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晩翠怪談 第33回 「魔法のケーキ屋さん」

割引あり

■魔法のケーキ屋さん

 恵菜さんという、現在30代半ばになる女性が体験した話である。
 小学3年生の時だという。学習発表会で彼女のクラスは、合唱をすることになった。

 誰もが知っている童謡や当時流行っていたテレビアニメの主題歌など、全部で3曲を唄うのだけれど、恵菜さんは合唱には加わらず、ピアノの伴奏をすることになった。
 当時、彼女は母親の教育方針でピアノ教室に通わせられていた。
 だから他のクラスの子たちに比べれば、上手にピアノを弾くことができた。
 けれども極度の緊張症でもあったので、大勢の人前で演奏すると指が震えてがたつき、思うように実力を発揮することができなかった。ピアノ教室で毎月開かれる発表会では、いつも途中で演奏が閊えてしまい、先生と母親に怒られてばかりいた。
 だから本当は、伴奏などしたくなったのだけれど、クラスでピアノを習っているのは自分だけということもあり、同級生たちから強い推薦を受けてしまう。

 固辞したものの、担任からもお願いされてしまい、泣く泣く承諾することになった。
 基礎はできているので練習を始めてまもなく、演奏自体は程よくこなせるようになる。だが、本番でも同じように弾ける自信はなかった。何百人もの児童や保護者を前に演奏するのかと考えただけで、練習中でも呼吸が乱れ気味になる。
 発表会を観に来る母親の叱責も恐ろしくて堪らなかった。母は恵菜さんが大きな役を任されたことに喜んでいたが、その半面、恵菜さんに多大なプレッシャーもかけていた。
「とにかく大事な舞台なのだから、いつものような失敗は絶対に許されない」
「もしもしくじったら、お母さんも恥をかく。だから覚悟を決めて臨みなさい」
 期待と脅しが綯い交ぜになった、険しい表情で語りかける母の姿に意気込むどころか、ますます萎縮することになった。

 そうした気疎い日々が続き、いよいよ本番が翌日に迫った夜のことである。
 悶々とした心地でようやく眠りに落ちると、恵菜さんは奇妙な夢を見た。
 夢の中で恵菜さんは、小さなケーキ屋の中にいた。
 目の前に立つショーケースの中には、美味しそうなケーキがずらりと並んでいる。
 店内の壁には、温かな色みを湛えた木目調の茶色いクロスが貼られ、壁際に置かれた銀色の什器には、ロールパンやサンドイッチなど、無数のパンが並んでいた。
 店じゅうに漂う甘い香りに陶然となり、色とりどりの洋菓子に目を奪われていると、ショーケースの向こうから「こんにちは」と、声をかけられた。
 見あげると、ショーケースの向こうに白いコックコートを着た恰幅のよいおじさんが立っていて、笑顔でこちらを見おろしていた。
 白髪頭に大きく丸い鼻をしたその顔は、どことなく『それいけ! アンパンマン』に出てくるジャムおじさんを連想させる雰囲気があった。
「明日はいよいよ本番だね。気分はどうかな。まだまだ緊張しているのかい?」
 おじさんの問いかけに恵菜さんは寸秒間を置き、「うん」と答える。
 すると、おじさんは優しい声音で「君ならきっと大丈夫」と、励ましてくれた。
「どうせ失敗するに決まってる。わたし、怖い。上手く演奏なんかできっこない……」
 さらに恵菜さんが答えると、おじさんはゆっくりと首を横に振って、こう言った。
「ならおじさんが、魔法のケーキをご馳走してあげよう。食べると不思議な力が湧いて、つまんない緊張なんか、あっというまにどっかへ吹っ飛んでいってしまうケーキだよ」
 快活な口ぶりで言い終えるや、おじさんは店内の片隅にある小さなテーブルセットへ恵菜さんを座らせ、まもなくケーキがのった皿を運んできた。
 皿の上には真っ赤に熟した苺のショートケーキと、チーズケーキが並んでいる。

 どちらも恵菜さんの大好物だった。
 ケーキは思わず、はっと目を瞠るほどの美味で、甘味も食感も抜群に素晴らしかった。夢中になって口へ運び始めると、皿の上はたちまち空になってしまう。
「どうだい? 力が湧いてきただろう?」
 ケーキを食べ終えるのを見計らうようにして、テーブルの端に立っていたおじさんが、にこやかな笑みを浮かべて尋ねてきた。
 言われてみると確かに、つい先ほどまでざわざわしていて落ち着かなかった気持ちが嘘のように鎮まり、ゆったりと落ち着いた心地になっていることに気がついた。
 加えて妙な高揚感とともに強い自信も湧いてきて、一刻も早くみんなの前でピアノを弾きたいという気分にもなってくる。これは本当に魔法のケーキなのだと思った。

「どうだい? もっと食べたいかい?」と訊かれたので、すかさず「うんッ!」と答え、今度はチョコケーキとシュークリームをご馳走してもらった。
 夢の中だからなのか、ケーキはいくらでも食べることができた。
 一皿目のケーキに負けず劣らず美味しいチョコケーキとシュークリームを完食すると、さらにはミルフィーユとチェリーパイ、プリンアラモードなどもおかわりさせてもらい、得も言われぬ色とりどりの甘味を心ゆくまで堪能した。
「魔法のケーキをいっぱい食べれば大丈夫。みんなが君に拍手喝采、発表会は大成功だ。明日は楽しくピアノを弾くんだよ!」
 賑々しい笑みを浮かべたおじさんに檄を飛ばされると、身体の内から湧きだす自信はますます強まり、思う存分やってやろうという気持ちになる。
 それから十個近くもケーキを平らげたところで、ようやくお腹がいっぱいになった。
 人心地ついて充足の吐息を漏らしているところへ、視界がもやもやと薄白く霞み始め、夢は萎むようにしてふつりと終わった。

 それは異様なまでに生々しい夢だった。翌朝目覚めてからも恵菜さんは、おじさんの姿を始め、夢の中で交わしたやりとりの全てをありありと思いだすことができた。
 ケーキの味も、口の中に余韻が感じられるほど鮮明に覚えている。
 さらには、ケーキを食べて湧きだしてきた奇妙な自信もそのまま立ち消えることなく、胸の中に残り続けていた。こんな夢を見たのは、生まれて初めてのことだった。
 夢の中でおじさんが言っていたとおり、まるで魔法のようだと感じた。

 その日の学習発表会での演奏は、大成功を収める結果となった。
 登校してからも自信は少しも薄れず、いざ本番が始まって体育館の舞台に設えられたピアノの前に座っても、緊張のきの字すら感じることがなかった。
 同級生の指揮者がだした合図とともに鍵盤を叩きだすと、自分でも信じられないほど伸びやかな気持ちで、全ての曲目を一度も閊えることなく演奏することができた。
 観客席からの大きな拍手で演奏を終えたあとは、舞台の袖でも担任と同級生たちから過大な賛辞を贈られ、天にも昇りそうな気持ちになる。
 夢見心地で帰宅すると、発表会を観に来た母からも笑顔で大いに褒めちぎられた。
 ピアノの演奏で母から褒められたのは、実に久しぶりのことだった。
 予期していた以上の成果と賞賛に、恵菜さんの胸は大きな幸福に満たされた。

 発表会が終わった晩も夢を見た。
 壁面に木目調の茶色いクロスが貼られた小さなケーキ屋の店内で、恵菜さんは店内の片隅にあるテーブルセットに着いている。
 眼前にはたくさんのケーキがのった皿が置かれ、隣の椅子にはおじさんが座っていた。
「どうだい? 魔法のケーキの力はすごかったろう? 発表会は大成功だったね」
 おじさんは満面を綻ばせ、「今日もたんとおあがり」と言った。
 勧められるがまま、弾んだ心地でフォークを手に取り、さっそくケーキを食べ始める。口いっぱいに広がる苺ショートの柔々とした食感と芳醇な甘味に、思わず笑みが零れる。
 そうして、皿の上にずらりと並んだケーキを夢中になって口に運んでいる時だった。

 ふいにおじさんが、恵菜さんの太腿の上に手を乗せた。
 はっとして顔をあげると、満面に奇妙な笑みを浮かべたおじさんが、恵菜さんの顔を覗きこんでいる。それは先刻までの優しい笑みとは異質な、目を合わせているとなぜだか胃の腑がしんと冷たくなってくる、得体の知れない不気味な笑顔だった。
「発表会の演奏が大成功だったのは、おじさんが作った魔法のケーキのお蔭だよね?」
 にまにまと下卑た形に目を細め、不穏な含みを帯びた声音でおじさんが言った。

 一瞬、言葉が詰まったものの、小さな声で「うん……」と答える。
「だったらお礼をしてほしいな。本当にちょっとでいいからさ」
「なんだろう……?」と困惑し始めるなり、おじさんの手が太腿の上をゆるゆると滑り、恵菜さんの穿いているスカートの中へ入ってきた。
 とたんに背筋がびくりと波打ち、あらん限りの悲鳴があがる。
 それでもおじさんの手は、スカートの中に深々と潜りこんだままだった。
 とっさに握り締めていたフォークを、おじさんの顔に向かって突き立てる。
 フォークの先端はおじさんの右目にずぶりと音を立てて刺さり、穴の開いた眼球から半透明の汁が、どろりと頬を伝って零れだした。
 おじさんは右目からフォークの柄を生やしたまま、獣じみた凄まじい絶叫を張りあげ、両手で顔を覆い始める。
 恵菜さんはその隙を突いて椅子から立ちあがると、店の玄関に向かって脱兎のごとく、一目散に駆けだしていく。

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