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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー⑧

第1話
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第6話
第7話(前回)

「キリがいいじゃないですか。今日は大晦日ですよ」

 この数ヶ月、きっと切り出すタイミングを見計らっていたはずなのに、先生は身じろぎもせず、呼吸すらはばかるように押し黙っている。

「あの、何か言ってくれません?」
「明日になったら、後悔するぞ」

 小物じみた発言に、思わず頬が緩んだ。

「なんで脅しみたいになるんですか。でも……それでもいいです」

 どうせいつであっても、後悔はするだろう。

「罪悪感というのとはたぶん、違いますよ。私、ずっと怖かったんです。いつか取り返しがつかないことになったとき、そのときになって琢磨先生に疎まれるのが。こいつと関わったから人生が狂った、やめときゃ良かったって、私の存在が先生の中で汚点になってしまうのが、一番嫌だったんです。嫌、なんです」

 未来がないのなら、何ひとつ残らないのであればせめて。このしょうもない退廃的日々を、夢のような幻想のまま終わらせる。枯れ果てた花束を美しいドライフラワーだと信じて、やがて気づく日まで抱きしめていく。
 欺瞞だと嘲られる滑稽さでしか自分を救えないのは、道に反した者の報いというものなのだろうか。

「俺、信用されてないのなあ」
「信用できる要素がどこにあるっていうんですか」
「それもそうか」
「そのときは先生のこと、殺すかもしれませんよ」

 緊張がほどきかけた先生の顔が再び色を失う。

「冗談に決まってるじゃないですか。怖がらないでくださいよ」
「笑って言わなきゃジョークは伝わらんぞ」

 苦笑しながらどちらともなくカップを口へ近づける。いつもの私たちらしい、弛んだ空気が流れ始めていた。
 半分は冗談で、しかし残りは本気だったのかもしれない。この世に存在しないものが手に入らないのであれば、諦めがつくというものだ。

「今さら過ぎますけど、あの人には憎まれたくないって思いも多少は出てきてしまったので」

 私の中で記号的だった”先生の奥さん”が、ゆかりさんというれっきとした人間の形を持ってしまった。おまけにそのお腹には新しい生命がある。開き直って悪役に徹せられるほど、自分を貶める勇気はなかった。

「やっぱり、ツグは最後に決めてくれるよなあ」

 大きな手のひらに覆われた表情は読めなかったが、指先から漏らした声は、懐かしい言葉をかけてくれた昔とは別人みたいにやせ細っていた。

 ごめんな。頭を下げる先生の、自由な蓬髪だけを茫然と眺めた。

「大したものじゃあないんだよ、俺が持ってる全てなんて。けど失う想像はしたこともなくてさ、失わない安心感があるからこんなことができていたんだろうな。大したものじゃないとか言っても、すべてを投げうってツグと生きるかって訊かれたら、頷けはしないんだよ。そういう度胸は、俺にはなくてさあ」

「……わかってますよ。先生はそこまで馬鹿じゃないですから。それに、罪滅ぼしですよね。付き合ってくれたのも」

 それは買い被りすぎだと呟いて、先生は目を伏せた。

「ずっとこのままでいられないかと、心のどこかで思ってた。そんなのは償いじゃあないだろう?」

 前言を撤回したくなる発言に、黙って長い息を吐く。結局私たちは、最後まで互いに身勝手なままだ。

「もしも」

 無益だとわかりながらも、自身の問答への決着を、どうしてか先生へと伝えずにはいられない気分になる。

「もしも高校の頃からやり直せるとしても、私はきっと、同じ道を選びますよ」

 その答えに辿り着かせてくれた日々を振り返ると鼻がつんと痛み、歯を噛みしめないと泣けてしまいそうだった。
「戻れない時間を考えても仕方ないけれど」と、前置きのあと先生は続ける。

「あんな冗談でごまかさないで、ツグの想いに頷いてりゃあ良かったな」

 嬉しかったんだけどな。

 七年越しに返事を貰えてよかったと喜ぶべきか。今になって知りたくはなかったと悔いるべきか。自分の心さえ遠い偉人の心中みたいに掴みどころがなく、私は黙ったままテーブルに視線を這わせた。

「そういう未来も欲しかったなんて望むのは、欲張りなんだろうな」

 数秒だけふたりの間に下りた沈黙を、私は軽いため息で吹き飛ばした。

「罰当たりますよ。あんないいひとそうな奥さんがいるのに、そんなことを考えてたら」
「今さらだろう。それに、ツグだっていい女だよ」

 安っぽいセリフに浮き立った心が腹立たしくて、精一杯ゆっくりと喋った。

「本当にいい女は既婚者に手を出したりはしないので。ただ、都合がいい女です」

 先生は感心したのか、ふむと唸って目を見開いている。

「なに納得してるんですか。刺しますよ?」
「いや待て、やっぱり笑うな」

 別れ話なんて、某氏に言わせればいかにも悲劇名詞じみたものを、そのまま扱ってしまうのも癪だ。財布を取り出した先生の前に手を伸ばした。

「一万円くらいくださいよ。慰謝料です」
「そんな義務はないだろう」

 苦笑いのまま、けれど先生は裏表を揃えた二枚の万札を丁寧にテーブルへ置く。

「でもまあ年末だしな。うまいものでも食ってくれよ、メグでも誘ってさ」

 部活の合宿、遠征の帰り道。こんな調子で大人らしい羽振りの良さを披露してくれた日々が、もうずっと遠い。

「……慰謝料っていうなら、少な過ぎるか?」

 冗談めかした声にこころは軽くなった。
 先生は浮かせた腰を戻して、

「ああ、そうだ」

 と私を見据える。

「気まずいのはわかるけど辞めないでくれよ、仕事。きっかけは邪でも、積み重ねてきたものは嘘じゃないからな」

 白々しく教育者の顔を作り、ひょいと伝票を摘まんで先生は立ち上がった。私はそれを奪い取ってから、先に帰ってくれと告げる。

「己惚れないでくださいよ。辞めませんから、今のところは。向いているかはわかりませんけど、かといって他にやりたいことがあるわけでもないので」

 かつての自分と同じ場所にいる生徒たちが、どんな大人になっていくのか。見飽きた校舎のそこかしこで想像する時間も嫌いではない。

「そうか、なら良かった。まあ、俺もそろそろ異動かもしれないから、それまで辛抱してくれよ」

 曖昧に頷いた。いつか私たちは同僚という細い糸すら切れ、互いを過去にして生きていくのだろう。その頃には今日の感傷もくだらない遊戯だったと笑い飛ばせるだろうか。

「じゃあ、俺は行くよ」

 まだ明日の自分さえ描けない私は、旅の終わり、車窓の向こうに見知った町が映り始める寂寥感が胸に満ちていた。流れ出したエンドロールは止められない。

「佐久間先生」

 衝動的に先生のコートへ手を伸ばして、けれど、もうどんな言葉も意味をなさないと気づく。
 最後の最後で思い出すのは、絡めた指の感触でも、重ねた肌の温度でもなく、好物だというナポリタンを家で作ってあげたとき、箸で啜っていた横顔だった。

「ツグは甘みが強い味付けなのか。クセになる味だなあ」

 どうしてだろう。

「ありがとうございました。……好きですよ」

 涙の代わりに見せたあさましさを、誰にわかってもらえなくてもいい。先生は無言のまま立ち去った。口角を上げようとして失敗したのか、震わせた唇を結び、眉間に深く皺を刻んだまま。

 細めたとも歪んだともとれる目の奥で光った雫を見た瞬間、濁った沼を裂く朝日のごとく生まれた感情は喜悦だ。あの途方もなく純真であろう、晴れた空にぽかりと浮かぶ雲のようなゆかりさんは、先生にあんな顔をさせられるだろうか。先生のもっとも深部が作り出した表情を、私だけが垣間見た気がした。触れられた気がした。
 それが独りよがりの幸福な妄想だとしても構わない。

 数分間の脱力が数時間にも、半日にも感じられた。
 いつの間にかカウンターにいたマスターが、物わかりの良さそうな顔に野次馬心を滲ませてこちらを見ている。ぶつりと意図的に音楽が切られ、軽快なジャズが爆音で流れ始めた。

「When I Grow Too Old to Dream……ですよ」
「はあ」

 言葉は不要だと皺だらけの目尻が告げているようだったが、ひとつ言わせてほしい。音が大き過ぎる。
 私は二枚の紙幣を無造作にコートのポケットへねじこんで、席を立った。

 今年も、もうすぐ終わる。

【続き:第9話】

【第1話↓】


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