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分からないことは『怖い』? その①|LGBTQと、人の〝尊厳〟

こんにちは、よう子です! 今日は〝差別〟について、すこし勇気を出して書きます。

途中、社会への怒りが含まれていますが、誰か個人への怒りではありません🙇💦 
もちろん、画面の向こうのあなた(読者)への怒りではありません。☺️ 


 何かを人に伝えるためには、たくさんの、前提の共有を必要とします。
 このnoteの読者は、『わらべうた・子守唄に興味があるひと』とザックリ仮定していますが、きっと、当然、いろんな考え方の人がいて、私「よう子」とは違う環境で育ち、違う経験を積んできているのだから、違う常識をもっていると思います。

 私たちはみんな、違う常識のなかで生きています。それ自体は、悲しいことでも何でもありません。

 私は今とても、〝私たちはお互いを分かっていない〟という部分を、もっと確かめ合わなければと思っています。慎重に、やわらかいものに優しく触れるように、確かめ合うときの〝摩擦〟こそ恐れず愛せるように。丁寧な擦り合わせをしなければならない……という気持ちにかられています。

 どうやったら共有ができるのかと、私はいつも、ずっと悩んでいます。


ひとつ、私が目指しているのは『誰も置き去りにしない社会』です。これはひとつ確かなこと、いつも言っていたいこと。前提の話です。

だから、まずはその〝前提の話〟に辿りつくための、「最近こんなことが起きていて、私はこんなことを考えている」の話をします。今日はそのためのnoteを書きます。


……さぁ、この長い前置きを読めた人しか、ここにはいないはず!

ふるい落とし(失礼(笑))ができたことを安心材料にして、もうちょっとチルな感じでここからは書いていく。はぁ。深呼吸。よし。


◼️マリフォー・札幌高裁の違憲判決


マリフォー・MFAJについて!

『結婚の自由をすべての人に』
Marriage for All Japan 
よく知らない方も、以下のニュース👇をぜひ! 読んだり、聞いたり、してみてください。


【文章で読めるニュース】

【耳から聴けるニュース】


『結婚の自由をすべての人に』訴訟
いわゆる〝同性婚訴訟〟と呼ばれているもの。私もLGBT当事者として、いつも気にしているニュースです。

※補足
『結婚の自由をすべての人に』Marriage for All Japan

一般にいわれる〝同性婚〟よりも、実際はもうちょっと広い概念・考え方。
この世にはいろんな性別と性的指向がある(例えばあえて己の性別を定めない人もいる)から、〝同性愛者〟だけでなく〝全ての人〟に、本来は結婚の自由があるべき。

Marriage For All Japan という団体なので、
『マリフォー』『MFAJ』などの略称があります!


このニュースをきっかけに……


この違憲判決で、そしてその報道で、いろいろと言語化してもらえたことが、私は嬉しかった、ありがたかった。


話し合いは大事だけど……「〝人権〟に関しては『意見の一致』を待つ、ってものじゃない。」
※上記:3/14のラジオsessionにて 寺原真希子弁護士がそういう意味のことを言ってくれていた。

もはや、意見の一致ができてない、を、やらない理由(言い訳)に取り上げてる場合じゃねぇんだ、と。

ここの言語化、自分にとっては大事だった。✊
怒りのスイッチを入れなきゃいけない時の、心強い文言として、覚えておきたい。

これは〝人権〟の問題だ。

『認めないことが、尊厳を傷つけている』
誰だったか、報道番組で、この言葉を言ってくれていて、それも嬉しかった。

このニュースをきっかけに、私達のことを考えてくれる人がたくさんいて、嬉しい。
そして、私もまた、いろいろと考えた。



◼︎よく『怖い』と言われてきた


「本当にLGBTってそんなにたくさん居るのかな?」とか、「よく分からなくて怖いなぁ」みたいなことを、今までは普通に言われる世の中だった。

MFAJのおかげで報道量が増えることが、率直に嬉しい。世の中が変わることを期待したい。

いきなり『怖い』と言われることに、私はビクビクしていた。
でも、報道量が増えれば、隣の人が急にそういうことを言いだす確率が減る気がする。だから嬉しい。
(なんだかすごく低レベルなことで喜んでいる気もするけど、今の自分には、普通に嬉しい。)


まずは、うっすらと知ってほしい。うっっっっすい理解でもいい。
うっすらと「あ、もう言わないほうがいいっぽい」と思ってくれたら、それだけでも私はひとまず嬉しい😌✨

〝悪気なく〟「社会がどんどん変わっていくって、怖いよね」と普通に言われる世の中だった……。

世の中を、変えていけるかもしれない。
そういう前向きな気持ちをもちながら。

──私が抱いてきた、『怖い』という言葉への違和感。これについて書きたい。



言葉のなかみを、想像してみた


『怖い』という言葉のなかみを、想像してみた。

〝悪気がない〟場合が大半であるのは、分かっている。
(向こうに悪気がない言葉だからこそ、こっちがいちいち辛くなる……。)
(他人の些細な言葉ひとつで振り回されている自分に、いつも自己嫌悪する。)

おそらく、そこに私を傷つける意図などはなかった。
きっと『怖い』という言葉には深い意味などなかった、深い意味なく発せられた感情表現だ。

それしか語彙を持っていないか、口癖になっているだけか。もしくは、それほど強く『危機感』を共有したかったか、誰かに共感してもらいたかったか……。


はたまた? 雑談のなかで、LGBTQ+や関連ニュースの話がでたから、なんとなく自分の感想を述べただけ。かもしれない。
「そういう人って、本当にいるのかな? なんだか怖いなぁ」と。

でも私は、いきなりそういう話が始まるかもしれない、と思うと、人に会うことが怖くなった。怯えるようになってしまった。
深い意味なく発せられていると、頭では分かっていても、心は動揺した。

『怖い』って何なのだろう? その感情は、なんなのだろう。

困惑? とまどい? ドキドキする? 不安? 

得体が知れないもの、何をしだすか分からないもの? これまでの調和が乱される、という感覚……? 

「勢いが怖い」とか、「圧を感じる」とか、「どうなっちゃうんだろう」とか。今の自分を否定される感覚を恐れているのだと思うけど。

ずいぶん、マイナスのイメージを持たれているんだなぁ、と感じた。



──そう言われると、私はこんな風に感じる。




私はその言葉を聞くと──目の前で、扉をピシャリと閉じられた感じがする。

そして、私はいま普通にあなたの隣にいるのに? と思う。私が〝LGBTかもしれない〟とは思わないのだな、と。

「あぁ、『まだカミングアウトのできていないLGBTが自分の隣にいるかも』という発想・想定が無いのか……? じゃあ、しょうがない」と思った。

仕方がない、と自分を納得させようとしてみた。


……でも想定がないって、それでいいの???🤔
そういう社会でいいのかな?🤔

しかも、怖いっていうその感情は、意見を言う自由、で言っていいことなのか?

『ハッキリ自分の意見を言うこと』と、
『感情をそのまま吐きだす』ことは違うんじゃないか???🤔 


……私は、「隣にいるという想定があってほしい」と思った。知ってもらえたらいいなぁ、と。

「でも、知りたくない、って事かな?」とも思った。「拒絶の意思表示かな」と。(私がカムアウトしない限り、相手に直接「拒絶ですか?」と確かめられないのは、しんどい状況だ。)


私は、この違和感を、誰か個人への怒りにしないために、言葉を探した。

個人を責めず、こんなしんどい状況を生んでいる社会への怒りにしたかった。そういう表現をするために、いろいろな言葉を探した。



打ち解けた間柄だからこそ、愚痴を吐き出す感覚で、思いつきで話してしまうことがあるかもしれない。

私も、そうだ。しかも、親しい人との会話ほど要注意なのだ。うちとけた集まりの会話ほど、要注意。
たぶん無意識のうちに「今は思いつきで話してもいい」という前提を、相手と共有した気になっているからだろう、と思う。

どんな間柄でも、思いつきで言ってはいけないことがある。
差別とは何か、もう少し広く認知されていってほしい。認知、広めていきたい。


 


何を、どこを目指しているのか?


〝より良い社会〟をつくるための話し合いのなかでも、差別が量産されることがある。

〝より良い社会〟のための話し合いをしているはずの場所で、ネガティブなステレオタイプ(先入観・偏見)が増幅されていると、違和感を覚える。
「どこを目指しているんだろう?」と思う。

なんか、何を目指しているのか、何のために話し合いをしているのか、分からなくなる。
どうしてそうなるんだろう? と、自分なりに考えてみた。

〝より良い社会〟として思い浮かべているものが、人によって違うからだと思う。

私が目指しているのは、誰も置き去りにしない社会



私が目指しているそれは『誰も置き去りにしない社会』だけど、みんなが思い描いている〝より良い社会〟は、どんな社会なんだろう?


『怖いことのない社会』かな、『成長可能な社会』かな?
そこの丁寧な共有を、やったつもりで忘れていたり、見失っていることがある、そんな気がする。


例えば、怖いことのない社会、をつくる話し合いだとしたら、こういう意見が出てくるかもしれない。

「怖いものを、できるだけたくさん、この世から減らそう」
「変な人が増えないように、今の子どもをしっかり教育しよう」
これを、どう思うだろうか?



私は、排除の思想かな、と思う。差別かな?と思う。


『怖いものが生まれてこないようにしよう』っていう感じからは、優生思想── を連想する。

バリア(障壁)はもちろん取り除きたい。でも、取り除くだけでいいのかな?って思う。
取り除いたあとの器を、何で満たしたらいいんだろう。

もちろんこれは、私の感覚、私の意見にすぎないけれど。

『怖い』が拡散してきた排除の思想、差別感情は多いと、そう感じている。


だから私は、『怖いことのない社会』じゃなくて、『誰も置き去りにしない社会』を目指したいと考えている。このニュアンスの違いは、言葉の揚げ足とりではなく、私にとってはすごく大事なこと。だから伝えておきたかった。

まずはそれを、お互い分かった気にならず、共有したい。

「そのための話し合いをしませんか?」と、言葉だけでなく自分の行動を通して、私の姿をとおして、いつも呼びかけていたい。それが理想だなぁと思う、夢見ている。

(私は世間知らずの理想家なのかもしれない。)(でも、ひとりじゃない。きっと大丈夫。)



めちゃくちゃ長くなったので、ここで一旦、区切ります!

その② 『怖い』で思考停止しないために へ、続く……。

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