝清顕が『幸魂』つまり幸福な魂に導かれて結末へいたる構想であった。ところが抑えがたい〈英雄〉への衝動は、作家の蹶起と自決という予期しない終止符によって、完結はその一年前に前倒しされた。その結末も現実の「月の海」のような、荒漠とした虚無につつまれて終わっている。
三島はこの随筆をこう続けている。
〈哀切な迷い〉に導かれた作家がその文学上の営みの対極に思い描いた〈英雄〉の行動とは、いったい何だったのか。私兵組織の「楯の会」を組織し、三年後に陸上自衛隊総監部で憲法改正などを訴えたクーデターに失敗、ついには割腹自決を遂げるという作家の最期に、それはどう繋がっていったのか。
『年頭の迷ひ』で〈哀切な迷い〉を告白した前後、〈英雄〉の幻影を募らせて三島が歩んだ〈行動〉の軌跡をたどってみる。
前年の一九六六(昭和四一)年六月に三島は『英霊の聲』を発表、226事件で蹶起しながら処刑された青年将校らが天皇への激しい怨嗟の声を上げて、戦後の「人間宣言」で〈象徴〉となった現実の天皇への否認をはっきり示した。一方、翻訳・刊行したダンヌンツィオの『聖セバスティアンの殉教』は、自己犠牲によって死んでゆく〈英雄〉の図像化として、彼の生涯にわたる主題であったに違いない。
四十二歳を迎えた翌年の一九六七(昭和四二)年二月には、『豊饒の海』の第二部『奔馬』連載が始まった。このなかで財界の重鎮へのテロリズムに走る飯沼勲が行動の拠り所とした熊本の神風連事件に、三島が大きな思想的影響を受けたことはこの随筆に記している通りである。
復古主義を掲げて挙兵し、敗れて全員が自刃する明治初期の悲劇をモデルに仰いだ『奔馬』の物語は三年後、作家が「楯の会」の同志たちと起こす現実の蹶起と自裁に重なってゆくのである。
作品世界の現実と作家の現実が混同されてゆくことの危うさを、三島はこの頃雑誌に連載していた『小説とは何か』というエッセイのなかで触れた。
『豊饒の海』を書き進めながら、作家の二つの「現実」は対立と緊張の糸が切れて次第に相互に干渉しあい、病床のバルザックが「作中の医者を呼べ」と叫んだように、その境界が融解する。そこにはどんな新たな〈現実〉が生じるのだろうか。三島はこのライフワークが進行してゆく過程で、自身が危うんだ「二つの現実」が融解してゆく時間のなかへすすんで身を浸していったのではないか。
同じ一九六七(昭和四二)年の三月、三島は『「道義的革命」の論理―磯部一等主計の遺稿について』と題する論考を発表した。二・二六事件で部隊とともに蹶起し、叛乱と要人暗殺を主導して処刑された青年将校、磯部浅一の獄中手記がこのころ発掘され、公表されるとただちに三島はこれに反応したのである。
国家改造の道義を掲げて蹶起した皇道派の将校たちは、聖上と仰ぐ天皇の「大御心(おおみこころ)」に行動のすべてを預けたはずだったが、重臣の斎藤実ら要人の殺害に激怒した天皇その人から「叛徒」と否定される。あまつさえ、一時は蹶起に寛大な理解者のごとく振る舞っていた教育総監の真崎甚三郎ら陸軍幹部は、天皇の「緊急勅令」を受けてこれをにわかに翻し、磯部たちをただちに公判と処刑への道へ導いてゆく。
それでも死刑の求刑を受けた獄中の磯部はなお、楽観を崩さない。三島はそれについて「事態が最悪の状況に立ち至ったとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは〈最後の楽天主義〉の英雄的根拠だと思われる」と述べている。
二・二六事件を論じて熱に魘されたようなこの論考の文体が伝える、磯部浅一への激しい感情移入には、すでに三島のなかの「もう一つの現実」、すなわち〈蹶起〉への衝動がくっきりとしたかたちで現れている。それが日を追うごとに具体的な行動となっていくことは、それからの三島の歩みが明らかにしている。
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一九六七年四月の久留米を皮切りに、同志となる学生らとともに習志野や千歳、富士山麓など各地の自衛隊駐屯地で体験入隊し、実地訓優を繰り返した。この時点で、すでに三島のなかに一九七〇年十一月二十五日の〈蹶起〉と〈自決〉のイメージが作られてきたのだろう。日米安保条約の改定へ向けて、新左翼を中心に高まる反対運動に対抗して、民兵組織を発足させることがまず念頭にあった。
それが「楯の会」として一九六八年十月に発足するまでの間に、三島は民族派の学生組織にいた持丸博らとともに日経連常務理事の桜田武を訪れて活動資金の援助を依頼するなど、裏仕事も手掛けた。しかし桜田は協力に消極的で、ようやくはした金を差し出した程度の財界の対応に三島の誇りは大きく傷ついた。以降、学生たちを集めた訓練や会合など、すべて三島の自前の資金で運営するようになった。
戦前に陸軍士官学校を出て自衛隊調査学校長などを務めた山本舜勝にも、治安出動の際の「民兵」の行動訓練を仰いだ。街頭デモがエスカレートして過激化し、抑えられなくなった時に民兵組織が遊撃戦に打って出て、治安出動に動いた自衛隊とクーデターに持ち込む―。三島が思い描いたのはそのようなシナリオである。
全共闘などの学生たちは過激な自己主張と権力への反抗をエスカレートさせていたが、すでに戦後の民主主義と経済成長のさなかにあって、憲法改正と自衛隊の国軍化などを掲げたクーデターで社会制度を変える条件は乏しい。三島たちのゲリラ戦の「指南役」としてかかわる自衛隊の情報戦の専門家の山本でさえ、三島の考えるシナリオには懐疑的だった。「空想的ラディカリズム」とでも呼ぶべき三島のクーデター構想と、現実の政治状況との亀裂を決定的にしたのは、一九六八(昭和四三)年十月二十一日の国際反戦デーである。
翌年の日米安保条約改正の阻止へ向けて、空前の規模で繰り広げられた学生と労働者の街頭行動は、東京・新宿駅周辺で暴動化し、機動隊との激しい攻防が深夜に及んだ。学生たちは駅構内など鉄道施設や周辺の市街でバリケードを築いてデモと投石をくりかえし、集まった通行人や野次馬を巻き込んで一帯は無法地帯と化した。全国から三万二千人にのぼる機動隊員が動員され、千五百人が逮捕された。
その夜、ヘルメットと報道取材の腕章をつけて現場にかけつけた三島の興奮は尋常ではなかった。鉄橋の上から見ると、ゲリラの群れは建築現場から運んだ建材でバリケードを作り、機動隊に投石する。火炎瓶が投げ込まれる。そのあとを群衆が付き従い、催涙ガスが放たれると、蜘蛛の子を散らすように消えてゆく。
しかし、圧倒的な機動隊の力でゲリラの群れが鎮圧されると、またたく間に新宿の街は日常のにぎわいを取り戻し、自衛隊が出動するような場面はついに訪れなかった。それは成長と繁栄の時代の〈祭り〉が終わったということである。
一九六九年一月に東大安田講堂が全共闘学生によって占拠され、催涙ガスによる機動隊との激しい攻防の末に封鎖が解除された。学生たちの反乱はピークを過ぎた。こうした状況の下で、三島の描くクーデター計画はほとんど荒唐無稽であった。
要するに、三島が思い描いた〈左翼革命〉のゲリラ暴動化と自衛隊の治安出動、〈民兵組織〉の介入によるクーデターという筋書きが空振りに終わったのである。時代の気分は「人類の進歩と調和」を掲げて翌年行われる大阪万博の方へ向かっている。政治的には無意味としか思えない〈純粋行動〉に賭けるほかに、彼の選ぶ道はない。〈蹶起〉である。
ライフワークの『豊饒の海』を書き進めるなかで、三島に日増しに募っていったあの「故知れぬ鬱屈」は、空中の微粒子が集まって次第に膨張してゆくように不気味な球体に成長した。それは「楯の会」の若い同志たちを引き連れた自衛隊への直接行動の計画となり、やがて(蹶起)へ向かって破裂する。
三島をそこへ衝き動かした「時限爆弾」の源泉は、二・二六事件を通してわだかまったまま戦後のあいだ眠っていた〈天皇〉であった。『英霊の聲』を書いた後の『二・二六事件と私』という文章のなかで三島はこう述べている。
一九七〇(昭和四五)年十一月二十五日午前、三島は「楯の会」の四人の若者とともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪れ、益田兼利総監を人質にして中庭に自衛官を集合させたうえで、バルコニーから憲法改正と自衛隊の国軍化などを求めてクーデターを呼びかけた。しかし反応を得られず断念したのち、総監室で隊員の森田必勝の介錯によって割腹自決した。直前に、三島はバルコニーで「天皇陛下万歳」を叫んだ。この「天皇陛下万歳」の意味は決して単純ではない。
「楯の会」の発足にあたって一九六八(昭和四二)年に三島は『文化防衛論』を書いている。これはいわば、彼らが起こそうとしている〈蹶起〉を歴史と政治の文脈から説き起こした「建白書」といった性質の文章だが、〈蹶起〉への衝迫から前のめりの激しい言葉ばかりが躍った、三島には珍しい悪文といっていい。
しかし、そこで提起されているのは、〈純粋行動〉へ彼を駆り立てる究極の価値としての〈天皇〉が古来国民にとってすべてを抱擁する「文化概念」としてあったのに対し、明治維新以降の立憲君主政体のもとでそれは「政治概念」に置き換わり、ついには二・二六事件で青年将校らが恃んだ「大御心」に裏切られて悲劇となっていった道筋を、激しい息遣いで解き論じている。
三島が最後まで信頼を寄せた政治学者の橋川文三は、それを平田篤胤ら幕末の国学者の思想に重ねてこの論文を論じたうえで、三島の先行きを危ぶんだ。
三島と「楯の会」の〈蹶起〉とクーデターの非現実性は、その究極の実現目標にもあらわれている。『文化防衛論』でクーデターによって実現すべき具体的な改変として挙げられているのは、受け継がれてきた天皇の伝統行事の保存と継承を別にすれば、天皇の栄誉大権の実質回復と軍の儀仗や聯隊旗の直接下賜といった、天皇が行なう象徴的な儀式の復活だけにすぎない。行政府や議会、警察などの統治機能をどのように改めるのか、といった戦後の民主主義体制の下の制度変革の展望などについてはほとんど触れていない。限界と破綻は目に見えていた。
歴史をさかのぼれば、日本の文化概念としての〈天皇〉は「みやび」という伝統を通して「国と民族との非分離」の状態へ復元させる強かな原理として働いてきた。明治以降の西欧的な立憲君主の政体のもとで〈天皇〉はその超越的な力を失い、二・二六事件の悲劇にいたった―。三島はそう述べたうえ、戦後の象徴天皇制が「文化の全体性の総覧者」としての天皇をさらに衰弱させ、大衆社会化による「週刊誌天皇制」にまでその尊厳を失墜させた、と厳しい批判をなげかける。
三島の憤怒はゆきつくところ、天皇の〈大御心〉にすべてを預けて蹶起しながら「叛徒」として葬られた二・二六事件の青年将校たちの怨念に重なり、また戦後の天皇の「人間宣言」に対して「などてすめろぎは人間となりたまいし」と怨嗟の声をあげる『英霊の聲』の神々を呼び起こしてゆく―。
三島にとっての〈天皇〉は、日本の歴史がつないできた文化の連続性のなかの至高の〈観念〉として生きていた。その一方で、現実の天皇は二・二六事件で〈大御心〉を拠り所と仰ぐ青年将校らを〈叛徒〉と断罪し、〈人間宣言〉によってその伝統との連続性を断ち切った戦後民主主義の〈狡猾な政治的象徴〉でもあった。市ヶ谷のバルコニーで自決の前の三島が発した「天皇陛下万歳」には、そのような生身の今上天皇に対する激しい遺恨が、あわせて込められていたのではなかったか―。
二・二六事件の蹶起を主導した青年将校とともに、その「思想的首魁」として逮捕されて死刑の判決を受けた思想家の北一輝は、一九三七(昭和一二)年八月十九日に東京・豊多摩刑務所で西田鋭、磯部浅一、村中孝次とともに銃殺刑に処された。
その執行にあたって、刑場で最後に西田が「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と問いかけたのに対し、北は「いや、私はやめておきましょう」と応じなかった、と伝えられている。
国家を有機体ととらえて天皇をその中枢に置く「国体」の思想に、北一輝が終始冷ややかともいえる立場を貫いたことに、三島は引き裂かれていたに違いない。『北一輝論―「日本改造法案大綱」を中心として』で、その懸隔に触れている。
当初の三島の〈蹶起〉の計画に「皇居突入」という案があり、宮中に乱入して天皇と「斬り死に」するという考えさえ懐いていたことを、親しかった文芸評論家の村松剛や磯田光一が証言している。二つに分裂した三島の天皇観が、そうした奇怪で荒唐無稽な蹶起計画につながっていった可能性がある。
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毎日新聞バンコク特派員の徳岡孝夫が、タイで三島由紀夫と再会したのは一九六七(昭和四二)年の秋だった。三島が『暁の寺』の取材でインドのベナレスなどを旅する途中、バンコクに立ち寄ったのは、前年に続いてノーベル文学賞の候補に名前が挙がり、メディアの事前取材をのがれて日本を離れていたかったからである。
自衛隊へ体験入隊した三島を週刊誌記者としてインタビューして以来のつきあいだから、宿舎のエラワン・ホテルで会った三島は喜んで徳岡と食事をともにし、プールサイドで世間話に時間を忘れ、街へ出て映画館で一緒に娯楽映画を楽しんだりした。日本のノーベル賞騒動を避けて滞在している三島の退屈しのぎにと、徳岡は日本から持ってきている『和漢朗詠集』を貸し渡した。三島はのちに、そのなかに収められている「生ある者は必ず滅す 釈尊いまだに栴檀の煙免れたまはず」から「天人五衰」の標題を『豊饒の海』の第四巻に採った。
結局、その年のノーベル文学賞はグアテマラのミゲル・アストゥリアスに回り、前年に続いて三島は外れた。そして翌一九六八(昭和四三)年秋、三島にとっては王朝美学を引き継いだ文学上の師であり、終戦時に二十歳の彼を文壇に送り出した恩人でもある川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
国際反戦デーが近づいて巷は騒乱の空気につつまれていたが、三島は頼まれて自ら英文の推薦状まで書いた川端の慶事に曇りのない喜びのコメントを寄せ、川端の自宅の庭から中継するテレビの記念番組では「日本の伝統が世界の文芸思潮のなかで正統に認められた画期的なできごと」とたたえた。
しかし、自身が有力候補として毎年あげられていたこの最高の栄誉に外れて師の川端が受賞したことは、三島の〈蹶起〉への歩みを加速する発条になっていったであろう。「この次日本人が貰うとしたら、俺ではなくて大江(健三郎)だよ」というそのころの三島の予言は後年、その通りになった。「ノーベル賞なんてどうでもいいんだ」といった投げやりな発言も周囲に漏らすようになった。
べトナム戦争の前線取材など東南アジア各地での勤務を終えて、徳岡が東京の週刊誌の編集部に帰任したのは一九七〇(昭和四五)年の春であった。その年の晩秋の変事までの間に数度、三島と旧交をあたためる機会があったが、そのたびに作家の〈蹶起〉と死への傾斜が高じていくのを見た。その蹶起と自決は三島の主導で、引き連れられた「楯の会」の早大生、森田必勝が伴走者となって完結したものと今日では理解されているが、徳岡の受け止め方はいささか異なる。
〈二人の自決はふつう三島事件と呼ばれている。だが死に向かう原動力となったのはむしろ森田氏のほうではなかったかという疑念を、私は今も捨てきれていない。むろん「蘭陵王」の曲を吹いたというSという学生のイメージも、森田氏さらに三島さんの上に重なるのである〉
「楯の会」の自衛隊の体験入隊の折、訓練を終えた富士山麓の駐屯地の宿舎で、隊員の一人の若者が雅楽で使う横笛を取り出して「蘭陵王」を奏でた。美貌を仮面に隠して敵を打ち破った北斉の陵王の伝説を朗々と歌う美しい調べは、三島を陶酔させた。笛を措いてから、若者は卒然と三島に言った。「もしあなたの考える敵と自分が考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない」と―。
一九六九(昭和四四)年一月に発表した最後の短編小説『蘭陵王』は、前年の夏に「楯の会」の会員の若者たちと富士山麓の自衛隊駐屯地に体験入隊した一場面を描いている。訓練後の宿舎で、会員の一人の若者が携えてきた横笛を取り出して奏ではじめる。その透明な音色が炎暑の去った夏の夜の闇に茫々と漂い、聞いている三島と若者たちを包み込んだ。
同じ年の八月、三島は家族連れで毎年避暑にやってくる伊豆下田のホテルから川端康成にあてて手紙を書いた。
手紙で三島は「小生が恐れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です」と後事を川端に託した。しかし、その年の十一月三日に東京・半蔵門の国立劇場の屋上で行った「楯の会」の結成一周年記念のパレードに、川端は欠席した。
年が明けた。
〈決戦〉の年に前年の国際反戦デーを覆っていた「革命的な熱気」はすでに醒めかかっている。「人類の進歩と調和」を掲げて三月から大阪の千里丘陵で始まった大阪万博には世界七十七か国が参加し、米国の宇宙船アポロ十一号が持ち帰った「月の石」や最先端技術の粋を見るために人々が連日長蛇の列を作った。
七月に『豊饒の海』の最終巻となる『天人五衰』の連載がはじまった。
川端康成にあてた最後の手紙の日付は七月六日である。
すでに〈蹶起〉を処断した三島の、切々たる別れの書簡である。
十一月二十四日の昼過ぎ、東京・竹橋の毎日新聞社で定例の編集会議に出ていた徳岡孝夫に三島から電話が入った。「実はあす朝十一時に、あるところへ来てほしいんです。このことは、くれぐれも口外なさらないように願います」
翌25日朝、再び三島から電話があり、指定された市ヶ谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かう。車で新聞社から十分もあれば着く距離である。
午前十一時を過ぎて、市谷会館で待機する制服制帽姿の「楯の会」の会員から用意された茶封筒を受け取った。蹶起の手順と檄文、四人の同志との記念写真などが同封されていた。傍に同じように呼び出されたNHK記者の伊達宗克がいた。
総監室では、訪れた三島と「楯の会」の四人が東部方面総監の益田兼利と応接セットで対座していた。持ち込んだ日本刀を披露する隙に「楯の会」のメンバーが総監を捕縛、総監室をバリケードで封鎖した。異変を知って突入をはかる幕僚らとの間で激しい攻防となり、自衛官が次々に日本刀や短刀で負傷した。前庭に集められた隊員たちを前に、バルコニーから改憲などを求めた垂れ幕が下ろされ、檄文のビラが舞う。
正午、制服に鉢巻をした三島が森田とともにバルコニーで演説をはじめた。
「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神は空っぽになっている」
「諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ」「諸君の中に俺と一緒に起つ奴はいないのか」
自衛隊員のヤジと、上空の取材のヘリコプターの轟音がその声をかき消した。
総監室に戻った三島は上衣を脱ぐと裸になり、外へ向かって正座して下腹部に短刀を突き刺した。大声とともに横にそれを引いたところで、傍らに立った森田必勝が日本刀で介錯し、さらに一太刀浴びせた。血の海が広がった。拘束されている益田の制止を振り切って、森田が続いた。古賀浩靖が一太刀で介錯した。
わずか三十分足らずの出来事である。バルコニー前で三島の演説を取材していた徳岡孝夫は、もちろんその後の総監室で起きた惨劇をまだ知らない。しかし、ほどなく刻々と割腹自決の経緯が庁舎前の広場に残っている自衛隊員やメディア関係者に伝わって来た。三島から預かった手紙と檄文や写真の入った書類を手にして、徳岡が人影もまばらになった広場から正門へ下る坂を歩いていくと、思いがけない光景を見た。
歴史にも稀有な一九七〇年十一月二十五日の事件を包んだこの国の〈空気〉を伝える文章として、これを超える描写を私は知らない。
遅れて現場にたどりついた駆け出しの記者の私も同じ時間にその界隈にいたはずなのだが、その風景は全く視野に入っていない。もっとも仮にその光景を見ていたのなら、それこそが死に急ぐ三島由紀夫と束の間の爛熟へ日本が向う成長の時代を分け隔てた、残酷な対比の一景だったのだと妙に納得したのであろうが―。
第九章 無機的で、からっぽな大国
一九七〇年九月十三日、大阪・千里丘陵で行われていた日本万国博が閉幕した。世界七十七か国が参加し、百八十三日間にわたる内外からの入場者は六千四百二十一万人に上った。モノレールと動く歩道が会場をつなぎ、NASAのアポロ十一号が持ち帰った「月の石」を展示する米国館には連日長蛇の列ができた。音声認識のロボットや移動体通信などの最先端技術の粋は人々に〈戦後〉の終わりと、グローバルな近未来への夢を大きくかきたてたであろう。
とはいえ半世紀を経た今日、この国際的な巨大イベントの最も印象的な遺産は何だったのかと問われれば、それはいまも残るあの巨大なトーテム、美術家の岡本太郎が造形した「太陽の塔」であることに誰も疑いをはさむことはない。、
それは確信的なある〈文化〉への挑戦であり、対決であった。モダニズムの巨匠、丹下健三が会場中央の「お祭り広場」の上空を、鉄骨とガラスで作った幅百㍍、高さ三十㍍、長さ百九十二㍍という大屋根で覆った。最新技術を集めたお祭り広場の構築には、「人類の進歩と調和」という博覧会のテーマを体現する技術合理主義の未来と、成長の時代の先に広がる風景が形をあらわしていた。
そこへある日、プロデューサーに選ばれた岡本太郎が広場の完成した天井を打ち破り、巨大なトーテムを思わせるシンボルを建て始めたのである。当時、丹下の下で展示やイベントの演出にあたっていた建築家の磯崎新が振り返る。
「太陽の塔」は高さが七〇㍍、直径が二〇㍍、両手を広げた巨大な土偶のような立像の胴部は鮮やかな紅白にデザインされ、頂点に黄金の顔が乗っている。胴部にもう一つの顔が彫り込まれたその姿は、未開社会のトーテムのようでもあり、立ち上がってくる気配は謎めいて不気味でさえある。
設計者の岡本太郎が回想している。
「太陽の塔」は、その内部にも岡本太郎が滾(たぎ)らせた文明批判がさまざまな仕掛けで繰り広げられていた。地下の「いのち」の展示には生命体の根源をたどるたんぱく質やDNAの模型、「いのり」では世界の民族の仮面や偶像を陳列した。さらに「生命の樹」では人類の誕生にいたる進化の過程をアメーバや爬虫類などの生物の模型でたどる。文明の先へ向かって人類の進歩を探るというより、生命の源へ向かって遡行することによって、人間のもつ根源的な生命力を掘り起こそうという、まこと挑戦的なたくらみである。
科学技術と合理主義が導く未来への賛歌につつまれた万博会場で、中心の「お祭り広場」に屹立した岡本太郎の奇怪な「太陽の塔」は、それに対する大胆な〈ノン〉であった。広場の群衆のあいだに、三波春夫がうたうこの浮薄で明るい「万博音頭」の歌声が響きわたっていた。
〈蹶起〉への階段を足早に上りつつあった三島由紀夫が、この「大阪万博」にどのようなまなざしを注いでいたのか。あるいは、目を塞いで通り過ぎたのか。
七月に『豊饒の海』の最終巻となる『天人五衰』の連載がはじまってほどなく、三島は戦後二十五年をテーマに「果たし得ていない約束」という随筆を新聞に寄稿した。
「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」とは、〈蹶起〉を四か月後に据えて三島が大阪万博の喧騒の彼方に思い描いた、この国の近未来ではなかったろうか。
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一九七〇(昭和四五)年十一月二十五日の正午過ぎに三島が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自決を遂げた日の午後、駆け出し記者の私が近くに住む文芸評論家の江藤淳を訪ねて談話をとったことは、この稿の冒頭で触れた。
筆者は学生の頃に江藤淳とはささやかな接点があった。
縁といっても留学した米国のプリンストン大学から戻った江藤が、母校の慶應義塾へ非常勤講師で出講した「現代芸術」という講座を学部の学生として受けたという、それだけの経験に過ぎない。
西鶴や上田秋成、そして森鴎外などを講じた記憶がある。
若手の論客として評判の江藤の講座は人気が高く、教室はいつも学生があふれた。後年、作家の車谷長吉をはじめ何人かが、この講座の思い出を記しているから、若者にはそれなりの魅力をたたえた講義であったのだろう。
三島由紀夫の蹶起と自裁の直後、現場にいた私が向かった江藤の自宅はそこから目と鼻の先といっていいほどの距離にある高台のマンションである。人気作家の異様な自決からまだ数時間しかたっていない。
あの江藤淳がどのような発言をするのかは、個人的にも大きな関心であった。すでにテレビの現場からの中継や特別番組、新聞の号外、海外メディアへの速報など、日本中がこの異様な事件の興奮に包まれている。
にもかかわらず、書斎で会った江藤のあたかも事態を予知していたかのような冷静さは、かえって奇態にさえ映った。一時間余りの談話は翌日の紙面に「伝統回復あせる」という見出しで掲載された。その談話筆記がそのまま『小林秀雄 江藤淳 全対話』に収録されているので、一部を読み返してみよう。
三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁が〈戦後〉という時代の終焉がもたらした、作家の〈内部の反乱〉であったことを寸分の迷いもなく論じているのである。もちろん、ここでは「天皇」にも「自衛隊の国軍化」にも触れていない。
かつて三島が満を持して発表した『鏡子の家』をめぐって、文壇やメディアが示した冷ややかな反応に対し、三島由紀夫にとっての「空白の時代」である〈戦後〉を描いたこの作品を「いかにも燦然たる成功ではないか」とひとり擁護に回った江藤は、この作家の轟轟たる幕切れをどこかで予見していたのだろうか。
翌年の夏、「歴史について」というテーマで小林秀雄と対談した折にも、三島の死をめぐる見解で江藤はこの「批評の神様」と激しく対立して応酬した。
日本の伝統と〈皇御国〉に触れて「三島君の事件も日本にしか起きえない」という小林の言葉に江藤は「三島事件は三島さんに早い老年が来た、というようなものでは」と、まことに無体に返した。それに小林が「それは違う」と激しく反駁する。
「歴史というものはあんなものの連続ですよ」という小林に対して、江藤は醒めた言葉で立場を譲らない。「批評の神様」も形無しである。それは、三島の荒唐無稽な〈蹶起〉と自裁への違和感に加えて、日露戦争時に大本営高級参謀を務めた海軍大佐を祖父に持つ江藤が、自らを近代日本の〈治者〉に連なる立場に位置づけて、〈戦後〉という同時代の秩序に対する「責任」を自覚していたことにも、かかわっていたはずである。
*
ところが三島の死は、それから新しい悲劇の連鎖を呼び起こす。
まず、若い三島の才能の発掘者であった川端康成の自死である。
これまで往復書簡を通してたどってきたように、川端は少年の三島の絢爛たる才能を掘り出し、文壇に導いて作家としての足場を支えた恩師とよぶべき人である。ともに王朝美学の伝統を作品のなかに求めてきたという点では、美意識の類縁関係を結んだ〈同志〉でもあったに違いない。
戦中に十代の三島が初めて出版した『花ざかりの森』への謝礼にはじまり、自決の前の夏に三島が送った最後の手紙まで、大量の往復書簡が一冊の本になっているくらいに、二人の親密な関係は〈戦後〉一貫して続いた。
当初、昭和初期に西欧の新しい潮流の影響を受けた「新感覚派」のモダニストであった川端は、代表作の『雪国』で「トンネルの向こう」の温泉場を非日常的な〈異界〉に見立て、「駒子」というヒロインを通して日本人の心に潜む「かなしみ」を造形した。それは戦時下を生きる人々の眠った古層を目覚めさせた。
国粋的な美意識とは一定の距離を保ってきた川端が、敗戦をきっかけに〈日本〉へ回帰してゆくという歩みは、いかにも歴史の時流とは真逆である。それは西欧との対決に生きた畏友、横光利一の戦後の死が引き金となったといわれる。
声涙共に下る横光への弔辞は「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」という言葉で締めくくられる。そこから川端の戦後が始まっている。
川端が〈敗戦〉で得たのは、戦後の日本人が真の悲劇も不幸も感じる力を失ったという苦い認識であった。この虚無的な経験を通して「私は日本古来の悲しみのなかに還ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるいは信じない」〈『哀愁』〉という激しい宣言が生まれる。つまり、〈戦後〉を断念することから、川端の戦後ははじまった。
『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などの川端の戦後の主要作品に共通するのは、古典的な伝統美学を下地にしながらその中心に流れる虚無的なエロティシズムである。老人が眠り続ける若い娘をひたすら目で愛撫する快楽を描いた『眠れる美女』を、三島は「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と絶賛した。
その三島の先を越して川端が日本人初のノーベル文学賞を受賞するのは、繊細にして危ういエロスが国際社会からある種の異国趣味として評価され、自然や官能描写が好奇のまなざしに迎えられたことに負っている。
戦中戦後の川端の履歴とこうした作品に流れる耽美的な特質は、三島との強い文学的な親近性を裏づける。それゆえに、ある時点から三島が〈蹶起〉へ向けた行動に急速に傾いてゆくことを危ぶんで、川端は いささかの距離を置いた。
一九七〇年十一月二十五日、「三島自決」の日に川端康成は妻の秀子と美術史家の細川護立の葬儀の参列していた。一報を聞いて、その足で市ヶ谷の自衛隊の現場に駆け付けたが、すでにことは終わっていた。
ノーベル文学賞を受賞して以降、頻繁だった手紙のやり取りも減り、「楯の会」の一周年パレードも欠席していた。三島の過激な政治行動への没入に疑問を持ったからだが、ここに及んでは、自分が彼を諫止出来なかったことへの重苦しい悔いが襲った。
翌年一月に、川端はこのように書いた。
三島の自裁が、川端に大きな喪失感と動揺をもたらしたのは間違いない。
一月二十四日に東京・築地本願寺で行われた三島の告別式で、川端は葬儀委員長を務めた。そのあとの三月、東京都知事選挙で圧倒的な人気のあった革新系現職の美濃部亮吉の対立候補として、自民党が立てた元警視総監の秦野章の応援になぜか名乗りを上げ、街頭で選挙カーに立って候補とともに演説した。
ノーベル文学賞を受けた文豪であり、ずっと「政治」を遠ざけてきた〈日本美の伝道者〉が、革新都政を打倒するために立った強面の元警視総監の応援を突然買って出た理由は、謎である。無報酬、交通費まで自前でのぞんだその姿は、取材で会った私の記憶のなかでも奇態で、痛々しくさえあった。訝り、好奇のまなざしを寄せるメディアや世論のなかで、選挙は結局秦野の完敗であった。
不眠に悩む川端が睡眠薬の常用者で、以前からそのコントロールに苦しんでいることは家族や編集者など、周辺のだれもが知るところであった。三年まえのノーベル賞の受賞以降、それは高じてゆき、三島の自裁からのちの感情の起伏が著しくなっていたことは確かであろう。「三島君が夢枕に立つ」と周囲に漏らすこともあり、おそらく事態はそこから続いていた。
四月十六日の午後、川端は鎌倉市の自宅を出て、仕事場にしていた逗子マリーナのマンションへ赴いた。帰宅予定の夜になっても連絡がとれないため、午後九時ごろ家政婦二人が部屋を訪れると、自室でガス管をくわえた川端が絶命しているのが見つかった。そばに睡眠薬とウィスキーの瓶があり、自殺と断定された。
三島由紀夫が異形の死を遂げてから、まだ一年余りしかたっていない。後を追うような川端康成の自死に、江藤淳はすぐさま「なんとひどい、まずしい時代だろう。いたるところに穴があいている」と、怒りを含んだ悲傷をあらわにした。
『枕草子』の一節をひきながら、川端康成が四季と齢の巡りという日本の伝統のなかの〈自然〉を自らの手で断ち切った背後にある、大きな〈荒廃〉に、江藤の追悼の筆は及んでいった。戦後の川端が「日本古来の悲しみに帰ってゆくばかりである」と宣言した、その〈かなしみ〉は戦後の世相のなかで風化して、もはやない。
川端はノーベル文学賞を受けた翌年、ハワイ大学で行った『美の存在と発見』という講演のなかで、〈日本美の伝道者〉が拠り所とした王朝時代にさかのぼる古典文芸の伝統が、国際社会からの祝福を受けながらも衰微の一途をたどっていることに、深い失望を隠していない。「日本の物語文学は『源氏』に高まって、それで極まりです」という川端の発言を、いわば現代日本の文藝から衰退した〈伝統〉に対する鎮魂のことばとして、江藤は読み込んでいる。
日本の伝統文芸の衰弱をこのように受け止めていた川端が、三島由紀夫という王朝美学の〈嫡男〉を失った衝撃とそのあとの心細さは、想像を大きく超える。それは敗戦直後に畏友、横光利一を失ったとき、「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」と宣言した折の悲傷と喪失の感覚を、あるいは遥かに超えていたに違いない。
江藤淳は「あらゆる貴族趣味の外観にもかかわらず、大衆社会の産物だったという点で、川端氏の文学が三島氏の文学と奇妙に似通っていることは否定しがたい」と書いた。〈現実〉を喪失した戦後の川端康成の文学は、地域文明の特色も普遍的価値への足掛かりをもともに失い、孤立と袋小路に迷い込んだこの国の現実の表徴である。川端の自死はその崩壊を映した鏡だったのではないか―。
*
一九八五(昭和六〇)年の春、江藤淳は夫人の慶子とともに春の園遊会に招かれ、東京・赤坂御苑の会場にいた。あいにくの小雨模様で、濡れそぼる桜の花の下でほかの参会者と傘をさして佇んでいたところへ、侍従長の入江相政に導かれてモーニングコートの昭和天皇が、良子皇后とともに静かに歩んできた。
「文芸評論家の江藤淳氏でございます」
入江の紹介に、昭和天皇は江藤に近寄っていった。
「江藤かい、いまでも漱石やってるの?」
江藤がライフワークで取り組んでいる『漱石とその時代』のことである。
「そのとき畏れ多いことながら、私は陛下のお息を感じた」と江藤は書く。
それから四年後の一月、昭和天皇は八十七歳の生涯を閉じた。
江藤は「字余りのお歌」という追悼のエッセイを書いている。
亡くなる前年に天皇が遺した御製についての一文である。
前年の九月、伊豆の須崎御用邸で詠んだ歌だという。早朝、目覚めた床の中で聞こえていたアカゲラが木をつつく音が、ぱたりと止んだ。どこかへ飛び去ってしまったのだろうか。静まり返った部屋で、天皇は自身にそう問いかけている。
下の句が字余りの〈七八〉で終わる破調の「最後の歌」に、江藤は戦前戦後の「昭和」という二つの世を〈帝〉として生きた天皇の深い寂寥を見る。
かつて〈天皇〉という観念をめぐって、「現人神」と「人間」のあいだの自家撞着から異形の自裁に至った三島由紀夫をとらえて、「あれは一種の病気でしょう」と平然と答えて小林秀雄を怒らせた江藤が、昭和天皇の八十七歳の崩御に深い悲嘆を繰り返し、そのあとに始まった〈平成〉という時代に向かって激しい批判を浴びせるようになった。象徴天皇制を俎上にして激しい批判と叱咤の言葉を重ねてゆく姿は、一種異様にさえ映った。
夏目漱石が『こころ』のなかで描いた「先生」は、明治天皇に殉死した陸軍大将、乃木希典夫妻の後を追って自ら命を絶つ。その「先生」の姿を、江藤は自身に重ねていたのかも知れない。
崩御の翌日の一月八日、氷雨が降りしきる皇居前広場には玉砂利を踏んで、老若男女がぞくぞくと途切れることなく弔問の記帳に列を作った。天皇の崩御を悼む人並みは、さざ波のように続いて、その数は最初の十日間だけで二百三十三万人にのぼったという。古来の皇統のもとで日本人のなかに生きてきた「沈黙の合意」が、その求心力を動かしている、と江藤は述べている。そしてそれが〈平成〉の時代の進行とともに音もなく崩れはじめた、というのである。
冷戦構造が崩壊するとともに、グローバリゼーションの下で広がったバブル経済が破綻した。国内ではいわゆる〈五五年体制〉が崩れて、自民党の一党支配による長期政権が幕を下ろした。阪神淡路大震災によって六千四百三十二人の死者を出し、オウム真理教による地下鉄サリン事件などテロ事件が社会不安を広げた。〈平成〉の初めの五年間をたどれば、〈戦後〉を支えてきた安定と調和が恐ろしい勢いで揺らぎ、日本社会が分断されるという危機感が江藤のなかに広がったことは想像できる。
さりとて、その動揺がもたらす失意と憤怒の矛先が〈平成〉という新たな時代の日本の皇室のありようにまで及んでいったのは、なぜなのか。
一九九五(平成七)年一月十七日の未明に起きた阪神淡路大震災のあと、江藤は雑誌『文藝春秋』誌上に『皇室にあえて問う』と題した論考を寄稿した。そこでは大震災が起きたあとに、予定されていたとはいえ皇太子夫妻(現天皇皇后)が被災地への慰問を差し置いて、中東歴訪の旅へ出たことを憤るのである。
一九二三(大正一二)年九月一日の関東大震災のその日、当時摂政宮であった二十二歳の皇太子、すなわちのちの昭和天皇裕仁が直後から一睡もせずに情報を集め、翌日には一千万円の下賜金を拠出した。十日後には「天変地異ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ヤカニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ」との詔書を渙発したうえで、自らが被害の著しい帝都の視察に赴いている。
その歴史の経験と阪神大震災をめぐる皇室の動きを対比させて、「千年に一度という震災に遭遇し犠牲者の遺体がまだあちこちに埋まっているその最中に、あたかも何もおこらなかったがごとく、皇嗣が外国を歩いておられるとは何事であるのか」と、江藤は強い憤りをあらわにしている。
当時の雅子皇太子妃は江藤の遠戚にあたる。昭和天皇崩御のあと、江藤のなかに〈皇室の藩屏〉の意識が急激に高まっていったことも背景にはあろうが、そこから戦後民主主義と〈象徴天皇制〉そのものを真っ向から否定するような、激しい口吻を繰り返す姿に人々は驚き、戸惑った。昭和天皇の崩御とともに日本社会に広がる「昭和のエートス」の崩落を、江藤は冷静に受け止めることができなかったのである。
阪神大震災の四年後、一九九九(平成一一)年七月二十一日に江藤淳は鎌倉市の自宅で自死した。遺書が認められていた。
一年前に愛妻の慶子を病で失ったことから、著しい心身の疲労によって健康を損ねたことが自裁につながったとみられる。それに加えて「平成」という新たな時代に江藤が募らせた強い違和感が、衝動に拍車をかけたこともあったはずである。
江藤が『南洲残影』の雑誌連載を始めたのは、この大震災が起こる前年の一九九四(平成六)年の秋である。ライフワークの『漱石とその時代』がまだ道半ばという時点で、近代日本の悲劇の英雄で「偉大な失敗者」である西郷隆盛の西南戦争の敗走と自裁という、凄絶な最期をとり上げたのは(時運)であったのかもしれない、
演出家の久世光彦が、江藤の死をそう振り返っている。
『南洲残影』は勝海舟と江戸城の無血開城を成し遂げた英傑西郷が、政府から下野したのちに不平士族たちの私学校党を率いた西南戦争を戦って無残に敗走し、悲劇的な最期を遂げる姿を、薩摩琵琶の『城山』の曲譜に重ねて描いている。
敗北が自明なこのたたかいに西郷がなぜ立ったのか。江藤がここで舞台に選ぶのは薩軍が最後の死闘の末に滅んでいった田原坂の戦いの顛末である。
一九九五(平成七)年三月、江藤は取材のために熊本県植木町の田原坂の戦跡を訪れた。前日に東京ではオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きて、多数の死傷者を出している。その未曾有の出来事をとらえて、「この国が崩壊を続けていることだけは疑い得ない」と江藤は『南洲残影』に記している。
戦跡の田原坂は春の雨に煙っていた。坂の上までのぼり詰めると石碑があり、十七日ほどの戦いで、四千人以上の死傷者を出して薩軍が四散したことを記した、陸軍大将有栖川蟙仁の撰文が刻まれている。
さらにその先に足を進めたところで、江藤は思いがけず、もう一つの小さな文学碑を見つけて大きく心を動かされた。
戦前の「日本浪曼派」の詩人で、十六歳の三島由紀夫の『花ざかりの森』を見出した国文学者、蓮田善明の詩碑であった。この植木町に生まれて旧制成城高校の教員などを務めながら、雑誌『文藝文化』の中心として活躍した。陸軍中尉として中支や南方の戦線を従軍したが、マレー半島のジョホールバルで終戦を迎えた直後、通敵行為を告発して連隊長を射殺、直後に拳銃で自裁した。四十一歳だった。
碑文の「ふるさとの驛」と「かの薄紅葉」という言葉をたどりながら、江藤は「一種電光のような戦慄が身内を走った」と告白している。
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫という、自裁したこの三人を、歌碑に刻まれた「ふるさとの驛」と「かの薄紅葉」の詩句がつないでいる―。江藤は明治十年の西郷の〈滅亡〉をたどるなかで、ゆくりなく三島由紀夫の〈産土〉にめぐり合ったことに驚愕するのである。
「この時空間には、昭和二十年の時間も、昭和四十五年の時間も、ともに湛(たた)えられてめぐりくる桜の開花をまっていた」と。
平成七年の江藤淳もまた、滅びゆく近代日本の殉教者の連環のなかにいた―。
エピローグ 〈物語〉へ
三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。
「あの日」に駆け出しの記者としてそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態が終わっていたのであろう。
記念館は戦前の陸軍士官学校本部であり、戦後東京裁判の法廷となった大講堂などとともに残された総監室は、かつての陸軍大臣室であった。
敷地自体が六本木から防衛省本省が移転して、構内はまったく様相を一変しているが、正門からなだらかな坂道を登っとところの記念館は、昔日の総監部の面影をとどめている。正面玄関からあがった二階の総監室の広さは五〇平方㍍に満たない。総監の執務机とその前の接客用の応接セットを除けば、それほどの余分な広さはない。この小さな空間で総監の監禁が行なわれ、救出のために封鎖された扉を蹴破って入室しようとした佐官らが、三島と「楯の会」のメンバーに次々と切り付けられて重傷を負った。
そして正午過ぎ、すぐ南面にあるバルコニーに降り立った三島は呼集された自衛官たちを前にして最後の演説を行い、「天皇陛下万歳」を唱えて総監室に舞い戻ると、その床に正座して割腹自決した。横に立った森田必勝が介錯した。すべての〈儀式〉の舞台となった総監室には、いまも前室につながる扉に三島が救出の武官との攻防の際に日本刀で作った刀傷が遺されている。それが半世紀を隔てたこの部屋の、深々とした静寂を切り裂いているかのようである。
「楯の会」の制服に身を固めた三島が、四人の若者を従えて益田兼利総監に面会したのは午前十一時すぎである。明るいカーキ色の服地の左右に六個ずつのボタンで飾った、見慣れない派手な制服姿の訪問に益田はいささか驚くが、以前からの約束であったので「よくいらっしゃいました」と迎えた。
着席した三島はそこで、手にしてきた室町末期の作の佩刀を披露する。
「そんなものを持ち歩いて、警察に咎められませんか」
益田がそう三島にただしたのは、職務と場所がら当然であったろう。
「これは美術品だから大丈夫です」
三島がそう説明して刃紋を磨くために、後方に控えた小賀正義に「ハンカチ」と命じたのが合図で、行動が起こされた。椅子の益田はそのまま後ろ手で両手首を縛られた。
「三島さん、冗談はよしなさい」といったその口も猿轡で拘束された。
「楯の会」の隊員たちは内側から施錠した出入口に室内の家具を動かしてバリケードを作り、そこへ救出の自衛官らが体当たりして突入を試みる。扉の一部が壊れてなだれ込んだ幕僚たちに、三島が立ちはだかって「出ろ!出ろ!」と咆哮する。刀が振り下ろされて、深い傷を負う人が相次いだ。
修羅場と呼ぶのがふさわしい。三島たちが扉の隙間から投げ込んだ「要求書」を総監部が受け入れて、バルコニー下の広場に在庁する自衛官が呼集される一方、非常事態の通報で警察が出動する。正午過ぎ、三島は総監室からバルコニーに降り立って集まった自衛官たちを前に演説を始めた‥‥。
記念館の総監室の下にある車寄せの屋上にバルコニーが広がっている。
彼方に鬱蒼とした皇居の森を見晴るかすことができた。
これはどこかで見たことのある眺めではないか。
十年余り前、三島が〈分身〉である四人の男を通して〈戦後〉という同時代をまるごと描こうと試みて、壮大な失敗作と評された長編小説『鏡子の家』の主人公が棲む家は、この市ヶ谷の台地に連なる高台の坂道の途中に建てられた西洋館である。男たちが集まるこの家にも二階にバルコニーがあり、主人公の鏡子は神宮の森が映す美しい夕景に「世界の破滅」を予感している―。
総監室の下の広場に集まって来た自衛官たちが、あちこちから演説に野次をとばす。上空を報道機関などのヘリコプターが旋回して轟音を響かせている。総監室からバルコニーを眺めると、それは観客席を真下に見下ろして、あたかも画然と仕切られた〈舞台〉である。三島とその私兵部隊による占拠、自衛隊幹部を人質とした〈蹶起〉の呼びかけと挫折、割腹自決という、一時間余りの経過は一見、その「檄文」が伝える通りの政治的な目的を掲げたクーデターの失敗にみえる。しかし、はたしてそうだったのだろうか。
あらかじめ三島と森田の割腹による自裁という到着点から逆算したような、分刻みの周到な計画は、三島の巧みな戯曲を思わせる。クライマックスはこのバルコニーという〈舞台〉の演説であり、直後の二人の死でそれは完結した。象徴天皇と戦後日本の伝統文化、戦力を否定された自衛隊と憲法など、〈政治〉への憤りを三島はそこで滔々と論じたが、つまるところそれは、彼がこの舞台で演じる〈聖別された死)の賑やかな書割というべきものではなかったか。
一九六八(昭和四三)年に書いた『太陽と鉄』で、三島はこのように告白している。ボディービルやボクシングで肉体を鍛錬して〈戦後〉と和解し、復興から成長へ向かう時代を鮮やかに切り取った作品は次々とベストセラーとなった。舞台や映画、写真などでメディアの寵児となり、ノーベル文学賞の有力候補にも推された。そのような〈戦後〉の一切を彼は葬って、甘美な破滅と崩壊を待ち望んでいるというのである。ここには〈戦後〉という迷宮の膨張した気圧に耐えきれずに「劇中の人」としてバルコニーに立つ一人の作家がいる。
その時、どこかで十五歳の時のあの詩の畳句(リフレイン)が響いていたのではないか。
〈わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに街並の
むかうからおしよせてくるのを
(「凶ごと」)〉
*
三島由紀夫の〈蹶起〉が政治的にはほとんど「無効」であったことは、ほどなくあきらかになった。司馬遼太郎は三島由紀夫の異形の死の直後の論評でそこに政治的な意味を認めず、ひたすら文学者の自死の系列にそれを置いた。感情移入を退けた冷静な論述に司馬を導いたのは、「陽明学」という幕末に膾炙した独特の行動哲学の影響とともに、三島がその来歴のなかにはぐくんで破裂した「ロマン主義」の奔流を認めて、その歯止めのない氾濫を危ぶむ同世代の歴史作家の醒めたまなざしがあったからではあるまいか。
ナチス時代のドイツを生きた政治学者のカール・シュミットは『政治的ロマン主義』のなかで、〈虚構〉と〈現実〉が境界を失い、反転して政治を動かしてゆくこの近代の浪漫的な精神のメカニズムを、つぎのように説いた。
〈彼ら〉が語る実在はいつもほかの実在と対立しており、「真なるもの」「純正なるもの」は現実的なるもの現在的なるものの拒絶を意味し、結局のところ「どこか他の所」、「いつか他の時」でしかなく、要するに「他者」にすぎない―。シュミットの定義する、政治的なロマン主義という精神のありかたを社会的な〈詩〉や〈狂〉の一つの類型とするならば、三島由紀夫は確かに同じ近代社会の浪漫的な幻影のなかで〈詩〉と〈狂〉を生きようとしたのである。
三島が〈蹶起〉で生命を賭して再興を企てたのは、〈日本〉という祖国とその伝統であった。浪漫者としての彼の行動様式を「耽美的パトリオティズム」と呼んだのは、同世代で深い信頼を寄せていた政治学者の橋川文三である。
パトリオティズムは「祖国愛」や「郷土愛」と訳される。その由来する心情を、橋川は「祖国とは私たちが子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地であり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、植民地渡来の品物を飾っていたお隣の店のショーウインドウのことである」という、ドイツの社会学者ロベルト・ミヘルスの言葉に語らせている。
三島由紀夫は、日本人の歴史のつらなりのなかで〈祖国〉が呼び起こす美的な記憶を〈みやび〉と呼んだ。「幽玄」から「花」「わび」「さび」などに結晶した〈みやび〉の伝統を通して、詩から政治までをつなぐ究極の美の総覧者が〈天皇〉なのである。『文化防衛論』に繰り広げているのはそのことであり、一九七〇年十一月二十五日の〈蹶起〉はその延長上にあった。
戦時下の少年時代、中世にさかのぼる祖先たちの物語を纏綿とした擬古文で綴った『花ざかりの森』で早熟な才能を見出された三島が、学習院の恩師、清水文雄の推薦で初めて作品を掲載した『文藝文化』は、当時保田與重郎を中心に伝統への回帰を掲げて戦争翼賛文芸の一翼を担っていた『日本浪曼派』につらなる雑誌であった。保田は『万葉集の精神』などの著述のなかで、防人歌や相聞歌を通してもう一つの〈日本〉という仮想の民族共同体をよびおこした。
『日本浪曼派』は一九三〇年代、日本が総力戦体制へ向かうなかで起こった文芸運動で、古代へのあこがれと伝統への回帰を主張に掲げた。保田与重郎や亀井勝一郎、神保光太郎らを中心に、伊東静雄、檀一雄、太宰治といった作家や詩人らも加わった。昭和十年代の日本が戦時体制に向かうなかで、国民のナショナリズムを喚起するという点でも一定の役割を果たした。
十代の三島はこのころ、『日本浪曼派』の保田與重郎に心酔して、わざわざ奈良の自宅に面会に訪問したことを『私の遍歴時代』に記している。
ギリシャの神々をうたうヘルダーリンの詩やカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの神秘的な風景画にドイツの建国の歴史をたずねた「ドイツロマン派」を鏡に、「日本浪漫派」は伝統のなかに〈祖国〉を掘り起こす「機因」を探った。その「日本への回帰」のつらなりのなかに、少年の三島由紀夫もいた。
*
加齢と、川端康成のノーベル文学賞受賞に伴う作家としての危機感、強い英雄願望と〈死〉の哲学の蠢動、〈日本〉の伝統への回帰と深まる〈戦後〉への幻滅、〈象徴天皇〉への嫌悪と改憲への夢想、私兵組織「楯の会」と同性愛的な紐帯への渇望‥‥。まことに、そこには〈三島由紀夫の死〉を取り巻く夥しい問題群が、半世紀の時間を超えてそのまま積み上げられている。
「なぜ」という問いに対する決定的な答えは、いまもみつからない。
さりとて〈蹶起〉がいかに三島自身にとって深刻な〈日本〉への危機意識に動機付けられていようとも、〈自裁〉という結果を前提として計画され、それが成し遂げられた。これは市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーという「最後の舞台」に仕組んだ、「劇中の人」三島由紀夫の浪漫的で演劇的なたくらみの結果というのが、今日ではもっとも説得的な答えではなかろうか。
事件の一週間前に文芸評論家の古林尚と行った対談で「自分をもうペトロニウスみたいなものだと思っている」という三島の発言をとらえて、のちに徳岡孝夫がローマ皇帝ネロの側近で『サチュリコン』の作者と言われるこの古代の文人政治家の最期をそこに見出しているのは、慧眼である。
ポーランドの作家、シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』のなかで、皇帝ネロの不興を買ったペトロニウスは、花々で飾られた美女が侍る贅沢な饗宴の席で、客たちにこう語りかける。
ペトロニウスは客人たちにこう述べたあと、皇帝ネロへの痛烈な批判を読み上げ、医者に命じて自身の動脈を切って死の褥につく。美しい女奴隷エウニケを道行に従えて。
のちに〈昭和元禄〉と呼ばれ、高度経済成長の宴のさなかの日本にあって、三島がたくらんで成し遂げた自裁に、この古代ローマの文人政治家の〈美しい死〉の影を見出すことは、おそらく容易なことであろう。
少年時代から彼が自らの美のよりどころとしてきた『聖セバスティアンの殉教』で、矢を受けて苦悶する青年の裸像が中世以来、欧州社会で殉教者や同性愛者の聖画として語りつがれてきたように、〈楯の会〉の制服でバルコニーに立って咆哮する〈MISHIMA〉の図像は、〈切腹〉というおどろな死の儀式と相まって、二〇世紀の〈日本〉を繙くミステリアスな表象となった。
『ハドリアヌス帝の回想』の著者として知られるフランスの作家のマルグリット・ユルスナールは、三島由紀夫が自裁してから十年後の一九八〇年に書いた『三島あるいは空虚のヴィジョン』の書き出しにこうのべている。女性初のフランス学士院会員となったこの作家のまなざしは、短い評論ながら周到に三島の作品と事件の背景に及んで、二〇世紀日本の鬼才の死の謎に、西欧文明のまなざしを通して歴史を読み解く一筋の光をあてた。
〈狂気〉と〈殉教〉のあいだの奇怪な死をめぐって、国内では半世紀にわたって甲論乙駁の議論が繰り返されてきた。〈楯の会〉という私兵集団と〈切腹〉という伝統的な死の儀式を伴った異国的)な〈物語〉が、〈日本〉をめぐる国際的な輪郭をおびた神話になってゆくのは必然であったろう。ユルスナールはその舞台となった市ヶ谷のバルコニーの終幕を歌舞伎の心中話の合対死に見立てて、三島と森田、そして〈天皇〉という三者のトライアングルにたどりつく。
ユルスナールが三島のきらびやかな才筆によせるまなざしは懇切で行き届いており、西欧という異なった文化と風土から分け入ってゆく独特の視点が、この作家の国際的な評価に興味深い解釈をもたらしている。しかし、その異様な演劇的自死をもたらした背景については、戸惑いを隠していない。
没後の〈MISHIMA〉をめぐって夥しい言説が行き交うなかで、まことに逆説的な一石を投じたのが、四十年後の二〇一〇年に松浦寿輝が書いた小説『不可能』である。
これは、一九七〇年十一月二十五日に三島が自裁に失敗して生き残り、公判で有罪判決を受けて二十七年の服役ののちに、仮釈放されて二一世紀の日本を生き延びているという物語である。
現実の設定としても、あり得た物語である。周到に舞台を準備しながら、寸分の手違いでそれが失敗することがありうることを想定した三島は、事件の直前に渡したジャーナリストらへの手紙にもそのことを記した。
当日の〈蹶起〉の時刻前に自衛隊や家族らへ問い合わせることなどを厳しく禁じて、事前の情報の漏洩を防ぐ一方、万一計画が不首尾に終わった場合、「この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切お忘れいただくこと」まで付言している。おそるべき周到の人であるからには、万が一の計画の〈失敗〉で生き延びたのちの人生という想定も、心の片隅にあったのであろう。
『不可能』のなかで三島は蹶起の当日、自裁に失敗して瀕死の重傷を負いながら逮捕され、裁判で無期懲役の判決を受けて服役する。平岡公威として二十七年後に仮釈放されたとき、既に七十二歳になっており、そこから『天人五衰』の老人、本多繁邦を彷彿とさせるような、奇妙な廃墟を生きる三島の老年の日々が描かれてゆく。
住まいは東京の西郊の雑木林に囲われて建てたコンクリートの邸宅で、地下室のバーにはジョージ・シーガル風の石膏の人物が置かれ、街のざわめきを音声で流している。〈平岡老人〉はそこで孤独な酒を楽しみ、鏡に映る自分を観客に見立てて、手品の練習をする。すでに市ケ谷台で起きた過去は失敗した〈愚行〉として清算されている。
思いついてスコットランドを一人で旅してみたり、十二人の匿名の会員による秘密のクラブを組織して目的のない会合を開いてみたりする。あるいは伊豆の山中に作った入り口のない「塔の家」をめぐって起こる〈日常〉の揺らぎ‥‥。それらはいずれも、寄る辺のない老残の時間に仕組んだ遊びであるが、老境でようやく三島が手にした皓々とした〈自由〉でもある。
あの『天人五衰』の終章、八十一歳の本多繁邦が老骨を砕いて運んだ奈良・帯解の月修寺で、門跡になっている綾倉聡子から「松枝さんという方は、存じませんな」という答えを聞いた時の底のない虚無の世界は、少なくともそこにはない。
この仮想小説において三島が〈自裁〉に失敗した後に逮捕され、裁判ののちに服役した三十年は全く白紙の時間であり、そこから舞い戻った二一世紀初頭の老境にいたってはじめて、三島は戦後の彼を拘束し続けてきた、あの世界との〈乖離〉の感覚から解放されるのである
これは一九七〇年十一月二十五日に仕組まれた〈神話〉を解体するために、その四十年後の三島に作者がたくらんだ、巧緻でいささか不気味な〈物語〉の試みである。
*
しかしながら、現実の三島が生きた〈戦後〉の二十五年という歳月は、彼にとって果たして本当に「鼻をつまんで通り過ぎた日々」だったのだろうか。 戦後すぐに三島が書いた短編『遠乗会』は、没落した華族の末裔たちが荒廃した世相のもとに繰り広げる、典雅な物語である。
一九五〇(昭和二五)年に書かれた『遠乗会』は、このような書き出しで始まる。当時、三島の心酔していたレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の冒頭、「ドルジェル伯爵夫人の心のような心の動き方は、果して、時代おくれだろうか?」の借用であることはいうまでもない。
舞台は戦後の日本がまだ連合国の占領体制下にあった頃である。
頽廃と混乱の世相の下で、恋人の歓心を買うために息子が起こした些細な非行に疑心をもった葛城夫人は、乗馬の会で探り当てた相手の娘の思いがけない溌剌とした姿を見て、すっかり心を許してしまった。偶々そこで、夫人が娘時代に真摯な愛の告白を受けながら、ふとしたわがままで縁談を断った相手の由利将軍に再会し、過ぎた日の密かな恋のもつれに秘めていた心が騒いだ。
新緑に霞んだ江戸川堤で、乗馬服に身を包んだ有閑階級の男女のまどいに、敗戦の没落と疲弊の気配が漂っている。郊外の乗馬会を舞台に、戦争を挟んだ二つの世代がそれぞれに秘めた恋の揺らぎが交錯する佳篇である。
葛城夫人と由利将軍との間には〈戦争〉という時間と、敗戦で崩れた〈世間〉という空間が作る乖離がある。遠乗会のあとの懇親の場で、長い空白の歳月を隔てた二人はぎこちない会話を交わした後、お互いの若い日を振り返って由利将軍が「みんな忘れてしまった」と大笑すると、夫人もそれに応じた。
これは戦争という〈椿事〉を待ち望みながら、まみえることなく〈戦後〉を迎えた三島由紀夫が、ようやくその新しい時代の息吹のなかに身を投じて描いて見せた、ロココ風の「雅宴図」と読むことができる。
フランス革命という瓦解をその先に控えたロココ時代の画家、ジャン・アントワーヌ・ヴァトーの雅宴図『シテール島への船出』を、三島がこよなく愛好したことは、すでにふれた。画面にまだ革命の流血や硝煙の気配は微塵もうかがえない。揺蕩う貴族たちの宴の時が、淡い憂愁とともに描かれている。
遠乗会の騎手の交代地点で馬を待ち受ける葛城夫人の前にあらわれた少女、大河原房子の可憐で清純な美しさが、まだ見知らぬ〈戦後〉という時代へ寄せた三島の「希望」の表象であったとすれば、この『遠乗会』という作品はやがて〈迷宮〉となって破裂してゆく彼の〈戦後〉への入口であり、はたまたその行き詰まった〈戦後〉からの出口にもつながっていたに違いない。
〈MISHIMA〉をめぐる物語はその後も絶えることなく続いている。
戯曲の『サド侯爵夫人』は没後、三島の名前を国際社会に伝説化したという点で最も広く世界に知られた作品であろう。革命前のフランスで、娼婦や少女を集めて加虐と性的倒錯の宴を繰り返して獄につながれたアルフォンス・ド・サド侯爵をめぐって、貞淑と献身を貫いて孤閨を守る夫人のルネを中心に、その母親のモントルイユ、妹のアンヌら六人の女性たちの対話劇である。
旧体制のモラルを代表する母親のモントルイユはこういう。
ところが革命が起こって貴族たちが逃散してゆくなかで、手を尽くしてようやく監獄から解き放たれた夫が十九年ぶりに自由の身を取り戻した途端、留守をして来た妻のルネは突然離縁を申し出て、修道院に入ってしまう。
「私の思い出は虫入りの琥珀の虫」
ルネのこの台詞は、男と女の間の情愛が社会的な禁忌をはさんでたどる不思議な〈変容〉をとらえて、間然するところがない。そして、ここにも三島のなかの〈戦後〉という主題が隠されていることを、見逃してはなるまい。
国内の初演は一九六五(昭和四〇)年の劇団NLT公演で、松浦竹夫演出、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子らが演じている。一九七九(昭和五四)年にはフランスのルノー/バロー劇団によるフランス語公演が草月ホールで行われているほか、二〇〇八年から二〇一〇年にかけてフランス、英国で現地スタッフとキャストで公演された。イタリアやドイツ、スウェーデン、アラビアなどでも上演されている。
舞台ではついに現れないサドという人物をめぐって、六人の女性がそれぞれ貞淑、道徳、神、肉欲、無邪気、民衆といった価値をまとって、あたかも「惑星の運行のように」丁々発止のゆるぎない台詞がせめぎあう。それは〈三島由紀夫〉を今日に伝える象徴的な物語にふさわしい。
没後五〇年にあたる二〇二〇年秋には、モーリス・ベジャール振付のバレエ『M』が、東京と横浜で上演された。三島の親しい友人だった黛敏郎が音楽を担当し、ドビュッシー、エリック・サティ、ラベルなどの作品に合わせて三島の生涯と代表作からベジャールが創作、一九九三年に上演した舞台である。
この作品は東京バレエ団によってパリのオペラ座、ミラノのスカラ座、ベルリンやハンブルク歌劇場などで上演されてきた。タイトルの『M』はもちろん三島の頭文字だが、同時にモーリスのM、黛のM、そして三島作品の大きな主題である〈海〉(La Mer)や〈死〉(La Mort〉、〈神話〉(la Mythologie)などをあらわすという。
舞台は『潮騒』にはじまり、『仮面の告白』『鹿鳴館』『鏡子の家』『金閣寺』『午後の曳航』『憂国』、そして『豊饒の海』と主だった作品をモチーフにした華麗な場面を男女の踊り手がつないでゆく。
終幕に向って「楯の会」の制服姿の踊り手たちがあらわれ、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」の調べが高まるなかを、桜吹雪の下で少年の三島が切腹する。シャンソンの『待ちましょう』の歌声とともに、それまでの作品の登場人物が次々と現れで踊る大団円は一転、冒頭の『潮騒』の場面に回帰する。それは三島の〈死〉が新しい〈生〉へと円環してゆくという、日本や東洋文化に深い造詣を持っていたベジャールの伝言でもあったろう。
われわれはそれぞれの時代の〈国民の物語〉を持っている。もはや過ぎ去った時代の幻影といわれようとも、歴史に刻印された〈物語〉は繰り返され、そこから生まれる新たな意味や異なった理解がそれを〈成長〉させる。没後半世紀を経た〈三島由紀夫〉という戦後日本の物語がいま投げかけるのは、その謎に包まれた死をめぐる「説明競争」を超えて、〈戦後〉という時代にこの国がはぐくんだ束の間の〈成功〉の夢の陰画である。
失敗した〈事変〉から半世紀を経たいま、改めて残された「檄文」を読みかえしてみると、先を急ぐ粗略な言葉の行間に三島が募らせた危機意識から響いてくるのは、戦後の〈日本〉という国家への幻影に退潮する〈伝統〉への夢想を重ねた、悲壮でいたましい浪漫者の慟哭である。
グローバリゼーションの広がりとともに、日本人の〈祖国〉へ向かう情念は枯渇へ歩みを速め、経済の低迷や人口減少による国家の収縮に苦しむ二一世紀のこの国には、かつての成長の時代の夢想は望むべくもない。それは三島が予言した通りの半世紀であった、ということである。一九七〇年十一月二十五日の物語は、日本の〈戦後〉という異形の時代の終わりへ向けて三島由紀夫が命がけで演出した、賑やかで残酷なレクイエムだったのではなかろうか。 〈完〉
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