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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー⑨

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第8話(前回)

「私、ツグちゃん。いまどこにいるんだろう……」
「最悪に面倒な酔い方をして電話かけてこないでくれる?」

 数日ぶりに聞いた妹の声は、暮れの大気に温みを覚えるほど冷めていた。漂う迷惑そうな気配が彼女のしかめ面を宙へ描き、いよいよ酩酊を自覚する。それでも口は負けじと回った。

「さっき間違えて前の家に行っちゃってさ。鍵は入らないわ、知らない人が出てきて、お互いに誰? ってなるわでさ。ぶっちぎりで今年の赤っ恥大賞だと思わない?」

『前の家』は十八歳までを過ごした貸家の一軒家だ。両親が暮らしている2LDKのアパートは、私たちの大学入学を期にふたりだけが引っ越した場所だった。
 八畳一間を兄妹三人で奪い合うほど窮屈な平屋だったが、私にとってはもう他人が住んでいても、実家の感覚が残っていたのかもしれない。新しい住人の訝しげな顔を見るまで、何ひとつの疑問もなかった。

「人に迷惑かけないでよ。聞いてるこっちが恥ずかしいんだけど」
「はあ? 私の方が恥ずかしいよ。思わず酔いが醒めたね」 

 無機質な街灯はそろいもそろって他人行儀で、夜道を照らす仕事だけを淡々とこなしている。その青白い光の下をゆるゆるとそぞろに歩いて、歩いて、歩いて。このまま全国を周って地図でも作ろうかなんて思考をぶら下げながら、街を彷徨った。
 喫茶店を出てからの足取りは霧がかっているが、ふらりと寄った酒屋を後にしたとき、橙色に染まる石畳へと延びた長い影がひとりぼっちで、寂しさが胸に落ちたのを覚えている。腕時計によると、それから五時間が経ったらしい。

 研ぎ澄まされた刃物に似た空風が、末端の感覚を奪っていく。自分のものとも分からない右手は、酒瓶やショート缶を詰めたレジ袋が絡まってうっ血していた。

「ツグ、外にいるの? 危ないから、とりあえず歩かないで座ってよ」
「四季の広場に来たけど、これで四週目だよ? さっきから帰ろうとしてもここへ着いちゃって町内から全然出られないの。最近流行ってるよね、なんだっけ。……脱出ゲーム?」

 緩やかな坂で意味もなくボックスステップ。下っては戻りを繰り返して広い公園の中央に立つ。春にはひな壇に植えられた水仙や桜で華やぐ場所も、今はうすら寒い闇色に包まれていた。
 二十二時も回ったのに通行人がまばらにいるのは、隣に神社があるせいだろう。

「じゃあ、そこでしばらく休んでて。待て、お座り。シットダウン。わかる?」
「なに、私に一芸仕込もうって? いいよ、ほらお手。伏せ。ちん――」
「ちょっと! でかい声でやめな」
「鎮座のちんだよ、ばーか」

 もつれた脚のまま踏ん張ろうとしたが失敗して、ベンチへ体を打ち捨てた。レジ袋も地面へ放る。ぶつかり合った中身がけたたましい音を立て、薄暗い街灯でも周囲の人が振り返る気配を察した。

 電話越しからメグミがわざとらしいため息を漏らしてくる。

「あのさあ。そこ、あたしたちもよく二年参りに行ったでしょ。生徒に見られたらどうするの」
「もう会ったよ。七人くらい」
「多すぎない?」
「どいつもこいつも『先生お酒ー、お年玉ー』って。先生はお酒でもお年玉でもない!」
「……お酒、あげたりしてないでしょうね」
「するわけないでしょ。お年玉ってスルメ渡してきたよ」
「で、ツグはなんでそんなにべろんべろんなの」
「内緒」

 意志を介さない会話は舌が踊ってこなしてくれた。けれど、少しでも思考が芽生えると脳が拒むのか、火が燻るように頭の隅がちりちりと痛む。

「女は秘密がある方が美しいでしょ」
「切っていい?」
「あー待ってよう。というか後ろがうるさいけど、メグこそどこにいるの」
「新幹線。もうすぐ名古屋」

 先ほどから聞こえ始めた念仏は、乗り換えを告げる車内放送のようだ。

「年末は『なめろうデート京の旅』じゃなかったっけ?」
「食べ歩きツアーみたいな名前を付けないで。その予定だったけど、さっき別れたから帰って来てるの。どうせなら京都観光をしてくれば良かったかな」
「は? なんて?」

 鈍い頭と耳を研ぎ澄ませようと、取り出したウイスキーの角瓶を思わず直にあおってしまって咳込む。
 気だるげにメグミが繰り返したセリフは、数秒前とまったく同じだった。

「それより、京都でおみやげを買い忘れたから名古屋みやげになるけど、希望はある?」

 都会の街並みよりも目まぐるしいメグミに、私はついていけない。

「ないなら『あんトースト最中』にするよ」
「ええ……なんでそんなに平然としてるの」
「あたしだってツグに話を聞いてもらうつもりだったけど、自分よりも醜態をさらしている人間を見ると、冷静になるもんだね。どうでもよくなってきちゃった」
「なに、誰の話? なめろう?」
「あんたの話だよ」
「なんで別れたの」

 道端に落ちた吸い殻に向けるような感情の無い声で、浮気だと返してくる。

「あたしを含めて五人もいて笑えちゃった。五人だよ? 日替わり定食かよ。先週はディズニーデートして、一昨日は福井にいる遠距離の子のところへ行って、今日は京都旅行で、年明けは松本に住んでる人のところだったかな……すごくない!?」
「それ、気づかないあんたも相当だよ」
「だからスケジュール管理が完璧なんだって。もう仕事の域。どうしてそのガッツで音楽をやらないかな。載れるでしょ、夢だったなんとかボードに」

 話し出すうちに憤りか驚愕か悲しみか、すべてがない交ぜになった気持ちが蘇ってきたのか、声が太く熱を帯びてくる。それでも自分の居る場所は忘れていないようで、ボリュームを抑えて怒れる器用さが彼女らしかった。

「先週までカラオケで『あなたとふたりで~生きていきたい~』とか歌ってたくせにさあ。何人と生きていくつもりだよ。だいたいおめー、よしろうだろうが。って感じで、腹立ったからスマホを叩き割って帰還ってわけ」
「過激派だね」
「でしょう?」

 彼女のことだ。件のよしろうくんもスマートフォンと同じ惨状になっているかもしれない。

「けど、今さらじゃない。浮気のひとつやふたつや三つや四つ……はさすがに多すぎるけど、しそうな人だったよ。年越しに選んで貰えたならメグが本命だろうし、許したら? そもそも、結婚なんて考えてなかったんでしょ」

 喧噪に紛れ、メグミが浅く息を吐いたのがわかった。

「あんた、それ本気で言ってんの」

 声のトーンを落として口早に言い切る。長年の経験から、ここで茶化すと喧嘩になるだろうと、曖昧な相槌だけを打った。

「確かに、先を見据えてる奴じゃなかったけど、ならいい加減に付き合うって選択はおかしいでしょ」

 語尾を上げたので意見を訊かれたのだろうけれど、思考は砂のごとく零れていく。

「そもそも、いつか別れるつもりで将来を考えてなかったわけでもないから」
「頭、回らないから難しい話はよして」
「ただ一緒に居られれば良かったってこと。結婚っていう目的に向かうんじゃなくて、今を全力で楽しいね、って言い合っているうちに将来が築けているのが自然でしょ。もし駄目になったとしても、思い出は残るものだしさ。でも浮気なんて受け入れたら、今を全力っていう根底が崩れるじゃない」

 頬を打つようなきっぱりとした物言いが、わずかに酔いをさらった。

「変な例えだけど、あたしたち高校のときはずっとバスケ一色で、けどプロを目指してたわけじゃないでしょ? だからって適当にやろうとか、ツグは思った?」

 否定の意志は音にならず、白い息がもやのまま目の前で漂っては消えた。

「銀行の窓口でぺこぺこするだけの生活にバスケは要らないしさ、部活なんて大抵そういうものなんだろうけど、悪くなかったなって思えるのは、馬鹿みたいに必死でやったからじゃないかな。どこかに辿り着くことだけがすべてで、それ以外は無意味だって考えていたら空しいよ、色んなことが」

 終わりかけている今年一年が、並び違えたパラパラ漫画のように頭の中を断片的に流れていく。

「そうだね。無意味じゃなかったって、信じたいよ」

 少なくとも、いい加減ではなかった。何ひとつの正しさはなく、目指す場所のない旅に似た日々だったけれど。
 私のかすれ声はメグミには届かなかったらしい。

「真面目だねえ、メグちゃんは」
「なにそれ」
「私なんかより、ずっと」

 メグミは駅に着いたのか、ひそめていた声のボリュームを上げてぼやいている。

「指定席取ったけど、無駄になっちゃったな」
「ごめんごめん。ねえメグ、今日帰ってきてよ」

 不意に、正真正銘の片割れである彼女と、他愛ない話を続けたくなった。

「メグに会いたい」
「何やめてよ、気持ち悪い。あたしだって帰りたいけど、もう電車がないからさ」
「タクシーはあるよ?」
「いくらかかると思ってるの」
「私が出すから」

 なんて愚かだろう。酔いが回って分別が働かないくせに、判断力が地に落ちているのは自覚できた。

「え、本当に? いや、やっぱいい。もったいないでしょ」
「大丈夫。早めのお年玉をもらったから」
「お年玉って、誰から」

 数秒考えて、冴えないチビのオッサンだと、疑問形で答える。

「何それ。パパ活でもやってるの?」
「そんなわけないでしょ。佐久間先生だよ」
「佐久間? ……ああ、なんだ五十嵐か。っていやいや、五十嵐からお金を貰うのもおかしいでしょ」
「うん、おかしいよね」

 意味ありげに笑ってみせた。

「なんで」
「知りたい?」

 頷いたメグミの興奮が、顔を見ずとも伝わってくる。

「今日中に帰って来たら教えてあげる」

 私はメグミに打ち明けてしまいたいような、でも彼女にだけは知られたくない矛盾した気持ちを抱えたまま、賭けをしてみた。日付が変わるまでにメグミが帰って来られなかったら、一生、彼女には黙っておこう。

「今日中って、あと一時間半もないけど」

 ホームを駆けているのか、メグミの息使いは荒くなり始めていた。本当にタクシーを使ってもいいのかと、しつこいくらいに念を押してくる。
 今ならトラックも素手で止められる全能感に支配され、ベンチに体を沈めながら見えない彼女に何度も首を振った。

「出口にタクシーいたから乗るよ? ねえ、本当に乗るよ。絶対に請求するから怒らないでよ? すみませーん、飯田までって行ってもらえますか? はい、長野の。すっごい飛ばして今日中に! え、本当ですか?」

 行けるかも、とはしゃぐメグミの高揚した声色に、今さら気づかされる。彼女もきっと酔っているのだと。

「じゃあ帰るから、あとでね。あ、そうそう。連絡したらお兄がそっちに向かってくれるみたいだから、それまで大人しくしてて」

 スマートフォンを滑り落としそうになり、慌てて手に力を込める。

「どうしてお兄に言ったの」
「どうしてって、今のツグをひとりにしたらそこらで撥ねられたり凍死したりするでしょ。勘弁してよ、新年早々から葬式なんて」
「だからってさ」

 それではなんのために、わざわざ実家を避けたというのか。
 陽気な声を最後に通話が切れると、遠くを走るトラックの走行音が途端目の前から響くような気がした。

 兄が来るより先に帰ってしまいたかった。けれど、身体はベンチを終の棲家と決めたらしい。降参して上半身だけを横たえると、正面で輝く半分の月が、弦を上にして西の空から周囲を青白く染めていた。すぐ側に寄り添うひときわ大きくまばゆい星は、何というのだろう。今まさに、山の端へ隠れようとしている。
 星々が滲むようにぼけるように、揺らいでかすんで、意識が遠のいていくのがわかった。

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