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晩翠怪談 第35回 「お車で」「煙顔」「あるいは再来」

割引あり

■お車で

 厚木さんは市街の住宅地に立つ一軒家に暮らしている。
 彼が高校時代に体験したという話である。8月の遅れ盆、迎え火の日のことだった。
 夕暮れ時、2階にある自室でくつろいでいると、母が階下から「迎え火の準備を手伝って」と声をかけてきた。窓ガラスの向こうは、暗みを帯びた藍色に染まりかけている。
 窓を開けて何気なく外の様子を見ると、家の前に延びる狭い道路に長い車の列ができていた。

 いずれも黒いボディの車である。
 車は路上の片側車線に間隔を詰めて一列に並び、家の前をゆっくりとして速度で流れていく。
 元々、混み合うような道ではない。こんな光景を見たのは初めてのことだった。
 近所で葬式でもあるのかと思ったのだが、どうにもしっくり来ない。不審に思いながら階下へおりると、さっそく母に事のあらましを伝え、玄関戸を開けてみた。

 門口から見える路上には、車など1台も走っていなかった。
 門口から路上に出てみても、やはり車は1台も見当たらない。
 母から「夢でも見たんじゃないの?」と笑われ、「違う!」と抗議したのだが自信はなかった。狐に摘ままれたような心地で門口に迎え火を灯す。
 明々と燃え盛る炎を見つめるさなか、ふと周囲で妙な気配を感じた。
 さわさわとささめくような、言葉にならない小さな声がたくさん聞こえてくるように感じられ、それに合わせて衣擦れの鋭い音や幽かな足音などが、周囲の至るところから聞こえてくる。

 ような気がする。
 顔をあげ、辺りを見回しても、そうした気配を発する人影は見当たらなかった。
 ただ、目には視えざる怪しい気配だけが方々から間断なく感じられ、近所の人口密度が一気に増したかのように思えてならない。
 もしかしたら今年はみんな、車でこちらへ帰ってきたのだろうか?
 思いつくと妙に納得してしまうものがあり、厚木さんは背筋を少し震わせながら門口で燃える迎え火をしばらく見つめ続けたそうである。


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